リビア

 

2006.2.18〜2.27.

リビアという国 

 

 カダフィ大佐が率いるリビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリア国。

 国土は176平方キロメートル、国土の90%が砂漠、人口約560万人、宗教はイスラム教スンニ派で大部分がアラブ系住民。他にベルベル系などの多民族国家、言語はアラビア語。

 ほとんど山の無い国だがチャド国境付近には少し山がある。砂漠のほとんどが礫砂漠。その岩や石がリビアの第二の産業として建築資材などを生産している。

 現在天然ガスをパイプラインで繋ぎ、地中海まで運ぶ計画がある。礫砂漠のところどころに目印の古タイヤが置いてある。

 徴兵制は15歳ないし18歳に1年間あるが男子だけ。

 識字率90%、教育制度が整っており義務教育は9年だが、公立学校の高校までは国の負担。したがって高校進学率は90%と高くその子達の70%が大学に進学する。

 大まかな四季があり、短い春、秋と6月ごろから10月ごろまでが夏で気温は40度前後まで上がる。残りが冬で寒暖の差も大きく朝夕は5度前後、日中も15度程度にしか上がらない。

 農作物は野菜は自給自足、果物はりんご、梨、オレンジなどを生産しバナナはエクアドルから輸入している。 

 ガソリンは産油国だけ合って1リットル日本円で13円くらいの安さ。

このスタンドのマークのところでセルフサービスで給油する。

 リビアは地中海に面していることから軍事的にも経済的にも重要な位置にある。ローマ帝国、オスマン・トルコ、イスラムからの侵入があった。

 紀元前10〜5世紀にかけてフェニキア人がキレナイカ、トリポタリアに殖民都市を建設し、紀元後にはローマ帝国がトリポリたリアを支配した。

 近代になってからは1943年イタリアが第2次大戦に敗北し、イギリス、フランスの分割統治下に置かれた。

1949年に国連総会で独立が決議される。

 長い抗争の末出来たサヌーシー国王政権だったが、遊牧民出身の陸軍大尉カダフィー率いる12人の青年将校のクーデターで王政が廃止、リビア・アラブ共和国の誕生となる。イスラム教を基本におきながら、人民の意思を基する直接民主制をとる。

 その後もアメリカ帝国主義と戦い、国際社会からの孤立が続いた。しかし2003年の国連安保理、アメリカの経済制裁解除により関係正常化が進んだ。

核兵器は序も宣言し、悪くなった経済の建て直しにも力が入れら始めた。

観光も1998年から始まり今年で8年目に入った。

 

 

1日目 2月18日(月)

 

 数年前から行きたかったリビア行きが叶った。

 西宮北口午後7時のリムジンバスは私一人だけで出発した。JR西宮も阪神西宮も乗客がおらず貸切で関空に着いた。

この時間の関空は閑散としている。また今回のメンバーはと見ると、元気印の敬老会。

「ベンガジでデモがあった。」と、いうことだが2,3日中に収まるだろうということだった。

 23時15分発のエミレーツ航空の深夜便でアラブ首長国連邦のドバイへ向かって離陸した。ドバイまで11時間40分、水平飛行になると飲み物が出、1回目の機内食が出た。機内食はパスし、眠ることに専念した。

 

 

2日 2月29日(日)

 

 機内がざわつき2度目の機内食が運ばれてきた。

オイルマネーで潤うドバイ上空は街の灯が明るい。ドバイ時間5時55分に予定通り到着。この時間はまだ夜明けが遅いようである。

 リビアの首都トリポリに行くのに3時間の時間待ちがある。

チェックインが始まり、9時25分発の飛行機で今度はトリポリに向かう。飛行時間6時間40分。

現地時間13時間50分にトリポリ着。都合18時間半の空の旅が終わった。

 機上からトリポリは薄っすらと緑をはいたように見え、畑の中のローカル空港のようである。

空港内も天井が低く照明も暗い。ターンテーブルも3本しかなく荷物が出てくるのも遅い。

 入国手続きも済ませ、バスまで荷物を運ぶと待っていたバスはボルボのオンボロバス。そのバスに乗り込みホテルへと向かうが、街のあちこちにカダフィー大佐の写真、肖像画が掲げられている。また36という数字は今年で革命36周年という数字。カダフィー大佐はこれからホテル、レストランいたる所で対面する。

空港から市内への道は華やかな都会という感は無く、少々うらびれた感じがする。しかし市内に近づくと建築中のアパートが目立ってくる。

部屋から見た夕日

 ホテルのチェックインはあらかじめ係員が先に行っているにもかかわらず時間がかかる。

やっと貰った鍵で部屋に入り休憩する。

 ベランダの壁がオレンジ色に変わってきたので外に出ると、夕日が地中海に沈もうとしていた。きれいな夕日である。

 長い一日が終え、栓が無いバスタブに回

数カードを使ってお湯を溜めた。今回このカードが非常にお役立ちとなる。

 

 

3日目 2月20日(月)

 

 今日からリビア滞在中制服を着用していない大柄な白髪混じりの観光ポリスが同行することになる。

 トリポリからサハラ砂漠を南下してガダメスへと向かう。ガダメスまで約270キロメートル、途中数百年前の食糧貯蔵庫に立ち寄り4時間の行程。

地中海の海岸近くには舗装道路が付き、海岸にはドラム缶の錆びたのが転がっている。

また歩道にはワゴン車の乗り合いタクシーを待つ人々が立っている。

 リビアは鉄道が無いため、国民の移動手段は自家用車、ローカルバス、タクシー、遠距離には長距離バスを利用するか航空機でなる。

 市街を少し走ると高い塀に囲まれた一画があり、ここがカダフィー大佐の住むところ。中には軍事訓練所、執務室、邸宅があるそうだ。

 15分ほど走ると郊外に出、車窓からはアーモンドの薄いピンクの花、オリーブの木が見えている。

バスは郊外に出ると俄然スピードを上げ、110キロくらいの速さで走っている。

リビアは一部高速道路は時速120キロだが大体において制限速度が無く、砂漠などは状況に応じて走っているという。乗用車がどんどん我々のバスを追い抜いて走り去る。

道の両側にはリビアの花、アルスルというタンポポに似た花や、薄紫のブルグルムという花が咲いている。まだ砂漠一面に咲くには少し早そうである。季節的には雨季が終るころ。

 トリポリから40キロくらい走るとアジージャの町に着く。

沿道の店を覗くが昨日も今朝も両替ができなかったのでお金が無い。店は同じものを商う店が並んでいる。

 サハラの礫砂漠を走っていると、荒野に車のスクラップが野積みされている。2年に一度くらいの割合でリサイクル業者が回収し、パーツ別に仕分けられる。

 人口2000人の小さな村に入ると車のチェックポイントがあり、チェックを受けている。チェックポイントではドライバーの通行許可書、ライセンスを見せるそうで、時にはトランクの中を調べられることもある。観光バスは名前を書いた紙を渡すだけ。

村落にはモスク、学校などの機関が設けられている。

 この村を通過する頃から緑も少なくなり、礫砂漠をただひたすら走りぬける。何処までも礫砂漠が続き、地の果てを見ているようである。時々見える工場は建築資材を作る工場。

 やっと前方に小高い山が見え、標高630メートルのラフーサ山脈である。ナルートの町はこの山の上にある。

ナルートは人口1万人、ベルベル人が多く住む。

入り口近くには祠のようなものがあり、この中には化石化したナツメヤシの木、飾り物、砂漠の花などが展示されている。

石の道のところどころに直径10センチくらいの窪みがある。ディズといい、この穴の中にナツメヤシの種を入れ、粉にして家畜の餌にした。最近雨が降ったので窪みには水が溜まっている。

 扉に使ったナツメヤシの木がすでに化石化した入り口を入るとそこは貯蔵庫。

天井部分にはアラビア文字と一緒に手形も残され、また貯蔵されていた物が並べられている。

貯蔵庫の数は365

ありこれは1年の暦と同じ、翌年の同じ日まで貯蔵できた。

個人用から共同のもまであり、縦壁には梯子がつけられていた。貯蔵庫の一番高いところは今の建物の6階建てに相当する。

穴の中には入り口より大きな甕が入っているが、こ

れは貯蔵庫を作る前に入れた。穴の奥に風通しの穴も作られ通気をよくしてある。中にオリーブオイル、穀物などを貯蔵した。

 貯蔵庫を出ると当時のベルベル人の住居も修復し見せている。外の小部屋は台所で煤けたまま残っている。

 他にモスクがあり、屋根には小さいながらミナレットもある。モスクの中にはミナレブも残り、1日5回の礼拝をしたところ。

石臼

 オリーブ工場は大きな石臼が残されている。

24時間交代をしながら目隠ししたらくだに石臼を引かせオイルを絞っていた。

ナツメヤシからできた篭に潰したオリーブを集め、これを絞るとオイルができる。個人のオリーブを個人が絞っていたようである。

 昼食後目的地のガダメスへ走る。ガダメスまでは330キロメートルの距離。ただただ礫砂漠を走るだけ。大体等間隔に50キロほど走るとナツメヤシの木が茂る村に着く。これは1日の移動距離になるのだろう。

 ガダメスも入り口にナツメヤシの木が茂りオアシスであったことがわかる。

小さなホテルが今夜から2日間泊まるホテル。鍵は昔の差込式、開け閉めに難儀する。室内の机の上には小さなヒーターがついているが、寒そうである。

 

 

4日目 2月21日(火)

 

 ガダメスの旧市街は1986年に世界遺産に登録されたオアシス都市。

サハラ砂漠の東部に位置しアルジェリア、チュニジアと国境を接し、アラブ年代記には『砂漠の真珠』と記され、地中海沿岸とアフリカ内陸部との交易ルートの中継地として栄えた。

 旧市街には3000年前からベルベル人が住み、日干し煉瓦を積み、白い漆喰を塗り、北アフリカの伝統的なマグレブ装飾をほどこした住居が残っている。夏は40度を越えるサハラ砂漠快適に過ごせるように工夫されている。

 旧市街は7つのブロックに別れ、夫々にモスク、コーラン学校があり、3本の運河が流れていた。その水が嗄れ始め1983年に住民は新市街へ移り住んだ。

 旧市街に入ると血族ごとに住む地域が異なり、夫々がモスク、学校、広場などを持っていた。

ガダメス旧市街 ティガジン地区・集会場のアーチ部分の手形模様

屋根の付いた道路は迷路のように繋がり、時々明り取りのための吹き抜けで真っ青な青空が見える。壁のところどころにはオイルランプを置くところもある。女性は男性に顔を見られないように2階の渡り廊下を歩き、男性はこの道を歩いた。

めったに雨は降らないが排水溝が設けられていた。

 ジャラサン地区を皮切りに迷路に迷い込む。漆喰の白壁に茶色の土道、夏に適した街造りだから寒い。モスクが見えてくる。モスクの前は集会場になっていた。メッカに行った家の人の扉は絵を描いて装飾している。これがそのまま残っている。

ピーナツ入りチャイ

 次にティガジン地区に入る。

アーチのところに残っている手形は修復した記念に住民が残したもの。

ここの広場の休憩所でリビア式チャイを飲む。焼きピーナツがチャイの中に入っていてピーナツごと飲む。

  3つ目のエンドゥハレフを歩き、カザール地区を過ぎ、ガダメスの中央広場に出る。ここは7つの地区から自分たちの商品を持ち込みマーケットになっていたところ。

見張り台から見た廃墟と手入れされずに残ったナツメヤシ畑

 マジール地区は外敵に備えた見張り台があり、ここから見えるのはもう人が住まなくなった廃墟と手入れするするものがいないナツメヤシの畑。

運河が通り、家の外で家畜を飼っていた。今日も突然モーと牛の鳴き声がするではないか、今もここで家畜を飼っているそうである。

 ダラール地区は細くて暗い。鼻をつままれてもわからない真っ暗闇を手探りで両方の家の壁に手を突きながら、右に左にと路地を曲がって歩く。時々明り取りのところに来るとボッーとした陽がさす。やっとタスコ通りに出ると広場の周りの建物は第2次大戦で爆撃されたところ。当地ここはイタリアが統治していたのでフランス軍の攻撃を受けた。タスコ地区の広場ティドイン広場に出るとガダメスで一番古いオールド・モスクがある。モスクの隣が郵便局で、キャラバン・サライが鎖にぶら下げられた郵便物を運んだそうである。

 

 昼食はベルベル人の住居を改造したレストラン。床にカーペットを敷き、壁にも布を張り、壁に沿って細長いクッションが置いてある。フードカバーなどの飾り付けをしたガダメス独特の民家である。しかし夏対応の部屋は寒く背中からジンジンと冷えてくる。それにここでは調理しないので運ばれる食べ物は冷めている。暖を取りたくてもそれが出来ない。クスクスなどが出たが早々にレストランを出、広場の日当たりのいいところへ退散した。お日様のぬくもりは有難い。

 一旦ホテルに戻り小休憩の後、4輪駆動車に乗り換え礫砂漠を走ること45分。見渡す限り礫砂漠が続き、最近降った雨の後が白く塩を吹いている。

 フライ・アイ湖は8の字のような形、上から見るとハエの目のようということでこの名がついている。ハエをじっくり観察したことが無いのでわからぬが、8の字だと合点がいく。きれいな青い湖である。

塩湖のフライ・アイ湖

深さ70メートルと30メートルの2つの湖、塩湖だが塩分濃度が低いためキャラバン隊にとってはここがオアシスだった。

地平の彼方にはチュニジアが見えている。

 来た道を引き返し、今度は砂丘に夕日を見に行く。何もさえぎるものが無い砂漠を飛ばして走るのは気持ちがいい。しかし太陽が照りつけ車内は凄い温度になっている。昼食時の寒さとえらい違いである。

トワレブゾクノ砂のオーブン

 夕日を見るため礫砂漠をぶっ飛ばしていくと砂砂漠の砂丘が見え、トワレブ族のテントがある。このテントでは現在生活していないが生活様式を見せるためのもの。この中でチャイやナツメヤシを貰い、トワレブ族の焼くパンを味見する。パン生地にスパイス数種類を入れ、熱く焼いた砂の中に入れて15分ほど焼くと出来上がり。彼らは遊牧民のためオーブンの持ち歩き

は不可のため砂を利用したオーブンになる。

 最近降った雨のお陰で砂漠は適度に湿り歩きやすい。夕日のポイントまで1つ2つと砂丘を越え日没時間を待つ。雨後の水溜りを夕日が照らし、砂丘の色もオレンジ色に変化し、風紋も次第に変わっていく。

サハラの夕景。

砂丘の色も刻一刻と変化していく。

 

5日目 2月22日(水)

 

 今日はトリポリに戻り夜の飛行機でベンガジへ移動。

 8時ごろバスに乗ろうと思うとトリポリの方向からきれいな朝日が昇るのが見える。随分夜明けが遅い。

トリポリまでは同じルートで帰るのだが、今度はトイレ休憩だけで昼食時のナルートのホテルへ向かう。月面クレーターのような礫砂漠だが、2日の間に砂漠の花も随分広がり一面黄色くなっているところもある。

 昼食後もただひたすらトリポリに向かって走る。

 夕方やっとトリポリに着き、スーパーマーケットに立ち寄り少しナッツやシナモンなどを買う。

市内のレストランで夕食を済ませた。

夕食のメニュー

デザートはリビアのお菓子のアシーダ。小麦粉を水で練った団子のようなものにナツメヤシのシロップをかけたもの。

 夕食を済ませトリポリ空港へ向かった。ところがイタリアの国会議員がムハンマドの風刺画入りのTシャツを着用したとかでベンガジ入りが出来なくなった。

リビア政府が観光客の安全を考えてベンガジ入りを禁止したが解け次第ベンガジ入りをする、ということでトリポリに向かって帰っていたバスを呼び戻し、トリポリに舞い戻ることになった。チェックインは相変わらず遅く部屋に入ったのが10時を過ぎていた。急に疲れがどっと押し寄せた。

 

6日目 2月23日(木)

 

 ベンガジでなぜデモが起きたのか?

 8年前ブルガリアの医師団が持ち込んだ小児用ワクチンで死亡事故が起き、医師団は逮捕され今も服役中だそうだ。

そのときの不満が鬱積し、いまだにデモが起きやすい状況にあった。これが18日のデモに繋がり、政府も観光客の立ち入り禁止処置をとった。

 8日目の観光を繰り上げレプティス・マグナの観光である。

 トリポリから1時間半ほどのところにある地中海沿岸の遺跡である。

 紀元前9世紀フェニキア人の港湾都市として築かれ、最盛期には10万を越える人々が生活をしていた。また肥沃な土地で農業にも適していた。

 砂に埋もれていたレプティス・マグナはイタリア人考古学者P・ロマネッリの手により1921年から発掘が開始された。第2次大戦後リビア、ヨーロッパの考古学者とともに発掘を開始し、4万平方キロメートルの中から数々の遺跡を発掘、修復がされている。

 146年レプティス・マグナで生まれたセプティミウス・セウェルスが皇帝として治め、壮大な都市計画が始まった。フォーラム、パジリカが造られ、商業活動の中心となった。

サプラダ、オエア(現トリポリ)、レプティス・マグナを合わせてトリポリマニアになり、3つの年という意味のギリシャ語。ここを支配したのがカルタゴ(現チュニジア)である。

 455年ヴァンダル人に破壊され、その後ビザンチン帝国に一部再建されたが644年にアラブ人が侵攻し砂の中に埋もれた。

 

 車窓からは栽培されたアーモンドの花が咲き、畑を見ると昨日の礫砂漠と違い気持ちがほっと安らぐ。

雲が重く垂れ込め風も出てきている。本当なら青空に地中海の青い海を連想していたのだがサウンドベージュの空の下の遺跡見学となる。

 まずは南北に走るカルド通りにあるセプティミウス・セウェルス門から中に入っていく。

1921年から海岸線から発掘が進み、門は1945年に発掘された。4つの面があるセウェルス帝の凱旋門である。低いが3段の階段があり、馬車はその周りを進んだ。

この門をまっすぐ進むと地中海に出る。コリント様式の8本の柱には勝利の女神ニケが彫られている。レプティス・マグナの守護神はヘラクレスとバッカスでフォーラムなどの柱にも彫られている。

 門を右に曲がるとローマ時代からの道が表れ、その下には運河が流れていた。

ハドリアヌス皇帝時代の運動場と浴場跡を見る。当時も運動の後に浴場に入る習慣があった。柱の断面がタマネギを切ったような面が出るタマネギ大理石といわれたものを使用。

浴場にはプール(屋根なし)があり、床はモザイクが描かれ、壁には大理石が張られていた。今も一部が残っているが、15メートルの高さがあった。ここには精巧な大理石の彫刻が置かれていた。

セプティミウス・セウルス門

これだけの浴場を維持する水は雨水とキレヌ川を灌漑した。当時川は近くを流れ、ダムを造って調整していた。貯水池は4つあり1つは浴場専用であった。

 次に50人が一度に使用できる公衆トイレ、ここは情報交換の場。浴場の雑排水を利用した水洗トイレ。その水は地中海へと流れて行った。

 妖精の神殿は3世紀の2階建ての建物、半円形で大理石を張っていた。市民の憩いの場であり、噴水もあった。柱の模様はタマゴが生命の誕生を、槍の先は死をあらわし、永遠にこの時代が続くようにとの願いがあった。

当時の接着技術はセメントを使うか、石と石の力関係を上手く利用して設計されていた。

 幅40メートル、長さ500メートルの列柱通りの敷石は斜めのデザイン。皇帝の奥様がシリア人でシリア、ヨルダンの影響が出ていた。

 左折するとフォーラムに着き、アーチの間に守護神のメドゥーサが幾つも並んでいる。

ギリシャ神話のゴルゴン姉妹の一人で頭髪は蛇、この目に見つめられると見るものを石に変えたという。ペルセウスに退治され、頭はアテネに贈られ、胴体からペガサスが生まれたという。

メドゥーサと列柱通り、フォーラム

 

 

 フォーラムを進んでいくとパジリカへと続く。柱にはヘラクレスの戦いが順次彫られ、その上に勝利の女神ニケが立っている。また別の柱にはバッカスが彫られている。キリスト教の入る前は多神教の時代だったのでアポロン、ヴィーナスなどの神々が彫られていたのである。

 ここを出て右へ行くと紀元後1世紀のフォーラム、オールド・フォーラムへ。

ここもローマ皇帝を中心にヘラクレス、バッカス神殿の違った柱が残っている。

中心の円形場所は市民の集まるところで、ゲームを楽しんでいたがルールは解らないとのこと。ゲーム盤が床に彫られている。1世紀ごろにできた看板にはポンペイの名が、その下方にはカルタゴで使われていたポシニア語も明記されていた。その頃この街とポンペイは姉妹都市の関係だった。

マーケットに行く途中に家族、子孫の繁栄の神セラピス神殿を通る。しかしアラブの侵攻の際破壊された。この時代は神の役割も分かれていた。

マーケットの中は小麦、野菜、果物などの売り場が分かれ、石で作られたはかりが残っている。

 

 

石の秤

円形劇場跡

 いよいよ円形劇場である。5つの入り口があり、4000人が収容できステージの後ろには列柱がが続いている。舞台に上がると後ろは地中海、せりふは楽隊と一緒に述べられ、俳優はそれに合わせて演じていた。観客席に上がると舞台の柱越しに地中海が見える。今日はあいにくの天気、まったくもって青空など望めない。青空に青い地中海を想像しながらこの壮大な遺跡を見た。

 昼食後付属博物館の展示物を見る。

フェニキア人時代の石器、オイルランプなどが展示されている。

フェニキア人は火葬をし、生活していた食器なども一緒に埋葬した。

 ローマ時代の部屋に入ると遺跡から出てきたオリジナルの柱、フォーラムに並んでいた像、またコインも一緒に展示されている。

 最後の部屋は博物館ができたときに、カダフィ大佐に贈られた各部族からのカダフィを支持すると書いたものと一緒に品物も展示されている。

 風は益々強くなり砂嵐のさまを濃くしてきた。この中を円形闘技場までバスで移動。闘技場に着いたが私はこの砂嵐の中を見学する気も起きずバスに居残ることにした。

見学した人の話によると16000人収容できる最大級の規模を持つ闘技場と馬車レース場があった、という。また風も一段と強く飛ばされそうになったと。

 ベンガジ行きが不可能になったため、ヴィラシリンという海岸近くの皇帝の別荘と考えられているところに立ち寄る。低い防波堤があるが砂色の空に打ち寄せる波頭は白く、全てが砂色の世界である。

ここにモザイクの部屋が40近くあるという。もちろん浴場設備も整った建物である。入り口近くに井戸のような穴がある、これは各部屋への通気口になっていた。

 お客を迎える部屋のモザイクは四季を表し、大理石で作られたほぼ完全な形で残っている。他のモザイクも保存状態が良いが照明も暗く、未整備な施設だ。これが整備されると一大モザイク博物館になるだろう。

防波堤

モザイク

 

 今日のローカルガイドはナセルさんというが、午後から9歳になるという息子が一緒に付いて来た。父親譲りの負けん気の強そうな利発そうな子供である。

目が大きく可愛い顔をし、大人と同じデザインの黒のウールのオーバーコートを着ている。これがまた似合っていて可愛い。日本では父親の背中を見て育つ機会が失われているが、この子は今日しっかりと父親の仕事を見ている。時々父親のポケットから何かを取り出し食べている。こんなところはやはり子供である。

 

 時期が少し早いが砂嵐のような一日、走る車も砂で汚れ、ところどころに砂の吹き溜まりができている。夜になっても風はおさまることも無く、ホテルの前に植えられているナツメヤシの木も大きくしなっている。

 

7日目 2月24日(金)

 

 一晩中吹き荒れていた風は少しおさまったようだがまだ強い。しかし今日は晴れているのでサプラダの遺跡は青い空と青い海のセットで見られそうである。

トリポリから西へ約100キロメートル、1時間半の行程である。

 サプラダ遺跡もレプティス・マグナと同時代に造られた。紀元前9世紀にフェニキア人が基礎を造った上にローマ式の都市化が進み、北アフリカ最大の円形劇場が出来上がった。ここもレプティス・マグナと同じ運命をたどり、365年の地震で止めを刺された。

 遺跡の入り口を入るとローマ人の裕福な人々が暮らしていた住宅街跡がある。ナルート山脈の湧き水を水道橋で引き、街を優雅に見せるための噴水もあった。住居は夏をしのぎやすくするために地下室が作られ、35,000人が暮らしていた。溜めた雨水を屋内に引き込むための土管も整備されていた。

ペスの柱

 ペスというエジプトの神を祀るために彫られた塔がある。フェニキア人がエジプト経由で来たのでその信仰心の記録である。ペスはライオンに挟まれているが海の守り神だった。とうは大部分が壊れていたが1946年に修復され23メートルの高さがある。柱のしたの部分はイオニア式。

 遺跡内の住居跡には階段の横に水を通す菅があり、水道橋から引かれた水を屋内に取り込んでいた。大体1軒の家には7から8人が住んでいた。また商店の床のモザイクがしかれていた。足で砂を除けるとモザイクが出てくる。

 ビザンチン時代の城壁からは遺跡を展望することができる。

カルド通りとデキモノス通りが交差するところを海に向かって歩くと南のフォーラムの神殿跡に出る。神を祀っていたのは解っているが何の神かは不明である。

床は魚の骨をデザインした大理石が敷かれ、コリント様式の大理石が残っている。パジリカにはキリスト教が入ってきてから洗礼盤が造られ、大人用、子供用と別れていた。

 海岸線に沿って歩いているとオリーブを絞った石臼が残っている。オリーブ通りといわれる通りにはオリーブを溜めたスペースが残っている。

ここを過ぎると公衆トイレである。このトイレの水は貯水池から引かれ、排水は地中海へと流れていく。大理石の便座を暖めるのは奴隷の仕事だった。情報交換の場でもあるのでさぞや話に花が咲いたことであろう。トイレを出てトンネルをくぐると地中海を見ながらのバスタイムが待っている。アセアヌス浴場である。

イシス神殿を見て歩き、5000人収容の円形劇場へ向かう。

地中海を背にした列柱

アセアヌス浴場跡のヴィーナス像

円形劇場の三階建ての楽屋

 劇場には8つの入り口があり、VIPが通った入り口から中に入る。

壁は砂岩に大理石を貼ったもの。紀元後二世紀に造られた3階建ての楽屋を持ち、青く輝く地中海を背に舞台がある。仮面をつけて演技をし、楽隊のところには大理石を彫ったレリーフ、VIP席は低い階段になっている。階段に椅子を置いて観覧したそうだ。

楽隊のところに彫られたレリーフ

最後に少し離れて全景を見て円形劇場を後にする。

 レプティス・マグナの円形劇場とは舞台の構造が違い、こちらの円形劇場のほうが良いように感じた。

砂に埋もれていたので保存状態もよく、お天気も回復したので舞台後ろの青い地中海も見ることが出来た。やはり遺跡見学は青空の下で見るのが実に素晴らしい。

     サプラダの円形劇場全景

 昼食後1932年にオープンした付属博物館の見学。入り口では発掘された像が出迎えてくれる。中に入るとユスティニアヌス帝のパジリカで見つかったモザイクが敷かれている。階段の上から見ると見事な孔雀が描かれている。羽を広げたのはフェニックスを表現し、孔雀は魂の美しさだそうだ。壁にも幾つ物モザイクが飾られている。廊下にはオリーブの木をモチーフにした想像上の植物が描かれている。これはキリスト教の発展を願ったもの。

モザイクにも一部ガラスを用い、馬車に乗った男女、ライオン、トラなどが描かれている。一般家庭のフレスコ画を見て当時のハイレベルで優雅な生活を想像する。

お墓から出たガラス容器

 

博物館を出てトリポリに帰る途中にあるザンズール博物館に寄る。

この博物館は1958年、農民が畑を耕しているとき偶然見つけたフェニキア人のお墓。

墓から出てきた物の中にガラスの壷がある。薄い水色の中には砂や礫がつまり割れているが形は残っている。

他に鏡、オイルランプなどの生活用品が展示されている。死者が蘇ると信じ、そのときに困らぬよう一緒に埋葬したもので紀元前5世紀ぐらいのもの。

オイルランプは個人の好みの模様が描かれていたが時代がビザンチンに入ると、外敵の侵入のため余裕が無くなりシンプルになってくる。

ベンガジ行きが無くなったため急遽見せてくれた博物館であった。

 

 朝出発して走っていると片側のタイヤが砂に埋まった車を見た。運転手がバケツで砂をかき出していた。昨日の砂はところどころに吹き溜まりを作り、凄いものであった。

お天気の回復で午後になると車内は非常に暑くなる。しかし今日から韓国製のバスに変わり座席も狭く、冷房を入れるとガンガンに冷えなんとも調子が悪い。

 今日のガイドさんはタレクさんという物静かな人だった。

 

 

8日目 2月25日(土)

 

 ドバイで乗り継ぐときに見かけた日本人男性と同じホテルで、何度かロビーで見かけていた。その方が言うには「この間あなた方はいい体験をしましたよ、私は10年ほどリビアに居ますがあんな砂嵐は初めてです。写真にとってメールで送りましたよ。いやぁトリポリでは38年ぶりの砂嵐ですからね。」と、話しかけてきた。やはりあの日の風は砂嵐に間違いなかったのだ。道路の植木の根元の土も吹き飛ばし、根がむき出しになり今にも倒れそうな木が何本もあった。凄いなーと車窓から見ていたのだ。

ギャレアンの陶器工房のお皿

 ギャレアン、アル・ハラージというトリポリ郊外の観光になる。

 トリポリから南西に位置し、ガダメスと同じ方向にあるギャレアンはラフーサ山脈にある陶器の町。人口は10万人くらい。工房から出した陶器を並べて売っている。轆轤を回し、絵付けをしている。レプティス・マグナのみやげ物店で見た小鉢もここで作っていたのだ。

ギャレアンで 民族楽器の演奏で出迎え

 

 部屋の内部 この部屋でクスクスの昼食を

1965年まで人が住んでいた地下住居跡。

 ジュマ、ユニスという65歳のオジイサンがズクラという民族楽器を演奏しながら迎えてくれた。

スカートのような民族衣装に羊の皮で作り、ガゼルのような角をつけ、ガスパという管で音階をとりながら笛を吹く。笛の先端部分は牛の骨を使って音の広がりを出すのだそうだ。吹かないときは頭の部分がしぼんでいる。黒い飾りは新婚の人がつけることが多く、婚礼のときによく演奏する。

また太鼓=ラシガは木製の枠に羊の皮を張ったもので表と裏では少し音色が違う。イチジクの木でできた撥で音を使い分けたたいている。

チュニジア、モロッコ、イギリスそしてアメリカへは2度演奏旅行に行ったプロミュージシャンで25歳から始め40年のキャリアがある。

 おじいさんの代まで住んでいたという地下住居のオーナー、ムーサさんの家を見るのである。今では観光用に整備されている。地下の吹き抜け部分は青い空が見え、小鳥が鳴き、雨水を溜める四角い池がある。池を中心に四方が住居となり8家族が住んでいた。1家族の構成は祖父母、夫婦に子供が4から5人くらいが普通。300年以上前からの住居で約70箇所ある。敷地内の貯水だけでなくほかにも貯水池を確保し、少雨に備えていた。

砂岩で堀りやすいとはいえ手掘りで造り、厳しい土地に合わせ冬(マイナス2度くらい)は暖かく、夏(45度くらい)は涼しいようにできている。1年を通じて24度から25度くらいに保たれていた。キッチンは住居部分の横にかまどがあった。

 祖父母の部屋、夫婦の部屋と子供部屋の間仕切りはカーテンか壁である。

食事も自然食で長生きの人が多い。今日も95歳というオバアサンが入ってきて入り口近くで織物をしている人の傍へと歩いて行った。

農業、織物で生計を立てていた。

 住居の2階部分は貯蔵庫で8つの鍵がかかっていた。貯蔵庫を開けるのは毎週金曜日。

 1965年ごろから便利な生活を求めて電気、水道のある町へと移り住み、1972年には住む人が居なくなった。

 ここで食べたナツメヤシが美味しかったので求めたが、1キロ単位だった。

 クスクスの昼食が済み、次に訪ねるところはアル・ハラージの食糧貯蔵庫である。ギャレアンから西方に走ると870年前にできたリビアで2番目に古いとされている貯蔵庫に着く。ここの特徴はまず円形であること、次にコーラン構成の章と同じ114の貯蔵庫があることである。

 地下1階、地上4階、各入り口には椰子の木製の扉が付き、階段がある。

なぜ円形になったかはまだ解明されていない。

円形貯蔵庫の中庭にはごろんと大きな壷が転がっている。

厳しい気候だがここも上手く自然を取り入れ、小さな穴は通気口、貯蔵庫の中は空気が入れ替わり一定の温度が保たれた。

円形貯蔵庫と中庭に壷、貯蔵されていた小麦

サンプルの小麦は1968年のものと1982年のものだが品質は今もまったく変化が無い。クスクスの材料にした小麦である。

人々はこの貯蔵庫の外で暮らし、必要に応じて食料を取り出した。

 普段はめったに観光客も来ないのか周りはモスクはあるが、人の姿もまばらである。なんとなく閑散とした町である。今は新市街へと移り住んでいるそうだ。

 

 

9日目2月26日(日)

 

 トリポリ博物館が最後の観光。

 博物館には浴場跡から出てきたヴィーナスの像、ローマ人の生活の場にあったモザイク、トリポリから南東400キロメートルのヤルダで見つかったローマ人の墓などが展示されている。墓石には4本の柱があり、ぶどう、ライオンなどが彫られ、当時の裕福な層のものである。

 アポロンの彫刻からいきなり1968年製のフォルクス・ワーゲンである。

この車はカダフィー大佐が使っていた車、2年後に革命が起きた。

 アカクス山の近くから発見された1万年前の木の化石。先史時代のワディから見つかった岩に直接描かれた壁画。壁画から解ることは砂漠化しておらず、豊かな土地であったということ。

 リビア東部のゼウス神殿を修復したもの。ヴィーナスは世界に3つありその一つがここトリポリ博物館にある。

 春は花が咲き、夏は薄着をし、秋には実が、冬は重ね着で四季を表したモザイクは最高!

 レプティス・マグナの模型を見ると列柱も250本におよび、メドゥーサも元は高いところに置かれていた。

 これでリビアの観光は終わり。

空港内でランチを済ませ、後は残りのお金で免税店で買い物をするだけ。だがなかなか買うものが見つからなかったがやっとクリップを見つけ、有り金全てを出して買った。もちろん足りない分は店主のおまけ。シュックランを連発して無事買い物も終了。

 15時20分発の飛行機でドバイへ、飛行時間5時間40分。

時差2時間を足してドバイ時間23時に無事到着。

 またまた免税店へと馳せ参じ、トリポリのスーパーで買う予定だったナッツを少し買う。何しろ手荷物で帰らねばならない、手持ち可能な分だけしか買えない。

ドバイ空港は24時間不夜城の空港、リビアの空港とは大違いに明るく活気がある。アジアからの出稼ぎ風な人々も夫々の航空機を待っている。

 

 

10日目 2月27日(月)

 

 深夜2時50分発の飛行機は機内に入り座席に着くと空席が目立つ。これはラッキーと思ったがなかなか飛び立たない。だいぶ経ってから機内放送で、接続機が未着のため遅れているとのこと。1時間近くたってどやどやと乗り込んできた。満席で離陸した。偏西風に乗るので少しは短縮されたが、定刻より遅れて17時40分に関空に着いた。 

 通関を済ませ大急ぎで西宮行きのリムジンバスに乗り込む。補助席を使うくらいの満席状態。

阪神西宮で降り、タクシーを待つ。このときよその団体だったが接続便に遅れた人の話によると、モロッコからの飛行機が遅れたこと、モロッコのアトラス越えが雪の為迂回路を通ったため24時間もかかったことなどを聞いた。

 帰国すると日本もかなり寒い、リビアも砂嵐や珍しく1日中雨が降り続いたとか、異常気象があちらこちらで起きている。

 

 

 念願かなってリビアに行くことが出来た。

リビアに入国するには団体ビザを取る。そのときに提出するのが両親の名前、配偶者名(亡くなっていても記入)、仕事を持っている人は上司の許可書までいる。できあがったビザはアラビア文字の手書き。

 都市遺跡も素晴らしく、写真を見ては旅心をくすぐられていた。

トリポリでは38年ぶりという砂嵐にも遭い貴重な体験ができた。

出国のときに聞かされていたベンガジのデモが尾を引き結局はアポロニア、キュレーネ、トルメイダ遺跡を見ることは叶わなかった。その代わりに見た円形貯蔵庫などは普段のツァーでは行かないところを見ることができた。

 カダフィー大佐が率いる社会主義国リビア、ガダメスでガイドのごとき先導してくれた老人が「・・・カダフィーに代わって良かった・・・」というようなことを言い、「私の学校はストリート。ストリートで英語、フランス語、ドイツ語などを学んだ。」と話していた。

教育費、医療費などが無料ということは安心して生活が出来る。これは国民は支持しやすいだろう。いたる所カダフィー大佐の肖像画が掲げられていて、これだけを見ると社会主義国の一面を見ているという感がするが。

 

 砂漠は生き物、夜毎に風が吹き、私から見ると美しい風紋だが、これが長い間遺跡を砂の中に閉じ込め、今私たちの目に昔の栄光を見せてくれている。

急いで修復したところは溶剤が悪く、塩害などの新しい問題も引き起こしている。

 産油国リビアは1家族の出生率も高く、砂漠の緑化が進めば広大な国だけに発展していくだろう。

 これが今回リビアで見てきたことである。

 

 

 

 

 

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