海洋インディアンの文化と歴史
海洋インディアン〜暮らし〜


ワシントン州とオレゴン州には、こうしたインディアンと似た文化を持つ 何十という部族が住んでいる。
その中には、サリッシュ語を話すルミ族、キノールト族、スカミッシュ族 などや、コロンビア川流域に住み、チヌーク語を話すチヌーク族などが ある。
このチヌーク語と英仏語が混同して出来たのがチヌーク・ジャーゴンで 商用語としては、北西太平洋一帯で広く使われた。
北西太平洋岸の部族はサケ、ニシン、タラ、ワカサギ、海亀、貝、水鳥 などの豊富な海の幸を捕って暮していた。
その他工夫を凝らした銛や棒を使ってアザラシ、アシカ、ラッコ、セイウ チ更に鯨まで捕っていた。
捕鯨ではヌートカ族がよく知られている。
銛を打つのは酋長の役目と決まっていたが捕鯨は大変な仕事だった。
この地域のインディアンは船乗りとしても優秀で船を作るのを得意とし ていた。
そして30人乗りで全長15〜20メートルもある航海用の船を造る技術を もっていた。 なかでも目を惹くのは、ハイダ族のつくった船で、美しくて細工しやすい エンピッピャクシンの木で作られていた。
大きなカヌーは、太いヒマラヤスギの幹を、火と斧を使って刳り貫いて 湯を入れて柔らかくしてから細工をほどこした。
内陸の森林地帯では、川で群れをなして泳いでいる魚を、ヤスや網等 で大量にとって食糧にしていた。
この地域のインディァンは、毎年産卵のために川を昇ってくる鮭や鱒 が大好物だった。
とくに味がいいのは海のサケで、中でもOncorhynchus Tshawytscha (マスノサケ別名キング・サーモン)は、名前のとおり45kgもある大きな ものである。
この「釣り人の夢」はチヌーク族の大切な食糧だったので今でもチヌーク ・サーモンの名が残っている。

この他、オオシカやカリブー、野生のヤギなどの肉も食べた。
野生のヤギは警戒心が強い為インディアンは特別な方法で音をたてず に近付いていた。
毛皮では、ビーバーとカワウソ(とても丈夫な毛皮がとれる)のものが、 特によく使われた。
こうした食糧がたっぷりあったうえに、さらに何種類ものイチゴや果物、 食用根などもとれた。
様々な材料が、たやすく手にはいったという。
この地域には、料理の上手な部族が多かったらしい。
以前、クワキウトル族のインディアンが、人類学者に150種の料理を教えた事があったがそれでもまだ レバートリーの全てではなかったということである。
チヌーク・オリーブも珍重されていて、これはオリーブの実を尿を入れた壷に漬けておいたモノらしい(!)

北西太平洋のインディアンは村ごとに一つの社会があり、入江や川沿いに、 血のつながった者たちが集まってくらしていた。

ヒマラヤスギを使った見事な家は、横一列にならべて建ててあり家と家と の間は数メートルしかなかった。

太い柱と梁の骨組みと、とりはずしのできる壁板と屋根で出来ていた。
この壁と屋根の板は、はじめは骨組みに溝を掘り縦に はめこんでいたが後には釘で横にぎ合わせるようになった。
一つの家族集団は、大抵、海岸と内陸部とに、それぞれ一つずつ家の 骨組みをつくっていた。
冬になって一家が内陸に移動する時には、夏用 の家から壁と屋根の板を外して冬用の家の骨組みにはめこむのである
ひとつの家には、少ない場合で2家族、多いときには20家族もが一緒に 住んでいた。
ひとつの家に住む人びとは、「同じトーテム」をもつ一族だった。
家の中は板や厚地の織物、物入れ箱等で仕切ってあり中央には焚き火 が燃えていた。
地位の高い家族から順に、好きな場所(隅の部分など)を選んでいったが 家族ごとのプライバシーはほとんどなかった。
奴隷一敵の捕虜やよその村から連れてこられたインディアンにも場所 が与えられていて、一般にかなり良い待遇をうけていた。
しかし、奴隷がー族の仲間として認められることはなく、 一家の所有物として扱われた。
同じ言葉や慣習をもつ村どうしの争いも珍しいことではなかった。
ヌートカ族は南部の部族よりずっと好戦的だが、白人との交易地区に 近い村の間では、同盟が結ばれることもあった。

村どうしの対立はよくおこっていたが、村の中では自治が確立していた。
杜会的地位と先祖を表すトーテム像や「羽飾り」に基づきはっきり決め られていた。

サンダーバードを載せたこのトーテムポールは、 スカミッシュ族が創ったもの。
カナダ西部にはスカミッシュ族と同じサリッシュ語を話す部族が沢山いた。
族が沢山いた。
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