シッティング・ブルと並ぶもう一人の英雄
“狂える荒馬”クレージー・ホース

西部開拓史上最も勇敢な戦士。その勇姿は見れずとも伝説となった。


クレージー・ホース
(狂える荒馬)
(ClazHorse)

オグララ・ラコタ族酋長本名   
タ・シュンカ・ウィトコ

Ta‐shunca-uitco)

(1849年〜1877年)
最後まで合衆国に挑みつづけた孤高の戦士。

シッティング・ブルの良きパートナーでもあった。
彼が残した「今日は死ぬにはいい日。」は、今や伝説となって伝えられる。
(顔写真は現存しない模様。)



クレージー・ホースは数多い歴戦の勇者の中でも筆頭に挙げられる勇者であった。
ラコタ族の生活を守らんとせんが為に戦いつづけてきた。

1849年に誕生した彼の幼少の名前(本名)は、「巻き毛」であった。
13歳の時のクロー族との戦いの時、馬泥棒という快挙を成し遂げた。
馬は、平原インディアンに限らず、彼等の最も大切な財産であり、それこそ、大事な馬となると、ティピーの外に繋いでいるものの、手首にロープを縛って迄眠るほどの重宝ぶりである。西部劇では、簡単にインディアンの持ち馬を暴走させてジ・エンドというパターンがあるけれどとても成功する訳は、ない。
また、見つかり捕らわれてしまった時に馬泥棒に待ち受ける運命は過酷な拷問の後のし「死」であったので彼の「豪胆」さと、「機敏」「冷静」さを物語っている。
だから20歳を越す前には、部族の戦士団のリーダー的存在となっていた。
「巻き毛」少年は、やがて父親であるタ・シュンカ・ウィトコ(狂える馬)の名前を襲名する。この名前は、彼の家計でも先祖代々受け継がれている由緒ある名であった。

 

スー族の有名な酋長といえば、天才軍師であるシッティング・ブルレッド・クラウドの名前が挙げられると思うが、ここで紹介する「クレージー・ホース」は、軍師としての才覚も、もちろん持っていたけれど、なんといっても、「狂える馬」の名前が示す通り戦士としての名声が占めていた。
白人との抗争での活躍は、もっぱら上記に挙げた二人の偉大な酋長と手を結んでの戦いが多かったようである。

 

インディアン対合衆国政府の対立が激しくなり特に苛烈になった1865年〜1868年にレッド・クラウド率いる部族との提携により、インディアン連合軍は、ますます白人達にとって脅威の存在となっていく。その間に起きたフェッターマン大虐殺事件などは、レッド・クラウドと手を握り戦士として大活躍していた。
ウィリアム・フェッターマン大佐率いる81人の騎兵隊を全滅される働きを見せた。
軍師として政治家としてのレッド・クラウドの手腕もさる事ながら戦士としてクレージーホースの名前を轟かせた事件であった。
クレージー・ホースは、部族間でも人気があり、戦士としての名声もであるが、彼等本来の生活様式を頑固一徹に守り通そうとした姿勢に共感を持たれた様である。
西部史に名を轟かせたインディアン戦士の中でも最も有名ながら、現存する写真が一枚も無いのは、束の間の白人との平和協定(ララミー条約など)の間、任意で写真が撮られる事もあり、シッティング・ブルやレッド・クラウドのは、存在しても彼の写真は、存在しない。頑なに白人文化を拒んできた為である。


1874年6月27日クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカーが、コマンチ族、カイオワ族南部シャイアン族の連合軍を率いてテキサスにあった白人の交易所アドービ・ウォールズを襲撃。
合衆国軍の徹底した報復戦に降伏。(1875年6月2日)条約でインディアンの専用地とされていたバッファローの住む地域に白人の猟師が侵入してきた事から始まった。
それが判明しているにもかかわらず、この襲撃に参加した戦士の多くはフロリダ刑務所に収監された。
また、残った部族の者達はオクラホマの居留地へ戻された。
この勝利に調子に乗った合衆国政府は、
ジョージ・カスターを始めとする各将軍に北部の平原インディアンを狩り集めて同じ様にインディアン準州(オクラホマ)送るように命令した。
インディアンは、扱い易い小さなグループに分散しているだろうと考えこの掃討作戦は容易く遂行できるものと考えられていたが、どっこい、そう簡単にはいかなかった。
シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残っていたかなりの数のインディアンを集めて協力な連合軍を作った。
インディアンのゲリラ戦法と身軽さには、重装備をつけて補給馬車を引く合衆国陸軍は叶わなかった。
こうして1875年〜1876年にかけての「冬の作戦」は、失敗に終わった。



クレージー・ホースは、1876年、連合軍のリーダー格になり、近接するシャイアン族の女性と結婚した。
そして1200人にも及ぶスー族を纏め上げシャイアン族とも手を結ぶ。
(シッティング・ブルの手腕もかなりある。)
同年3月17日。
パウダー川の戦い。
同年6月17日。ローズバットの戦い。


ローズバットの戦い

有名な1876年6月24日のリトル・ビッグホーンの戦いの一週間前の6月17日のこのローズバットの戦いは、合衆国陸軍ジョージ・クルーク軍総勢の第五騎兵隊の1000人とプレンティ・クー酋長率いるクロウ族とトム・コスグローブ率いるショショーニ族の二つの部族の連合軍合わせて300人の合計1300人が相手だった。
トム・コスグローブ酋長は、騎兵隊の指揮官を勤めた経験がありショショーニ族に合衆国騎兵隊流の戦術を仕込んでいた。
訓練の成果は上場で正規の騎兵隊も舌を巻くほどだったという。
ジョージ・クルーク軍団に対抗するは、スー、シャイアン軍の戦士1500人。戦場となったのはモンタナ州南東部の丘陵地で、騎兵が戦うには、うってつけの地形だったという。
このローズバットの戦いは丸一日続き双方の死傷者の数は比較的少なかった。被った損失はスー、シャイアン軍の方がジョージ・クルーク軍よりもやや多かったが両軍とも大いに勇猛を発揮して攻撃と反撃を繰り返し負傷した仲間を危険を省みずに救出する場面も多く見られたという。
そしてリトル・ビッグホーンの戦いの場合と異なり双方とも戦いに生き残った者が多く戦いの様子を後世に伝える事が出来た。
ジョージ・クルークと彼に味方したクロウ、ショショーニ族は戦いに勝ったのは自分達だと思い、その夜は大いに勝利を祝った。
しかし歴史的には戦いの勝者は、クレージー・ホースを始めとするスー、シャイアン族の指導者であった。軍事的な観点からは任務の遂行に成功した方が勝者であるとするならば、ジョージ・クルークの任務は北に進みジョージ・カスター(軍)達と合流する事だった。
しかし、彼はその任務を果たす事が出来ず補給を受ける為にワイオミングの方へ南下せざるをえなかった。
一方クレージー・ホース達にとっての任務とは、彼等の北方に集結しているスー、シャイアン族の大集落を守る事で彼等はその任務を果たす事が出来た。
その後、彼等はリトル・ビッグホーンの大集落に合流し、東からのジョージ・カスター軍に備えた。

(リトル・ビッグホーンの戦いは別枠で)
クレージー・ホースの最期

リトル・ビッグホーンの戦いでのインディアンの合衆国に対する勝利は、最大で最後のモノとなった。シッティング・ブル達は、カナダへ向かい(追い込まれて)合衆国はまたもインディアンを追い詰めていく。

しかしクレージー・ホースだけは、正面から立ち向かい、抵抗していた。
1876年〜1877年に渡り抵抗を続けていたが遂に1877年5月6日、おりからのバッファロー激減の為ネルソン・マイルズ将軍の下に降伏した。
監禁中妻を病気の親の元へ連れて行こうと嘆願したが、ジョージ・クルークは、彼が再びインデアンを集結させて戦いを挑むと疑念を抱き却下した。

しかし逃亡を計ったが、結局捕まってしまった。
最期にクレージー・ホースは、留置場へ連れられる時に抵抗し、その時衛兵の銃剣
によって刺殺された。

1877年9月7日。偉大な酋長であり戦士クレージー・ホース死去。

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