チェロキー族
チェロキー族

〜過酷な強制移住〜『涙の旅路』
白人とインディアンの土地争いは、どこの地区でも同じであった。
インディアンの歴史に悲劇は付き物である。
多くの場合白人開拓者による ものである。
このチェロキー族最大の悲劇もその一つである。
 開拓が進む中、白人開拓者達は更に西へ西へと進んでいく。
1830年連邦政府はチェロキー族の全ての領地をジョージア州に併合した。沢山の条約(28)があったにも拘わらず白人開拓者達はチェロ キー族の永代保有地とされていた地域に押し寄せた。
1830年に連邦政府は、チェロキー族のすべての領地を バージニア州に併合。
そして、例の如くインディアンの追いたてが始まって白人 が流れこんできた。
インディアンたちは立ちのきを拒んだ。
やがてインディアン の領地で金鉱が見つかり地価が暴騰した。
1838年3月には、7000人の軍隊がチェロキー族の土地 にやってきて、少なくとも1万7千人のインディアンを狩り 集め用意してあった収容所へと追いたてた。
アンドリュー・ジャクソン大統領による(インディアンの)『強制移住法』制定の為である。
そのほとんどが、クリスチャンで読み書きもできる豊かな チェロキー族だったが、その目前で、白人の略奪者達は 家畜や家財道具を奪い家を焼きはらった。
こうしてチェロキー族のインディァン准州までの苦しい旅 が始まった。
最初、4000人がいかだで運ばれたが、あまりに犠牲者が 多く出た為に、それ以後の移動は陸路にきりかえられた。
一度に1000人ずつのグループが厳しい軍隊の監視つきで ナッシュビルまで歩かされ、そこでまた、輸送を待つ牛馬 のように柵の中に追い立てられた。
そして、1838年から1839年にかけての厳しい冬の初めに インディアン準州までの1000キロの長い旅に出発した。
病気と疲れに加えて、食糧と衣料(一人当たり1枚の毛布 しか支給されなかった)で、1839年3月に目的地に着く迄に 1万7000人のうち4000人以上が死んだ。
インディアンの間では、この悲惨な飢えの行進は涙の旅路 (『Trail Of Tears』)と呼ばれている。
また歴史家達は、合衆国史上極めて恥ずべき出来事と 呼んでいる。
当時でも、この事件で心を痛めたアメリカ国民は多くあり そうした白人達の強い要求によって、山に立て篭もった 数百人のチェロキー族のための保留地が1842年にノース カロライナ州に作られた。

その子孫が、東部チェロキー族として、現在5000人に増え その内、1000人以上は、保留地の外で白人に混じって 暮している。
今では保留地のインディアンは、林業や農業に携わったり 白人に土地を貸したり或いは、年々盛んになる釣り、猟、 乗馬、キャンプなどのレジャー業に携わったりして暮して いる。
インディアンの文化に対する認識が出来た為チェロキー族 歴史協会や、貴重な面を集めたチェロキー・インディアン 博物館も設立された。
またオコナラフティー・インディアン村と呼ばれるインディ アン村が復元されて、ここで実用的な道具類から面の様に 単なる装飾的な工芸品に至る様々な品を観光産業向けに つくっている。
骨董品店に並んでいる手のこんだビーズ細工 や手づくりの陶器、飾りのついた篭、石の矢尻、吹矢等が観 られチェロキー族の手先の器用さがわかる。
この村のインディアンは、観光による収入で暮している為、 多くの観光客が持っているインディアンに対するイメージを 壊さない様に気を使っている。
戦いの時に使う、ウォーボンネット(羽冠)を被り平原インディ アンの膝当てに似たものをつけて、トーテムポールの周りを叫び声をあげながら踊っている様子は、まるでディズニーランド にいる様な錯覚をおこさせる。
この保留置はフロンティアランドというアメリカ人とインディアン に関しての「歴史的」遺物である公園のおかげで潤っているがそうした物はチェロキー族には、全く関係のない物なのである。
もう一つ多くの人を集めている呼び物としては毎年開催の野外 劇で、「この丘のもとへ」がある。
この劇は、チェロキー族の400年に及ぶ波潤にとんだ歴史物語 だが舞台装置は現代的で、全体の構成は悲劇とミュージカル 仕立てになっている。
しかし、インディアンの若者の間には、こうしたいかにも観光客 むけの行事に反対する動きが、だんだん強くなってきている。
チェロキーインディアンは表向きは、バプティストモルモン派 ペンテコステ派等のキリスト教のどれかの宗派に属しているが伝統的な信仰も、いまだに根強く残している。

チェロキー族のある婦人は、インディァンの根本航宗教観念を こう説明している。
「東洋人は自然について考え白人は自然を利用して暮している しかしインディアンは自然とともに生きる」  チェロキーの逞しい生命力は、インディアン準州に移った 西部チェロキー族が、瞬く間に新しい生活を切り開いた事から も判る。
西部チェロキー族は、畑を耕し、仲間同士が結束して、近代的 な統治を始めた。
そして、再び、出版を始め、1844年には、英語とチェロキー語の 宗教雑誌を発行。
しかし、この急速な復興も南北戦争が勃発した事で、下火と なった。

南北戦争では大部分のチェロキー族が南軍についたがやがて 荒廃した土地に平和が戻り、部族の結束が回復すると、同じ インディアン準州に追い込まれた部族ークリーク族、チョクトー族、チカソー族、セミノール族、と 1874年に同盟を結んだ。 この同盟は、初めはユニオン・エージェンシーと呼ばれたが後 には、「文明化した五部族」として、知られるようになった。
この呼び方は同じ準州内に住んでいても昔ながらのインディ アンの暮らしにしがみついている他の部族と自分達とを区別 する為だった。
しかし、1887年に出来た土地割当法によってインディアン 準州内の8万人近くのインディアン一人一人に土地が割当てられると、この五部族 の結束は崩れた。
 そして結束で支えられていた同盟も間もなく消滅していった。
その後西部チェロキー族は、1906年に正式にオクラホマ州の 市民権を与えられた。
以後、白人との混血を中心とする多くのチェロキーインディアン がオクラホマの近代社会のあらゆる分野で重要な地位に就い ている。
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