| イタリア・ルネッサンス街道とモンブラン・パリ |
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1993年5月27日〜6月6日までの11日間でした。私にとって初めての海外旅行がイタリアだった。もう随分昔で、当時はメモもとらず、写真にコメントもない。写真を見ながら少しづつ思い出しながら書いたものです。順序が入れ替わったり、間違いがあるかも分かりません。それに写真はほとんど人が入っているのです、それだけ舞い上がっていたのでしょう。 コースは伊丹空港からキャセイパシフィックで、香港→ローマ→フィレンツェ→ベニス→シャモニー→ジュネーブ→パリ→香港→帰国、という少々きついコースでした。
5月27日(木)1日目
当時は伊丹空港から海外へ出発していた時代です。 朝8時40分に集合して、10時40分CX―503便で香港に向かって離陸。 滑走路を走り、飛び立った時の開放感はなんともいえない気持ちでした。 予定通り香港には13時25分に着き、ローマ発まで時間があるので香港観光が付いていました。が、私は観光を取止め同行の友人達と買い物を楽しみ、夕食場所で皆さんと落ち合いました。 香港22時30分発CXー293便でいよいよローマに向けて出発です。12時間30分のフライトが始まり、機中泊で明日の朝はローマです。
5月28日(金)2日目
早朝五時にローマに着き、私は本当に今ローマにいるのだろうかと思ったくらい嬉しい気分でした。 空港を出るとすぐに黄色いエニシダが咲いているのが見え、コロッセオも見えてきました。 先ずはホテルに荷物を預け、9時から観光が始まります。 |
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コロッセオ |
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ここでローマ皇帝たちが剣闘士や奴隷を戦わせた跡、またキリスト教信者に飢えたライオンを放ち、死に逝く人間を見て楽しんだ栄華の後だ。 だがよくこれだけのものが造れたものだという驚きと、石の建造物だから姿が残っているのだろう。 コロッセオを出るとカメラマンが寄って来て集合写真を撮る。今だったら写しても買わないが、何しろ始めてである買ってしまいました。 |
バチカン市国・サンピエトロ広場 |
次にサンピエトロ寺院に行く。 寺院の中には懺悔をする四角い箱のような部屋というかそんなものがあり、高い天井にフレスコ画が描かれ、初めて目にする西洋の教会の荘厳さと広さに驚く。 床にはモザイク画で敷き詰められ、二階に登る階段を上がると、教会の内部がよく見えた。 外に出るとサンピエトロ広場に半円 |
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形の建物の上には列柱が立ち、石像の並んでいるのが見える。 ローマにありなながら独立したバチカン市国で、法王がいる場所だ。 トレビの泉に行く途中で衛兵の交代を見ることが出来た。その儀式を見てトレビの泉に行き、またイタリアに来ることができるように、後ろ向きになってコインを投げた。だが私にはまだそのチャンスが巡ってこない。 昼食は始めてイタリアで食べるパスタである。ウエイターが面白がってたくさん入れるので「もういい・・・」と言うのだが「タント、タント・・・」といってたくさん入れられた。タントがイタリア語でたくさんと言う意味だと後で知った。 |
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昼食後も市内観光が続いていたのだが、何処を見たのか記憶にない。 イタリアにも凱旋門があり、その傍を路面電車が通っていた。その路面電車を渡った所が土産物店になっていて、そこに連れて行かれた。 とにかくよく土産物屋に行ったのは覚えている。 その後自由行動の時間になったが、疲れていたのでそのままホテルに送ってもらった。 |
イタリアの凱旋門 |
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ホテルに戻り、暫らく休憩をし、さて夕食ということになった。食べに出るのも面倒だし、日本から持ってきた日本食を食べようということになりお湯を沸かすためコンセントをアダブターとセットしてさすが通電しない。結局ビスケットいう侘しい夕食になった。他の二人は市内をもっと歩きレストランで済ませてきた。ここで今回の5人組の年齢の差が出たというわけ、トホホ・・・・の一日の終わりでした。
5月29日(土)3日目
自由行動の日であるが私たちはオプショナルでポンペイ・ナポリ観光を申し込んでいたのでポンペイ遺跡に行く。 ポンペイを隈なく見るには5日間かかるのを僅か3時間のコースで見るわけである。アッピア街道を走りながらポンペイに向かって走っていると、ガイドさんが「今日はサッカーの試合があるのであのように派手にサポーターがバスで行くのだ。」と教えてくれる。賑やかこの上ない。また街道には松が植わっているのだが、日本の松とは大違いの松の木である。 |
ポンペイ遺跡 |
ポンペイに着くと陽射しもきつく、暑いくらいである。 長い間死の街として嫌われていたが、遺跡を掘り出し、今このようにポンペイを見ることが出来る。 約2000年前にベスビオ火山が噴火し、一瞬の間に死の街と化したところである。まだ完全に全部は掘り出されていないという。 |
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とにかく凄い噴火だったということは間違いない、生活をしているままの姿で人間が形をなしているのだから。 遺跡の中にはパンを焼く釜があり、バーがあり、平面の板状の所にワインの壷を入れる穴があいている。 また辻には轍があり、横断歩道もあるのには驚いた。 裕福な家のある辺りの屋敷跡は遠近法を取り入れた絵が壁に描かれ、庭には噴水が、回廊には白、黒の大理石が市松模様に貼られている。白い大理石は月明かりを反射する役目をしていたとか。水道設備も整い、当時の文化の高さを思い知らされた。今の我々の生活と大差ないのでないかと思った。 住宅街では「ベッティの家」というのが有名だそうだ。 広場に行くと柱が並び、民衆が集会を開いた跡だろう。 収集したものを納めている場所に行くと、奴隷達がガラスケースに入っていた。 昼食場所に行くとき、ジプシーの女の子が外国人の男の人の財布を盗んで捕まり、その外国人に服をめくられビンタをされていた。その娘の親と思われる夫婦者が道路の反対側で成り行きを見ていた。ジプシーが多く気をつけるように言われていたが、まさか目の前でこのような光景を見るとは思わなかった。後で失敗した娘を親は叱責したのだろうか。 ポンペイにだけにしかないワイン『キリスト涙』を飲むように友人に教えられていたので、そのワインを頼み、ナポリ湾が近いため焼き魚の昼食だった。 |
ナポリ湾 向こうに見える山はベスビオ火山 |
『ナポリを見て死ね』という言葉がイタリアにはあるそうだ。それだけ風光明媚な所である。本当に美しい景色である。坂道を上がってくれ、そこから街を見渡すことが出来なんと綺麗な街だろうと思った。ここが泥棒の街とは信じがたい。 また家の両側からロープで吊るした洗濯物のなびくのも見た。 これぞナポリ! |
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夜ローマに戻り、夕食後スペイン広場を歩き、閉まった店のウインドゥショッピングを楽しんでホテルに戻った。
5月30日(日)4日目
今日はフィレンツェに向かう。車窓から見える景色は素晴らしく綺麗。高速道路をビュンビュン走ってくれる。 フィレンツェはメディチ家で有名な街である。金融業、薬で財をなし、レオナルド・ダビンチをお抱え画家とした家である。またロレンツォを法王と出した家柄でもある。メディチ家の宮殿の中は贅を尽くし、噴水があり、ライオンの像があり、屋敷の前には彫刻が並びため息が出る。 |
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フィレンツェに着くと、昨日爆弾テロがあったとかで、ウフィツイ美術館、二階建てのベッキオ橋を見ることが出来なかった。ポリスがロープを張り、そこらこちらに立って警戒している。 せっかくの美術館見学が無しになり残念である。 また貴金属店が多いというベッキオ橋の見学もできず、目の保養も出来なかった。 |
ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの街並み |
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ドゥモーや花の聖母教会を見学。ドゥオモーは修復中で高い足場が組まれていた。花の聖母教会の扉はレプリカで、日本企業が寄付したものだそうだ。 2箇所の見学ができなかった分自由時間が多く出来、街中を歩いたり、買い物をしたりして楽しんだ。 大きな買い物袋を持って歩いているのだから変な男に目をつけられ、回り道をしてホテルに戻った。裏道の川沿いには黒人が偽ブランドの品物を売っていたりし、とにかく用心しないといけない国だ。
5月31日(月)5日目
とにかく忙しい旅程で今日はもうベニスに向かって出発である。 昨日美術館などを見学できなかったということで、早朝の7時半に出発して途中のベローナに立ち寄ってくれた。ここは『ロミオとジュリエット』で有名な街だそうだ。 車窓からの景色はブドウ畑が何処までも連なり、これがワインになるのだろう。 お昼にはベニスについたが、ベニスは運河と島を結ぶ土地である。車は走れないのでゴンドラタクシーに乗り換え、中心の島に渡る。ゴンドラタクシーの運転手は上手に他のゴンドラとすれ違う。時には家の壁に足をかけ、ぎりぎりまで壁に近ずき行き交う。その棹さばきの上手さに舌を巻く。 |
水の都ベニスの運河と橋 |
今日のガイドさんはマリオさんで、とても日本語が上手である。4年間の独学と4ヶ月日本に行きマスターしたという。 昼食はイカ墨のスパゲッティで見るからに真っ黒で美味しく無さそうである。だが実際に食するとこれほどの美味しいスパゲッティは今回が最初である。それほど美味しかった。イカが新しく新鮮だからできる料理だそうだ。 |
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今日も私達がつく前に一雨あったそうで道が濡れている。昨日は凄い雨で店先は50センチも床下浸水だったそうである。 サンマルコ広場、サンマルコ寺院、ドゥカーレ宮殿を見学する。 広場からドゥカーレ宮殿を見ると、壁に背中に羽の生えたライオンの像が宮殿を飾っている。中に入ると宮殿の中に牢獄があり、橋を渡って中に入るのでその橋を『嘆き橋』と呼んだそうだ。日本の校倉作りと同じ方方法で作られているというから不思議である。 運河を巡っていると生活廃水で水が濁り、匂いもし、湿気で大変だろうなと思う。家の増築法は面白く、壁から運河に向かって鉄パイプを突き出し、それを土台に増築している。また自家用車ならず、自家用ゴンドラを持っているそうだ。ゴンドラが唯一の交通手段だから。 ベネチアンガラスの有名な所である。工房に連れて行ってくれ、実演をして見せてくれる。が、その後には関所がある。関所でお買い物をしなさいという仕組みになっている。今になればベネチアングラスのペンダントトップを買って置いたらよかったと思うが、買っていたとしても身に付けることはしなかっただろう。 夕食後9時から希望者だけゴンドラセレナーデという、ゴンドラに乗って夜の運河を巡りながら、カンツォーネ、イタリア民謡などを聞く。まるきし普通の小父さんでジャンパー姿で乗り込んできた。ゴンドラのこぎ手は私達が怖がるのを楽しむため、わざとゆらゆらゴンドラを揺り動かして喜んでいる。
6月1日(火)6日目
ミラノに向かう。ここでも車窓の景色は素晴らしい。 ミラノのガイドさんは日本人の音楽家で、アルバイトでガイドをしているそうである。毎月『音楽の友』にミラノ便りを寄稿していると話していた。 プジョーのマークのお城を見学する。壁は少々攻め込まれても大丈夫なように随分分厚く造ってあるそうだ。また堀には今は青草が茂っているが、そこに白い石の玉が置いてある。これを砲弾にし攻め入る敵に向かって投げていたという。この石が頭に当ると頭は割れるであろう。 スカラ座に行き、マリア・カラスの肖像画を見たり、ボックス席から舞台を見たりした。 |
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壮大なゴシック様式の大聖堂ドゥオーモウォ見たときは、息を呑む美しさにため息が出た。全体を写すには随分と多くまでいかなと無理である。だが広場になっているので何とか写真に撮ることが出来た。 中に入ったのかどうか記憶にないので困る。おそらく中には入ったであろうと思う。 |
ミラノのゴシック建築の美しいドォーモ |
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レオナルド・ダビンチの『最後の晩餐』が描かれてある教会、サンタ・マリア・グラツィェ教会のガイドは声が小さく聞き取れなかった。教会の中には2万人の人が入れるというが、そんなに大きな教会だったような気がしなかった。 ミラノの商店街のアーケードの道に絵が描いてある。丸く囲まれた牡牛の絵をぐるりと1回転すると願いが叶うというが、これが中々難しい。私も挑戦したがもう少しの所で駄目だった。 4時半頃に自由行動になり、地元の人が買い物に行くところを教えてもらい、そこへ買い物に行った。ブティックの女性は皆美人で気後れをしてしまう。 約束の時間になり集合場所に戻ると、近くの道路には乱雑に車がびっしりと駐車している。見ているとその中から自分の車を上手に出すのである。出すと凄いスピードで走り抜けていく。運動神経というか、車の運転に長けているというか、とにかく「ビックラコイタ」という感じであった。
6月2日(水)7日目
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北イタリアとスイスの国境近くの景色 |
スイスに向かって走るのだが、高速道路で大事故があり閉鎖されている。仕方なく迂回路を走り、高速道路に乗れるところまで走る。お陰で民家のある道を走ることが出来た。 山の景色が標高が高くなるに従い、雲とも霧ともつかない山がとても綺麗である。高い山と山を結ぶ橋げたの高さは何メートルあるのだろう。 |
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景色は『アルプスの少女ハイジ』の世界である。雪解け水がいたるところから滝のようになって流れ落ち、民家の屋根は黒い扁平な石で葺いてある。 事故のためシャモニーには2時間遅れで着き、ここで初めてスープが出た。やはりフランスである。シャモニーは小さな村である。 ここからモンブランに上がるのだが、雨が降ったらしく道が濡れている。それに少し肌寒い。 ケーブルカーに乗って一挙にモンブランの頂上を目指すが、雨が霙にやがて吹雪になって来た。そんなに寒くなかろうと軽装だったので寒く、手袋をし使い捨てカイロを使い首からはしっかりと大判のスカーフで肩を包んだ。 3800メートル以上を一気に上がったものだからほとんどの人が高山病になり、おまけに吹雪と来ているからパノラマの景色を見ることも出来ない。若しお天気がよければマッターホルンも見えるのだそうだ。 皆下りのケーブルカーの時間をまだかまだかと待っているが、時間厳守で寒さに震え高山病に苦しみ時間の来るのを待った。係員は意地悪をしているとしか思えない、ニヤニヤ笑って私たちを見ているのである。 下に下りると先ほどの頭痛は嘘のように治り、次のジュネーブに向かって出発した。 ジュネーブに着き、レマン湖の大きさを見、オービーブー公園を見て市内観光をした。国連関係の事務所がたくさんある。小さな綺麗な落ち着いた街である。 夕食はレマン湖に浮かぶ船上レストランでスイス名物のフォンデュである。私はあまり食欲がなかったのでやはりここの名物の葡萄ジュースを頼み、少しパンを食べた。
6月3日(木)8日目
ジュネーブからフランスの新幹線T.G.Vでパリに向かう。 車窓からの景色は牧草地の牧草がロール状に巻かれて置いてある。また古城街道といわれるだけあって、あっちこっちに古城が見える。 車中で昼食になるのだが、ジュネーブで幕の内弁当が積み込まれていて久しぶりに日本のお弁当を食べた。 |
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ジュネーブを出たころは長閑な田園風景だったのがパリに近づくにつれ都会化してくる。パリの駅前はマクドナルドやネスカフェの看板が目立つ。早速に市内観光が始まり、カルチエ・ラタンなどを説明されながら走っているのだが、印象には残っていない。 ただ道にはマロニエが芽吹き、その印象だけである。(猫に小判だ) |
パリの駅前 |
ノートルダム寺院 |
バラ窓が美しいノートルダム寺院に入ると、光が差し込みバラ窓といわれのが頷ける。 バラ窓は16等分されていて、畳に換算すると80畳の広さというから驚きである。しかし高いところにあるのでとてもじゃないがそんなに大きいとは思えない。 またステンドグラスも美しく、マリア様の一生を表している。 外に出て正面から見ると左右の塔の形が同じでない。また裏手に回ると、雨樋の所にいろいろの動物の顔が並んでいる。その中の1つが嫌われ者の司祭の顔になっているという。いかにも憎々しげに作られている。後世まで残るといやだなぁと思う。 |
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コンコルド広場に行くと、昔エジプトから持ち帰ったオベリスクが建っている。 コンコルド広場、シャンゼリーゼ通り、凱旋門の下を走り、オルセー美術館に行く。いかんせん時間が短い、主なものだケッピックアップして走るようにして見るだけである。
6月4日(金)9日目
オプショナルのベルサイユ宮殿に半日観光をする。 ベルサイユ宮殿での待ち時間がわからないということで、割合早く出発し上手い具合にそんなに待たずに見学することが出来た。 豪華な宮殿である。ルイ15世の絵がかかった部屋、鏡の廊下、マリー・アントワネットの出産の部屋などを見てまわる。出産は家来達の前での出産だったそうだ。気の毒に思った。だが王家の血筋である、男か女か、死産かすり替えがないか大事なことであるからしたが無いのだろう。これなら富裕層の庶民のほうがいいと思った。 庭は手入れが行き届き、とても綺麗な庭である。 鉢植えのオレンジの木があり、冬になると庭の段差を利用した温室に入れていたそうだ。 昼からフリータイムになり、ポンピドー会館へ行きそこで2手に別れ私たちはオルセー美術館へ、もう後の二人はムーランジュールへ行くという。 オルセーでは今度はゆっくりと見てまわり、約束の時間に合流した。オルセー美術館も全部見るには相当の日数がかかることだろう。 今日で実質的には観光旅行は最終日になる。明日は帰国なのだ。楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。
6月5日(土)10日目
出発まで少し時間があるので、セーヌ川に沿って高級住宅街を散歩する。Duo・Passy通りという地元の人が買い物をする所を見たりした。 ホテルを11時半に出てドゴール空港に向かう。空港にアフリカの高官のような人が民族衣装も派手な姿でどうしても写真に撮りたかったので、さりげなく二人並んでピントはアフリカ人に合せて写してもらった。 14時30分CX-260便で香港に向けて飛び立った。今から12時間半のフライトである。 機内食が終ると照明も落とし、眠る体制に入る。だが中々眠れるものでもない。映画を見たりしたがそれでも少しは眠ることが出来た。
6月6日(日)11日目
朝9時に香港に着き、また香港市内に出て買い物をしたりし、香港人もたくさん行く店で飲茶を食べる。 13時40分発のCX―564便で日本に向かうのであるが、空港が混んでいるとかで、1時間遅れで香港を飛び立った。 伊丹に着いたのは午後8時半頃になっていた。友人の娘さんとその友人が迎えに来てくれて家路についた。
今だったらバチカンのサンピエトロ寺院も見落としなく、あの有名なミケランジェロのジュピタももっとしっかりと見たであろうし、歴史的な背景も勉強したであろう。 だが「行く」ということしか頭にない旅だったが、私にとっては楽しい旅の思い出である。 |