| しろがね(銀)も こがね(金)も玉も なにせんに まされる宝 子にしかめやも 山上 憶良 これは、平安時代の歌人山上憶良(やまのえのおくら)が詠んだお馴染みの和歌ですが、子どものかけがえのなさや、やむにやまれない親心がよく現れています。 憶良ならずとも、古今東西を問わず、およそ親たる者、わが子の健全な成長を願わない人はひとりとしていないと思います。しかし秋田小学生殺人事件など痛ましい事件が相次いでいるのを見るにつけ、その確信が揺らぎそうにさえなります。 私たちは、互いに連帯感を持ちながら、わが子、孫、そして隣近所のお子さんたちが、身も心も健やかに成長することを願って、日頃の「声かけ」や「あいさつ」を交わしながら、子どもの安全を守らねばならないと思います。 世の中には、溺れたわが子を救うために、自分が泳げないことも忘れて水に飛び込み、命を落とす親もいます。大きな災害のさなかに、母親が自分の体を盾にして子どもを守り、本人は命を失うことが時に起こります。母の死が子の生を保つという、実に痛切で厳粛な営みには、心が震える思いがします。 これはその一例で、1987年8月16日、アメリカで起きた実話です。 その日、ノースウエスト航空の225便はデトロイト空港から飛び立った直後、墜落し、155人が犠牲となりました。生存者はただ一人でした。アリゾナ州テンビから来たセシリアという名の4歳の女児だったのです。 ニュースが伝えるところによりますと、救助隊がセシリアを発見した時、彼らは彼女が飛行機にいたとは信じられませんでした。捜査員は最初、セシリアは飛行機が墜落したハイウエー上にいた自動車に乗っていたのではないかと推測しました。しかし、飛行機の乗客リストをチェックすると、セシリアの名前があったのです。 飛行機が落ちて行く時、セシリアの母、ポーラ・チカンは自分のシートベルトを外して娘の前にひざまずき、自分の腕と体でセシリアを包んで彼女が飛ばされないようにしました。その結果、セシリアは生き残ることができたのでした。 何ものも親の愛からその子どもを引き離す事はできなかったのです。母の愛は、悲劇も惨事も、墜落もその後の火災も、高さも、深さも、生も死も乗り越えました。 私たちに対する救い主の愛もそれと同じです。主は天を離れ、私たちと同じ所までご自身を低くされ、そして私たちを救うためにご自身の体を犠牲にして私たちを覆って下さったのです。 |
| 本格的な夏がやって来ましたが、皆様お元気でいらっしゃいますか。 さて6月12日付けの南日本新聞に「ザビエル"子孫" 鹿児島に上陸」という記事が掲載され、目を引きました。 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの生誕500年を記念し、水上バイクで足跡をたどる航海を続けるスペイン人冒険家アルバロ・デ・マリチャーラさん(45)が11日、鹿児島市の谷山港に到着したそうです。マリチャーラさんはザビエル一族の子孫で、14日まで滞在し、同市や日置市の市長らを表敬訪問したり、ザビエルゆかりの場所を訪ねる予定だと言います。 谷山港に上陸したマリチャーラさんは「勇気ある挑戦者のザビエルは、私のヒーロー。彼が未知の国・日本の扉をヨーロッパへと開いた鹿児島を訪れることが、長年の夢だった。鹿児島で多くの人と交流できるのが楽しみ」と語っています。 マリチャーラさんは4月7日にザビエルが没した中国南部の上川島を出港し、マカオ、香港、沖縄などに立ち寄りながら北上して来鹿し、更に長崎(平戸)や山口などを経由し、ゴール地点である東京へ向かう予定だと伝えています。 よく知られている通り、フランシスコ・ザビエルは、1506年4月7日にスペインのバスク地方の貴族の3男3女の末っ子として生まれ、1552年12月2日中国の広東近くの上川島(サンシャン)で病死しています。つまり子孫のマリチャーラさんは、ザビエル生誕500年に当たる2006年4月7日に、ザビエルの病没の地を振り出しに、ゆかりの地を歴訪するという訳です。ザビエルの日本最初の上陸地鹿児島市にとって、その子孫の来訪は何とも嬉しい限りだと思います。 イエズス会の宣教師として来日したザビエルの日本滞在は僅か2年余りの布教で、志半ばに日本を去り、再来日も計画していましたが、それも果たせませんでした。 しかし、その彼は日本人を「今まで出会った中で最も優れた民族」と評価しています。特に名誉心、貧困を恥としないことを褒め、優れたキリスト教徒になり得る資質が十分ある民族であると見ています。これは当時のヨーロッパ人の世界観から考えると驚くべき評価だそうです。そして最近知ったのですが、ザビエルは「日本の都に高等教育機関を」と願っており、その遺志が基になって1913年にイエズス会によって、上智大学が設立されたのだそうです。約360年の時間と約1万キロの空間を超えて働かれた神の御業を感じる出来事ですね。 |
| 新緑の滴るような季節になりましたが、皆様お元気でいらっしゃいますか。 さて、6月第3日曜日は、「父の日」ですね。前回「母の日の由来」について取り上げましたので、やはり「父の日」も取り上げないとバランスを欠くのではないか、とのご意見にも配慮して、今回は「父の日の由来」についてお話します。 「父の日」も、やはりアメリカで生まれました。 1910年にワシントン州のソナラ・.ドット(J・Bドット夫人)という女性が、「母の日」の礼拝説教を聞いていて、「父の日」もあるべきだと考えました。母親の亡き後、彼女と5人の兄を男手一つで育ててくれた父を敬愛していたからです。 父親の誕生月に合せ、ドット夫人は、自分が通う教会の牧師に依頼し、6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。1909年6月19日のことです。 これがきっかけで、ワシントン州では6月の第3日曜日が「父の日」となったのです。それから幾人かの大統領によって「父の日」に関する声明などが出されましたが、実際に国民の祝日として制定されたのは、1972年のことです。 日本では戦後間もない頃から一般的な行事として普及していきました。母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラです。ドット夫人が、父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからだとされています。 こうして、「母の日」も「父の日」も、クリスチャン女性によって、親への深い愛と感謝を込めて始められたのです。この日は、プレゼントやカードも結構ですが、何よりも心からなる感謝の気持ちを贈りたいものです。 日頃ごく当たり前のように考え、忘れがちな親の愛ですが、それは神様に対しても同じことが言えます。その愛が、あまりにも大きく、自然に私たちに注がれているために、感謝することをつい忘れがちです。この機会に、神様にも、心からの感謝を捧げたいものですね。 今日、親子関係・家族関係の難しい時代です。平穏なはずの家庭が荒れています。 私たちの教会では、具体的な子どもとの接し方(コミュニケーション方法)を提供しながら、お母様方への「子育て支援」を願っています。ご希望の折には、教会までご連絡下さい。お待ちしています。 (担当:親業訓練インストラクター 橋口市子氏) ご相談は、099-266-1357 へお電話下さい。 |
| 風薫る五月。皆様には大型連休を大いに楽しんでおられることと存じます。 さて、5月の第2日曜日は「母の日」、遅れて6月第3日曜日が「父の日」です。順序が逆だなあと思う方もおられると思います。それは母の日が先輩だから です。現在のように、「母の日」が5月の第2日曜日に行われるようになったのは、20世紀の初め、アメリカで母親思いの女性が起こした行動がきっかけでし た。 アンナ・ジャーヴィスという女性が、自分を育ててくれた母親の命日に追悼の意を表し、通っていた教会で「亡き母を偲ぶ」という花言葉の白いカーネーショ ンを霊前に献げ、亡き母を偲びました。彼女の母親は、生前に教会学校で「あなたの父や母を敬いなさい」という聖書の教えを熱心に説いていました。彼女も幼 い頃からそれを家庭や教会で聞かされ、彼女の胸に深く刻み込まれていたのです。このことが参列者に大きな感動を与え、全米へと広がっていきました。これを 機に、アンナは支援者と共に母に感謝の気持ちを捧げる休日を設けるように働きかけました。やがてその声が大統領にまで届き、1914年のアメリカ議会で は、5月の第2日曜日を「母の日」と定め、お母さん方に感謝の意を示すことになりました。 その後「母の日」は世界中に広がっていきました。日本に母の日が伝わったのは大正時代で、当時青山学院大学の教授だったアレクサンダー女史から紹介さ れ、キリスト教関係の団体が中心になってこれを広めました。昭和に入り、3月6日の皇后誕生日が母の日となりましたが、戦後、本家に合わせて、現在の形に なりました。 このようにして母の日にカーネーションを贈ることが定着していきました。そして現在では、カーネーションに限らず、自分が送りたいものや、母親が望む物を送るのが主流になってきているようです。 俗に「子どもは、親を映す鏡」とか「偉人の母は賢母なり」と申します。しかし昨今は、社会環境が悪化し、子育て、親子関係、家族関係が難しい時代です。親子が互いに「気持ちの伝わらないもどかしさ」を感じることありませんか? 私たちの教会では、具体的な子どもとの接し方(クミュニケーション方法)を提供しながら、お母様方への「子育て支援」を願っています。ご希望の折には、教会の平山(電話266−1357)までご連絡下さい。お待ちしています。 (担当:親業訓練インストラクター 橋口市子氏) |
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春風の心地よい季節となりました。皆様には、ご健勝のことと存じます。 |