西部開拓に携わったインディアン女性

サカジャウィア
Sacagawea
1789年頃〜1884

ポカホンタスと並んで多くの人々にその名を
知られているインディアン女性。

ルイス・クラーク探検隊の成功は彼女の存在無しでは考える事は出来ない

 

この章のサカジャウィアは実は、突如歴史上にその姿を表してそして突如消えているので、出生などは正確には謎に包まれている。
 しかし、その謎を突き止めようとする歴史家なども多いので今日、段々とその素顔が明らかになりつつある。
彼女の生誕は、丁度、東部でジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した1789年頃だったようで、場所はロッキー山脈の西側の山地だという。
その地域の大きな勢力を持っていたショショーニ族の娘として生まれた。部族の習慣から既に13歳〜14歳位で親が決めたフィアンセがいた。  ある時、10歳位の頃、一族の一部の者たちに連れられにロッキー山脈を越え、ミズーリ川の源流地帯の旅をしている途中、ミネタリー・インディアン(部族不詳)に襲われ、彼女だけが捕われ、部族に戻る事が出来なくなってしまった。
どの位の間、捕虜となっていたかは、詳しくは判明していないが当時既に西部各地を回ってインディアンと毛皮取り引きをしていた商人のフランス系カナダ人のトゥサン・シャルボノーに買い取られその後、妻となった。
サカジャウィアの名前が歴史上に登場するのは、この頃からであり1803年にフランスからミシシッピ川西方の広大なルイジアナを購入したトマス・ジェファーソン大統領は部下のメリー・ウェザー・ルイス大尉、命じ西部探検に出発させていた。
ルイスは、親友のウィリアム・クラークと相談して45人の探検隊を編成して1804年の5月14日セント・ルイス近くの基地を出発。三隻の船に分乗してミズーリ川を溯り、冬が近づく10月下旬、ようやく、マンダンに到着して越冬の準備をするところだった。

ルイスとクラークは、シャルボノーの妻である、当時まだ16歳位のサカジャウィアの通訳の才能を見抜いていた。
インディアン達は、それぞれの土地で部族語があり、言語が違っていた為どうしても、通訳が必要になる。
これから進む未知の大西部の土地についてガイド出来るような者がいれば、雇いたいという欲求を殆ど満たす事が出来る者がサカジャウェアだったのである。
 しかし、ルイスとクラークが前記したように彼女の才能を最初から見抜いていたというのは、疑わしい。ただ、彼女の頭の回転の良さは並大抵ではなかったらしい。
探検隊としては、彼女一人を加えれば良かった訳だが、結局は、夫のシャルポノーと一緒に通訳兼ガイド、さらにインディアンについてのあらゆる情報の解説者として終始行動を共にするようになった。
マンダンに越冬中の1805年2月11日、彼女は難産の末、男の子を出産し、この子は、探検隊からジーン・バプティストと名付けられた。
探検隊のマスコットの様な存在となる。

春になると、探検隊はまた西へ向かって出発する。
サカジャウィアは、生後2ヶ月の子供を背負い、夫と共に危険に満ちた旅に同行する事になった。
探検隊の中に女性が一人でも混じれば、全体のムードは、相当和らいだ筈である。
そして、ルイスの日記には夫のシャルポノーの記述は殆ど無いが、サカジャウェアの活躍ぶりは、繰り返し、記述されている。
思いもよらない事態に遭遇した時でも彼女は冷静に、更に勇気を持って対処し、探検隊は、その旅に彼女をたたえて感謝している。
彼女が突然病に倒れて重態になった時もルイスもクラークも全力を挙げて看病にあたる。
彼女の貢献が最高潮に達したのは、やはり、ショショーニの部落に入った時である。

ショショーニの女性が一人走りよってきて彼女を抱きしめた。
昔、ミネタリーに捕まえられるまでの幼なじみだったのである。
そして、驚いた事に一族の酋長として姿を見せたのはサカジャウィアの実兄だった。
ショショーニの援助を受けて探検隊の一行は、その後、遂に太平洋に到達した。
ロシアの勢力がアラスカから南下しようとしていた時なのでこの快挙は後に大きな意味を持つ事になった。
翌年の帰途、マンダンで一行から離れた彼女の消息は殆ど判らないがインディアンの悲劇的な運命を見ながら長く生き続けたという。
現在ノースダコタとオレゴンに子供を背負って旅をする彼女の銅像が
建てられている。

参考 「西部開拓史」 猿渡 要
    「1001Things Everyone Should Know About American History」 Jhon ・A・Garraty

 

 

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