このページは、アメリカインディアン史上最も残虐な記録です。心臓の弱い方は読まない方が賢明かも・・・・
検証!シビングトン(サンドクリーク)の大虐殺

インディアン史上最大の惨事の一つ
1864年、日本では大政奉還が三年後に迫っていた頃で、アメリカ西部のコロラド準州東南部で11月29日の朝、西部開拓史に限らず人類史上稀にみる大虐殺事件が勃発した。
東部ではまだ南北戦争の最中で大方では、北軍の勝利が明らかになり南部に侵攻したウィリアム・シャーマン将軍がアトランタを焼き払い(映画 「風と共に去りぬ」で有名)大西洋岸のサバンナ目指して行進していた頃の事である。
北軍・・・・つまりUSA軍は、一方で南部連盟と戦いながら、他方では、人口希薄でまだ州に昇格していなかったコロラド大高原の一角で開拓者の前進を妨害するインディアン部族を一挙に殲滅させようと目論んでいた。
誤った歴史(「ロッキーマウンテン・ニューズ」紙による
「栄光のインディアン戦争」)

1864年12月8日(事件発生から9日目)の見出し

インディアンと大激戦!野蛮人の群れ消滅す!インディアン500を倒す!
わが方死者9、負傷者38!
大々的な見出しを挙げて白人騎兵隊の「勝利」を祝い、尚も栄光に満ちた戦闘の模様を伝えた。
その中でコロラド民兵軍の隊長シビングトン大佐のコメントを載せている。
以下はシビングトン大佐のコメント

「太陽が昇り始めると私は攻撃を命じた。相手は130個程のテントを連ねたシャイアン族村でそこには、約900人から1000人の戦士がいた。
我が軍は酋長ブラック・ケトルをはじめ、ホワイトアンテロープやリトル・ロウブなどの指導者及び400人〜500人のインディアン戦士を殺した。」
下写真は、ブラックケトル酋長
ブラックケトル

この軍隊がデンバーに帰還した時は彼等のパレードは、まるでフロンティアの救世主の如く歓迎され、中には剥ぎ取ったインディアンの頭皮を自慢げに振りかざす者もいたという。
ところが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明かにされていく大虐殺の真実
この戦闘に加わった将校や兵士の中にはワシントン州の上官に宛てて手紙を書く者が出てきた。
その手紙やインディアンと交易していた白人の業者達の手紙から戦闘の模様がそれまで伝えられていたものと少しずつ変わってきたのであった。

 そのうち目撃者が二人も現れた。
ジョン・スミスとエドマンド・グェリアーという交易業者で、合衆国陸軍の攻撃が行われた時たまたま加わっていたという。

この二人の証言では、インディアンの居住地にはせいぜい80〜100のテントがあっただけで住民もせいぜい500人位。しかもその三分の二は女性や子供達だったという。
他の証言でも殺されたインディアンの大部分は非戦闘員だったという事が判ってきた。
これでは、シビングトン大佐の報告がかなり虚偽に満ちたモノであるという事になる。
第一、その時の白人側とインディアン側との間には一時的な休戦協定が結ばれていたからである

もともとこの地方は、シャイアン族とアラパホ族の二つの部族のインディアンネィションだったのが1850年代の末にパイクス・ピークと名付けられた山の周辺で金鉱が発見された。
一攫千金を狙う開拓者達がここへ入り込む為には途中の高原地帯でインディアンと接触が多くなったのは当然の事だった。

若い怒れるインディアン達は鉱山のキャンプや駅馬車等を襲撃する様になった。
 しかしインディアンは普通冬の期間は戦いをしない習慣だった(らしい)のでシャイアン族酋長のブラック・ケテルは、デンバーにいるコロラド準州知事やライアン砦の司令官に休戦の申し入れを行った。

この申し入れは、一旦拒否されたが交代してきた新しい司令官は休戦の提案を了承し、
インディアンに保護する事を約束したが、シビングトン大佐には、それを伝えなかった。
こうして問題の11月29日がやってきた。
ブラック・ケテル酋長は、数百人のシャイアンを引連れサンド・クリークという小川のホトリにテントを張って休んでいた。
ブラック・ケテルは、合衆国陸軍の接近を知っていたが、休戦の協定が守られる事を固く信じていたのであった。

夜明けになり、太陽が差し込むと同時にシビングトン大佐は、約1000人のコロラド民兵軍に攻撃の命令を下した。
丘の上の砲門が一斉に轟いたという。
テントの中で跳ね起きたブラック・ケテル酋長は、事の重大さを悟りまずアメリカの国旗を掲げて戦う意思の無い事を示した。
しかし軍隊の攻撃は少しもやまない。
彼はすぐに白旗を打ち振ったがそれも全く無視されてしまった。

狂乱の地獄絵巻

シビングトン大佐がこの戦闘によって個人の業績に名誉ある1ページを加えようとしていたのは、確かだろうし白人兵士達が相手のインディアンを対等の人間と考えていなかったのも確かである
そうでなければ次に起こった事を理解する事は出来ない。

もう一人のシャイアン族指導者のホワイト・アンテロープは両手を挙げて「やめろ、やめろ」と叫んだが(英語で)その叫びは、沸き立つような喧騒と混乱の中で消え何発かの銃弾に忽ち倒された。

シャイアンの戦士達は、いったん小川の土手の所に退いて防戦したが、人数の点でも武器の点でも殆ど本格的な戦闘とは、いえなかったという。

争いは、昼頃迄続いたと言うが、逆に言えば約半日も残虐非道な蛮行が行われていた事になる。
それは、もうインディアン狩りというような状態になったからである。
白人兵士の行動は、全く常軌を逸していた。

殺したインディアン戦士の頭皮を剥ぐ者もいたし、逃げ惑う女性達を大勢で追いかけレイプし、ナイフでその身体を切り刻む者もいた。
また、妊婦の腹を裂き、胎児を引きずり出す者もいた。
泣き叫ぶ子供を平気で撃ったりナイフで突き刺す者もいた。
男女を問わず局部をナイフで抉り取る者もいたし子供の頭を棍棒で叩き割ったりする者もいた。
虐殺が終わった翌日も兵隊達は、殺戮の跡から死んだインディアンの頭皮を剥ぎ取ったり、死体を尚も切り刻んだりした。
無傷の子供を見つけて皆で撃ち殺す事を競い合ったと記録がある。
まさに1970年の映画「ソルジャー・ブルー」のモデルであったが、映画では、ラスト15分だけが虐殺や暴行のシーンだったが、現実には、延々と何時間も続いたという。
そして剥ぎ取ったインディアンの頭皮約50枚が「時の英雄」シビングトン大佐により、帰還後デンバーのある劇場に一般展示されたという。

 シビングトン大佐は、虐殺事件を引き起こした後直後に軍籍を離れ軍法会議にかけられる事をのがれた。

シャイアン族ブラック・ケテル酋長は、この時危うく難を逃れていた。

シャイアン族虐殺調査記録

1865年3月14日上下両院合同調査委員会 証言者ジョン・スミス

「インディアンの死体が切り刻まれて、あちこちに散乱しているのを見ましたが
、今迄にこんな酷い光景を見た事は、ありません。女性達もバラバラでした。」

問「何で切ったのですか?」

答「ナイフです。頭皮を剥がされたり脳天を打ち砕かれたりしました。」
  2〜3歳の子供達もです。
  乳児から戦士達まで全部でした。」

問「それを貴方は見たのですか?」

答「はい。確かに見ました。」

問「殺されるのを見たのですね。?」

答「はい。そうです。」

問「インディアン達が手足をバラバラにされる所を見たのですか?」

答「はい。その通りです。」

問「一体、誰が死体の手足をバラバラにするような事をしたのですか?」

答「アメリカ合衆国軍隊の兵士です。」

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