| 南トスカーナ |
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南トスカーナの村巡りとエルバ島・リグリア海岸の旅、というのに参加した。
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2006.9.24〜10.4 |
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イタリア共和国。人口5789万人、面積301,328平方キロメートル。南北に長く四季がはっきりとしている。イタリアの背骨といわれるアペニン山脈が走り、国土の90パーセントは山間部である。
紀元前8世紀ごろイタリア半島にはリグリ族、シクリ族、シカニ族、イタリキ族などが定着し、紀元前8世紀中ごろから約200年ほどはギリシャ植民地化が起き、南イタリア、シチリア海岸に植民地都市が建設されていった。 紀元前7世紀頃になると今度は北部イタリアにエトルリア人が台頭してきた。 フィレンツェ、コルトーナなど今日のイタリアの重要な都市が建設されていった。 エトルリア人はイタリア中部の鉱物資源を元に強大な経済力を持ち、ギリシャ、北アフリカのフェニキア人と貿易を盛んに行うようになる。 諸都市の経済力、軍事力が強くなるとエトルリア人の支配力が徐々に崩壊し始めた。紀元前4世紀始めに北からケルト人が侵入してきた。そこでエトルリア人による支配は崩れてしまった。 紀元前550年ごろには完全にローマ人の支配スル国となった。 紀元前509年コンスル(執務官)を最高政務官として共和制となった。 外敵防衛にも力を注ぎ、諸都市との戦争にも勝利、紀元前272年にローマはイタリア半島を統一した。 ポエム戦争、五賢帝時代を経てディオクレティヌス帝の専制君主時代へと移っていく。 395年、テオドシウス帝は帝国を東西に分け、にしローマ帝国は476年に滅亡したが、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はその後1000年あまり続いた。 コンスタンチノーブルを首都として発展を続けたビザンチン帝国だったが、1453年ついにオスマン帝国に滅ぼされ、首都はイスタンブールになった。 その間海洋国家のヴェネチア、ジェノバなどが発展し、ミラノ、フィレンツェが勢力を持ちルネッサンスの幕を開ける。 やがてナポレオンの登場となり、イタリアはナポレオンに服従することになる。 ナポレオンの圧制に各地で反乱が起き、1812年ロシア遠征に失敗したナポレオンは1814年エルバ島に流されることになった。 1914年第一次世界戦争が勃発し、オーストリア、ドイツと三国同盟を結んでいたがイタリアは中立を宣言。その後参戦し戦勝国になったが、激しいインフレの元で共産主義勢力が台頭した。共産主義打倒にファシスト党を結成したムッソリーニが1922年首相になった。1940年第二次世界大戦が起き、参戦した。一九四二年ムッソリーニは解任され、ファシスト党は解散、1943年連合軍のイタリア上陸で無条件降伏をした。
伊丹から成田へ行き、13時5分発のアリタリア航空でミラノに向かう。飛行時間12時間30分、時差7時間、飛行距離9758キロメートル。 現地時間18時35分より少し早く着いた。通関を済ませた後免税店を覗きながら20時40分発のフィレンツェ行きに乗り換え、1時間でフィレンツェに着く。
いよいよトスカーナ地方の村巡りの旅が始まる。フィレンツェからヴォルラント、世界遺産のサン・ジミアーノ、サンモリッジョーニ、宿泊地のシエナへと観光をしながら移動していく。 車窓からは油を採るために植えられたひまわりの花も刈り取られ、収穫の終わった枯れ色の畑が続く。10時ごろから小雨が降り出し、トスカーナ地方に秋が近いのを感じされる。丘陵地帯を見ていると民家の傍の糸杉が独特のいい風景を作っている。白ワインにするブドウ畑が広がるエレタの谷はアラバスタを産出する地方でもある。 |
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市庁舎、結婚式場として使われているプリオール宮 メディチ家の紋章がある |
今から800年前に建ったプリオール宮は現在市庁舎として使われている。市長はプリオール宮で居住し、仕事をしていたので一歩も宮殿から出ることなく生活が出来たとか。 中に入ると14世紀、17世紀の「受胎告知」、「カナの婚礼」のフレスコ画が残り、」現在会議場、結婚式場として使われている。 |
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プリオール宮前の広場に豚の紋章がある市長の塔が残っている。それは「小さな豚の塔」と、呼ばれているそうだ。 次に1580年に建設されたドゥオーモに行くが、中に入ると白と緑の大理石、窓はアラバスタが使われている。アラバスタは薄く切るとガラスのように光を通すことが出来る。上を見るとメディチ家の紋章があり、天井の絵は木彫りで本物の金を使っている。 ドゥオーモから出たところに洗礼堂がある。これは生と死をあらわしたもの。 |
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円形劇場跡 |
ここから少し歩き町の北側に位置するところに小さな円形劇場がある。2000年前の劇場跡だが浴場施設も残り、回りの景色を借景にした造りになっている。 見た感じは大きな劇場跡とは違い草が生え、傍に折れた柱がそのまま置かれている。完全に彫られたものとはまた違う雰囲気が残っている。 |
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1990年に世界遺産に登録されたサン・ジミニアーノはトスカーナ州シエナ県にあり、エトルリア人が住んでいた。九世紀から12世紀ごろにはローマとアルプスを結ぶカッシア街道と、フィレンツェ、シエナを結ぶフランチェジィーナ街道が合流したところ。通商路として発展し、冨と権力が集中し、次々と建物が建造された。そのとき競って建てたのがより高い塔である。高いものでは50メートルに及ぶものもあった。最盛期には70を越えた塔も現存するのは14本になっている。 |
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町の中心の井戸 |
サン・ジョバンニ門からチステル広場に向かう通り |
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洒落た店の飾り 思わず入りたくなる |
イノシシのサラミを売る店 |
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町の中央には井戸があり住民の命の水だった。またメディチ家の最前基地でもあった。 サン・ジョバンニ門から町の中心のチステルナ広場に歩いていくと、通りは洒落た店が並び、名産のイノシシのサラミを売る店が並んでいる。 |
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モンテリッジョーニ広場と井戸 |
広場の裏通り |
トチの木 |
次に訪れたのはモンテリッジョーニという城壁の囲まれた小さな村である。 1213年に築かれ今も70人ほどが住んでいる。 この村も中心に井戸があり、広場の周りを城壁が取り囲んでいる。広場を囲むようにカフェがありみやげ物店が並んでいる。 |
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広場を抜けて城門を出ると田園風景が広がり、細い道が何本も広場に向けて通じている。 バスの中からも見ていたのだが、枯葉色の木に薄い緑の実がなっている。その木が広場の外にもある。よく見れば握りこぶし大のトチの実だった。日本で見る黒褐色の実とは違った。
これで今日の観光は終わりシエナに向かって走る。
徒歩でシエナの観光である。
シエナ歴史地区は1995年に世界遺産として登録された。 交易によって富を築きトスカーナ地区の中心として栄えた。旧市街は13世紀から14世紀にかけて出来た街並みが残り、町の中心は扇形をしたカンポj広場。 1927年世界最初の都市計画の法令で、カンポ広場に面する建物の正面の窓には小さな柱の装飾が義務付けられた。金融の中心地としても栄えたシエナは人口も増えたが、1380年のペストの大流行で人口は3分の一にまで減少した。シエナも100以上の塔が建っていた。
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ケーキ屋のショウウインドー |
シエナで有名なNANNNINIというケーキ屋はショウウインドーの飾りも洒落ている。パンフォルテという中世のレシピをそのままに焼いたお菓子で有名。修道院で作られていたもので独特の香料を使った重たいケーキ、半年くらい保存が出来る。食するときは固いのでお茶やコーヒーに浸して食べる。 |
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ドゥオーモに着くころには雨が降り出した。 ドゥオーモの下の洗礼堂とクリプタを見る。洗礼堂はサン・ジョバンニの作で14世紀終わりに完成した。白、ピンク、黒の大理石を使いアラブの様式が入っている。当時アラブと交易があったからでピサノ・ロマネスク様式。 中に入るときリストのフレスコ画があり、正面左の天井下に聖人がロバを跪かせているフレスコがある。アラブが来たおり、本当に聖人なら「家畜のロバを跪かせよ」といわれそれを行った場面である。 正面右の窓のところにある絵はシエナ派の技法でマリアだけを存在感があるように描いている。シエナ派はフラットでフィレンツェのように遠近法は用いてない。 ドゥオーモ付属美術館の細い螺旋階段を上がるとシエナのパノラマの風景が広がる。 |
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ドゥオーモ |
拡
ここまで拡張するはずだったドゥオーモの壁 |
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ピコローニ図書館内の壁と天井 彩色された楽譜 大理石で描かれた床
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ライバルのフィレンツェに負けないようにドゥオーモを拡張し、世界一の大きさになるはずだったが、ペストの大流行で街は衰退、工事は中断した。その後メディチに征服された。 ドゥオーモはロマネスク・ゴチック様式で12世紀から14世紀にかけ200年の歳月をかけて造られ、当時は彫刻で飾られていた。その彫刻は付属美術館に展示されている。 白、黒の大理石の柱やアーチがあり見事である。床に目を移すとそこにはまた見事な大理石の絵が敷かれている。大理石を薄く切り、モザイクのようにしてはめ込むという技法。 ドゥオーモから外に出ると正面にS・M・スカラ救済院の建物が見える。この建物は1000年間病院として使われ、巡礼者、貧困者がついこの間まで治療を受けていたそうである。 |
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カンポ広場と市庁舎、ガイアの泉 |
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世界で一番美しいというカンポ広場は貝の形をし、市庁舎に向かってゆるい斜面になっている。1347年9つの区画に分けられ舗装された。中央にあるのが1419年ヤコブ・デッラ・クエルチャによって造られた長方形のガイアの泉。 市庁舎(プッブリコ宮)の塔の高さが102メートルのマンジャの塔。 カンポ広場では毎年7月2日と8月16日の2回騎馬戦が行われる。17のコンポダーラ(地区)に分かれ、中世の衣服を身に着け裸馬に乗ってコンポダーラの旗を舞い上げながら競い合う。このとき落馬しても馬が空いて陣地に入れば勝になる。 観戦は広場を取り囲むベランダから見ることになる。1席300ユーロから500ユーロ。テレビ放送をするので放送権も高額を出すらしい。
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9時にホテルを出発し、南トスカーナの村コルトーナ→モンテプルチーノ→ピンツァと廻りシエナと戻る 1時間半ほどで標高494メートルのコルトーナに着く。斜面にへばりつくように家が建っている。 |
コルトーナの写真スポットから見た風景 |
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エトルリア人が築いた町で中世の街並みがそのまま残っている。 写真スポットにはベンチが置かれ、どんぐりの実がたくさん落ちている。 駐車場にもなっていてその向かいにはエトルリア銀行が建っている。 ここからは中部イタリアでは一番大きく、イタリアでも4番目の大きさの湖が見えるはずなのだがうす曇の空で見ることは出来ない。景色全体もはっきりとしない。 町中に入ると16世紀の市庁舎を中心に狭いが広場があり放射状に細い道が延びている。みやげ物店の飾りつけなど本当に小粋でお洒落である。 歩けばすぐに行き止まりなりそうな小さな村である。 |
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洒落た小物の店が並んでいる ソフトクリームの中の坊や、たくさんおクリームの中で幸せそう
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カラクリ時計 |
この村を後にして次のモンテプルチーノへと向かう。1時ごろには着き、城壁の中に入り坂道を登ったところにレストランがある。チーズ、赤ワインの有名なところで、これらの食材が出た。 チーズは羊のミルクから作る。 坂道を上がり、グランデ広場で市庁舎、ドゥオーモの建物を見る。塔の上のカラクリ人形は毎時0分を差すと鐘をたたく。 バラの花がよく目に付いた。
次の観光地ピエンツェに向かう。 車中から見えるトスカーナの丘陵地帯はのどかで |
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ある。時々ひまわりが畑に忘れられ、またこぼれ種から発芽して花をつけている。タバコの花もぐんと花丈を伸ばしてピンクの花を咲かせている。ぶどう畑では収穫を待つぶどうや、一房だけ取り残されているものなど色々である。オリーブがなだらかな丘に育ち赤い屋根の農家が点在している。 |
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トスカーナ南部に位置するピエンツァ歴史地区は、1996年に世界遺産に登録された。 ローマ教皇ピウス二世が出身地であるコルシニャーノに建設したルネッサンス様式の代表的な都市である。フィレンツェから建設技師を招きフィレンツェ風に、ルネッサンス的な調和と近世の取れた街になるはずであった。1464年ピウス二世が亡くなり都市計画は中断された。 トスカーナ地方でこの一体は工業化に立ち遅れた。それがピエンツァの街が500年もルネッサンス時期の都市計画の全てが残り、建築物も残ることになった。都市と周辺の風景の調和が後のイタリア各地の都市計画に生かされた。 |
ピエンツァ歴史地区の建物 |
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ピエンツァ歴史地区にあるみやげ物店。 ←ここのみやげ物店は通りから横に曲がるが通りの店よりも値段が高い分品が良かった。ここで小鉢を2つ買う。 ↓ジャムと一緒に子供服などを飾った洒落た店、 |
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オルチェの谷が見えるところはドゥオーモから歩いてすぐのところ。一周する途中に四つの道がある。幸運の小道、愛の小道、接吻の小道そして暗闇の小道、この四つの小道の持つ意味は?人が人生を振り返る道?考える道?随分含蓄のある道である。 |
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この道から見える谷の風景は非常に美しい。 町中は洒落たみやげ物店も多く世界遺産の歴史地区よりもこちらの方が歩くのは楽しい。何しろ小さな町なのでくまなく歩いてもすぐに見終わることが出来る。
夕食にカンポ広場近くの中華レストランに行ったのだが、ライトがドゥオーモを照らし夕景の中に浮かび上がっている。昼とはまた違った雰囲気である。夜のカンポ広場周辺は若者達が道に出て酒を飲み、非常に賑やかで楽しそうである。
今日はポルトエルコレで昼食を済ませ、フェリー乗り場のピオンビーノからフェリーでエルバ島に渡る。 シエナを出て30分ほど走ると丘陵地帯から平原へと景色は変わっていく。 ポルトエルコレは島だったが今は3本の堤防道路で本土と繋がっている。湿地帯でマラリアが多く発生し、人口の多くがシエナに移住したため、グッテロ(カウボーイという意)たちが開墾し牧場を作った。 ポルトエルコレの壁に囲まれた出入り口は大型バスには対応していないため非常に狭く、徐行しながら通り過ぎた。思わず皆がドライバーの腕前に拍手が出た。 |
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ポルトエルコレの港と山の植えにあるスペイン領時代の砦跡 |
湾の一番奥まったところにスペイン領時代の砦が見えている。 昼食時のレストランは日本の雑誌「フィガロ(2006年)6月5日号『トスカーナの休日』」に掲載されていて店主が自慢げにその本を見せてくれた。 美味しいが量的に多く全部食べきることが出来なかったのが残念だった。 |
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昼食後再びバスに乗り、ピオンビーノに向かって走る。松の木、オリーブの木、ぶどう畑と単調だがきれいな景色の中を走る。人だかりのしている畑で凧揚げをしているのを見る。1時間半ほどでフェリー乗り場に着き、ここでドライバーとお別れ。各自が荷物を受け取りフェリーに乗り込む。エルバ島へは50分ほどの船旅、所在無く船がエルバ島のポルトフェラオに着くのを待つ。 |
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港には漁船、ヨットが係留され、海の青さと島の緑が美しく対比している。 ホテルへの道には野生のシクラメンが薄いピンクの花をつけ自生しているのが見える。 陽気なガイドのタティアーノさんが港へ迎えに来てくれていた。今日は抜けるような青空だがエルバ島の昨日までの2日間雨が降り続き何も見えなかっあそうである。 |
野生のシクラメン |
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エルバ島西海岸マルチアーノ、次に山の上を走り、昼食後ナポレオンの邸宅跡を見る。
エルバ島はトスカーナ地方に属し、島の大きさは東西27キロメートル、南北18キロメートル、海岸線148ころメートル、イタリア本土からは10キロメートルしか離れていない人口3万人の島である。視まで一番高い山がカパンネ山で標高千十八メートル。ナポレオンが流された島で有名である。 2000年前エトルリア人が住んでいたが度々海賊に襲われて滅ぼされ、16世紀の街並みが残っている。今はリゾート地として賑わっている。イタリアでは3番目の大きさの島である。 鉄は3000年前から精錬され、鉱石は世界で取れるほとんどが採れる。 島の西部のカパンネ山からは花崗岩が採石され、東部では鉄が採れ、中部はビーチが広がり、島民は農業、漁業に従事している。 1年中緑に包まれ、特に春は花が咲き美しいそうである。 8つの地域に区分され夫々行政区を持っているので、村が点在しているようなもの。 エルバ島を含め7つの島があり、海も含めて自然保護区になっている。 エルバ島の住民をローマ教皇も海賊から守ることが出来ず、13世紀に入って海運国家ピサが占領し海賊から住民を守った。ピサはエルバ島の鉄が欲しかった。その後ジェノバ、ルッカそして一時トルコが支配した。メディチ、スペイン、フランスと支配者が変わった。1815年から15年間トスカーナ公国に取り入れられる。 町は支配国の要素が多く取り込まれたため、イタリア式になっていない。 1861年サルデーニヤ王国がイタリアを統一し、エルバ島もその中に入った。 |
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マルチアーノ・マリーナから |
マルチアーノ・マリーナには1799年に出来た教会が広場にあり、取り囲むように店が並んでいる。 昼間ここで働き、夜になると山の方へ帰っていく。11世紀から12世紀にはピサの海軍が海賊から住民を守っていた。 本当に小さな町で一回りしてもすぐに終わるような広さしかない。 |
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次は山の上にあるポッチョという町。標高は35メールしかないが、ローマ時代から出来た中世の面影が残る階段の町である。中世の門をくぐり、町の中に入るとサンタ・カテリーナ教会がある。 |
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中世の階段の町ポッチョ |
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ローマ貴族の名前を取って出来た町。 民家の出入り口を見ると、金持ちの家の壁には家紋などの装飾が残っている。また金持ちはプライベートチャーチがあった。そのような民家、教会を抜けると頂上に出、パノラマの景色が見える。 そしてそこにはアピァ家の城砦があり、攻められたとき村人は城砦の中に逃げ込んだ。 |
展望台から見た町 ↓栗の木 |
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民家の木 コケモモのように見える実 |
それにしても栗の大木が多い。 栗はエルバ島に自生し、大事な食料だった。漁に出られないときは栗を食べてしのいだ。 今はサボテンなどのトロピカルフルーツが入り生態系を壊しているそうだ。
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車から見える風景は切り立った崖ところに小さなぶどう農家が見え、青い海と切り立つ崖は旅人には美しい景色である。 ところどころに野生のシクラメンが咲いている。シクラメンをイタリアではチックラというのだそうだ。 |
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ポルトフェライオへ向かう途中の写真ポイントから見た海岸線と崖 |
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昼食後ポルトフェライオの町へ行く。山の門というところから町中に入るのだが、これは岩を利用した堅固な城砦である。メディチが斜面の石を刳り貫き、それを補強し分厚い壁を造った。この城砦が町を取り囲んでいた。一度はアメリカから爆撃を受け、次は同盟国ドイツから破壊されたが完全に壊れることなく山の門として残っている。 ナポレオンの邸宅跡は博物館になっている。 後ろに海、前は城砦という立地条件の良さがナポレオンにここを邸宅と決めさせたようである。パリから調度品を運び込み、9ヶ月間過ごした。 ナポレオンは大変な読書家で、金や銀の豪華装丁本をパリから運ばせた。普通のハード本はエルバ島で買った本。 |
ポルトフェライオの入り口 山の門 |
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ナポレオンの邸宅近くの通りから見た海 |
自筆の手がもなども展示されている。
エルバ島はナポレオンが流され住んだことで有名になり、多くの観光客がエルバ島を訪れるようになった。 観光に寄与したことになる。
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ポルトフェライオの港からフェリーでピオンビーノへ向かう。そこから城壁の街ルッカへ向かい、昼食を済ませると一路サンタ・マルガリータ・リグレへ行く。トスカーナ地方からリグリア地方へと移動することになる。 ポルトフェライオの港を9時40分頃に出港し、約1時間後にピオンビーノに着いた。
ルッカは周囲4,8キロメートル、高さ12メートルの城壁に囲まれた中世の街。トスカーナと同盟を結び、ピサにも守られていたため、難攻不落の城砦だったが一度も戦争をすることがなかった。 |
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↑城壁と民家
←城壁の堡塁からしか見えないダイニージの塔の樹齢100年の木
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城壁の周りは芝が植えられ、芝生の向こうには林が見える。城壁の堡塁の上を散歩することが出来、散歩を楽しんでいる人が多い。ここから面白いものが見える。ダイニージの塔の屋上に木が植わっているのである。樹齢100年だそうで、四角の塔から大きく枝を張った木が見えている。木は何だろう、見るものの目を驚かす。 |
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堡塁からだらだらと坂を下りながらサン・ヘレディアーノ教会のほうへ歩いていく。 ファサドにモザイクが飾られている。時代を経て何度も拡張された教会で、ファサドの位置が反対になっている。さらにローマ時代の闘技場跡に歩いていくと、闘技場の観覧席だったところが住居や店が円形に並び建っている。これは面白い、またとても上手な有効利用法だ。真ん中の広場はメルカート広場といい、周りから細い幾本もの道が通じている。土曜日なので人でも多く、テント張りの店、街頭ミュージシャンが出ている。 |
サン・フレディアーノ教会 |
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円形闘技場観覧席跡の住居と店舗 |
円形劇場外側のテント張りの店 |
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サン・ミケーレ・イン・フォロ教会 |
親子連れが2台の自転車に乗り颯爽と私達の前を走り抜ける。普通の自転車より車体が長く、というより普通の自転車に子供用の一輪車をつけたような形である。親が前の席、後ろは子供で夫々にペダルが付きこいでいる。父親と息子、母親と娘が乗り、なんだか得意顔で走り去った。 |
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サン・ミケーレ・イン・フォロ教会はピサ・ルッカ様式の教会で街の中心となる。大天使ミカエルが教会の上で船に乗っている。美しい教会である。お祭りのときは急な階段を上り、ミカエルが乗っている石の船を動かすそうである。ハイになるから出来るのだろう。 プッチーニの生家の前ではプッチーニが椅子に座って遠くを見ている像がある。 30分ほど自由行動が出来たので早速お店に直行。洒落たレイアウトの店が多い。細い石畳の道が中世を忍ばせ、街の雰囲気が良い。 |
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ニット製品の店、帽子、マフラーは家に帰れば編めそうである。色使いがお洒落。 |
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集合場所からバスの止まっているところに戻るのだが、その前にご不浄へ。 インフォメーションセンターの地下に有料トイレがある。トイレのドアに料金を入れるとガチャンと戸が開く。これには抜け道がある。次の人は戸の閉まる前に入ればいいのである。見張りの人が居ないので使った人の割には料金不足だったに違いない。
ルッカから1時間半ほどでサンタ・マルガリータ・リグレに着く。 車窓の景色はトスカーナの丘陵地帯からリグリア州へと変わっていく。 山の中を走るのでトンネルも多く、谷の中の小さな村を幾つも通り過ぎていく。 村の中心に教会が建ち、緑の美しいところに赤い屋根の民家が点在する絵のような美しい景色である。野焼きをしているのか薄い煙が立ち上るのを見ると、日本の晩秋の風景も同じと思う。 このあたりも松くい虫にやられているのか、あたり一面立ち枯れしている。 海が見え出すとそこはリグリア海岸、サンタ・マルガリータ・リグレに到着である。景勝地、リゾート地にふさわしく、海岸には多くのヨットが係留されている。 坂の途中にある船を型どったホテルに宿泊、今度はオーシャンビュウである。
ルッカを出るときの一こまである。 路上駐車中の車、そこから出ようとしているのだが車間距離がない。無理に車を出すのだから、前進しては前の車に当てハンドルを切る。今度は後ろの車にゴッツン。これを何回も繰り返してハンドルを切っていく。出られたのである。車に乗っているのは老夫婦。奥さんの方成り行きを見ていた私達の方を見て、にこっと笑い手を振って走り去った。お見事!!!当てられた車、バスの中から見た感じではへこみも瑕も内容に見える。いやはやなんとも上手い運転技術である。
リグリア海岸はトスカーナ地方からフランス国境まで約250キロメートルの美しい海岸線。東リビエラ、西リビエラと区分されている。 サンタ・マルガリータ・リグレは東リビエラに入り、ポルトフィーノへ行く出発点になる。 ポルトフィーノは深い入り江の漁村だが、高級リゾート地としても有名なところ。 |
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ホテルの部屋から見える景色 |
ホテルから徒歩で船着場へ行き、そこから15分ほどでポルトフィーノに着く。 船に乗るとフランス人には珍しく饒舌な男性と一緒になる。彼らも団体でポルトフィーノを訪れる人たちである。 海から見るサンタ・マルガリータ・リグレ、ポルトフィーノの景色は美しい。 |
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波は穏やかでダイビングに向かう船とも行き交う。 港の水が透明で小魚の泳いでいるのが見える。5センチくらいのくら |
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行き交うヨットと航跡 |
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げがゆらりゆらりと浮くように泳いでいる。 レストラン、カフェ、みやげ物店、ワインショップが港を取り囲むように並んでいび、その横の小道は人が2、3人すれ違うのがやっとのような細い道である。そんな道の両側にも土産物のレース編みやワインを商っている店がある。石の舗装はここも明け方の雨で濡れ、丸くなった石が滑りやすそうである。 |
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ポルトフィーノ |
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途中銀木製のいい香りがする。 教会の前に来ると広場のように一気に道幅が広くなる。下を見れば港と町が一望できる。教会の横に小道があり、突き当りに城が見えている。 |
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2時間に自由行動、間口2間ぐらいの小さな店を覗いて、ひやかして、小さな港町の雰囲気を充分に楽しむことが出来た。何の使い道にもならないガラスの皿を1枚買った。ムラノガラスを使っているという。 |
ガラスの小皿 |
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雨が降りたらりないのと潮風で蒸し暑い。港近くのベンチに座っていろんな人をウオッチャーしていると面白い。一人ひとり顔が違うように、いろんな人生を送っているのであろう。想像力をたくましくして彼らの人生をおもっていた。 夕食は携帯食で済ませる。持ってきた荷物を減らし、ごちゃごちゃと買った小物を入れるスペースを造らねばならない。
1997年に世界遺産に登録されたチエンクエテッレは、リビエラ海岸に等間隔に並ぶ5つの漁村を総称していう。
お腹の出た陽気なおばさんガイドのジャネットさんが同行。 ホテルからバスに乗り、サンタ・マルガリータ・リグレの隣町ラ・パウロから高速に入り、イタリア海軍の基地があるラ・スペチアへと向かう。 ナポレオンもこの場所に海軍基地を設ける計画があったため、イタリアはここに基地を作った。 高速に入りいくつかのトンネルを通り抜けると、ジェノバの標識が出てくるようになる。アベニュー山脈があるためジェノバやピサは冷たい風をさえぎるので冬でもミラノほど寒くないそうだ。海岸線が見え隠れしてきれいなところである。 9時過ぎに霧が出てきて山を隠し始めた。青空の下でチエンクエテッレを見たいものである。 船着場にはチエンクエテッレを見る観光客がたくさん集まっている。 船上からポルトヴェネーレを見る。ポルトヴェネーレは、ポルト=港、ヴェネーレはヴィーナスがなまったものだそうだ。 |
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船から見るチエンクテッレの風景 |
横じまの教会が見えるが、これはスペイン様式の教会。城砦はジェノバが造った城砦で町を海賊から守るためのもの。当時の海賊は男は皆殺しにし、家財、金は持ち帰り、家は焼き尽くした。 ほぼ垂直の断崖絶壁をイタリアのクライマー達は登るそうである。 |
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鉄分を含んだ赤い岩に松の木が根を張っているのが見える。ここだけの独特なもの。この断崖絶壁の上がブドウ畑になり、トレッキングコースでもある。現代的な家は景観を損なうので建てない。また家はへばりつくように点在している。1960年代に作られた道はまだ完成して |
赤い岩と松の木 |
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絶壁とブドウ畑と民家 |
おらず、細い道のまま。 リオ・マッジョーレ(メインの川という意味)が見えてきた。細い道が付いているのが見えるのだが、となり街まで時間かかる。道の名前は「愛の小道」。 2番目に見えるのがマナローラ。山の家までブドウ畑が続いている。 |
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4番目のヴェルナッツァで下船し、市街地へと向かう。 港にはわずかな砂浜があり、小さ |
教会とビーチ |
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いながらもビーチになっている。水温は9月が一番高いそうである。 港の前に建つ八角形の教会はこの辺りの典型的な教会のスタイル。市街地はみやげ物店が並び、陶器の小物などを売ってい |
小皿とボート |
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る店が多い。 昼食後電車に乗るため駅に向かう。5分ほどで5番目の街モンテロッサに着く。ビーチが広がり海水浴を楽しむ家族連れが見えている。 |
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岩盤を刳り貫いたトンネルで突然ジャネットさんが「・・・アマポーラ・・・」、と歌いだす。これに答えるように見知らぬ男性も歌いだし、音響効果のいいトンネルを抜けるまで2人は掛け合いで歌っていた。とにかく陽気である。 |
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聖ヨハネ教会 |
町は聖ヨハネにささげた教会があり、その横にどくろマークの建物がある。「これは何か」、と聞くと「貧しい人、立場の弱い女性、亡くなった人を守るための組合のような教会」、ということだった。どくろマークは扉の上、屋根の下にある。 この町にもみやげ物店が並んでいるがどうも |
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安っぽい。それに連日よく歩いているので足が棒のようになっている。道のベンチに腰掛けて集合時間が来るのを待った。 皆が集まり再び列車に乗ってサンタ・マルガリータ・リグレまで帰る。 |
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定刻に列車は発車した。 列車は各停で約50分、乗るとどっと疲れが出て少し眠ったが、海岸線と民家のそばを掠めるように走る。日が傾きだしているので太陽の光が海面をキラキラと照らし出して美しい。 サンタ・マルガリータ・リグレの駅でガイドのジャネットさんとお別れ、ジャネットさんは |
サンタ・マルガリータ・リグレ駅 |
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そのまま列車でジェノバまで帰るという。 駅を降りると運よく発車間際のバスに間に合い、それに乗ってホテル近くのバス停まで乗る。
今日は船、列車、公共バスと交通機関を全部使ったことになる。 チエンクエテッレを巡るには珍しく波が穏やかで、いつもは波が高く船酔いをする人もいるというから普段の精進の良さの賜物だろう。
夜中の2時ごろから風が非常に強い。ベランダのテントがハタハタと風になびき、ブラインドもガタガタなっている。 6時ごろ風は一旦小止みになり、小鳥の鳴き声も聞こえた。6時半には最初の教会の鐘の音も聞こえる。しかしお天気のせいで中々夜が明けない。 8時半ごろには一旦雲間から太陽が顔を出し、海面を照らしている。だが風は以前強く波も高そうである。 今日からイタリア全土のお天気が崩れるそうである。ミラノ空港に着くころには雨が降り出した。 高速道路は山の中、谷と谷を結ぶ橋の上を走り、トンネルを抜けるとジェノバ近郊に近づき集合住宅が多くなる。
旅も終わり、ミラノから日本に向けて帰国の途に着く。 通関手続きも終わり、空港で今回一度も食べなかったピザを注文して腹ごしらえを済ませた。 最後の買い物のチャンス、買ったのはありきたりのスパゲッティとチョコだけ。 15時20分発の飛行機で成田へ向かった。
予定夜少し早く成田に着いた。 羽田まで出て15時30分の飛行機に乗るより、成田エキスプレスで品川に出てそこから新幹線に乗るほうが早く家に着くのでそうした。 名古屋に着くと雨が降り出していた。
今回の旅はイタリアの小さな村めぐりだったが世界遺産が4ヶ所もあり、のんびりとした美しい景色を見ることが出来た。 イタリアという国は歴史も古く、懐の深い国だと思う。今回のように南トスカーナの村々の世界遺産を見たが、同じトスカーナ地方にはフィレンツェ、ピサなどがある。 事前の前調べもなく、ぶっつけ本番の旅だった。その分説明も良く聞いたつもりだが、日が過ぎると忘却の彼方に消え去っている。 今回のメンバーはイタリア通でイタリア大好きな人が多かった。 ヨーロッパもいいが辺境には辺境の面白さがある。 |