| ブルガリア・ルーマニア |
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旅行行程図 5月12日〜23日までの12日間
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今回急に思いつき、無理を言って座席を取ってもらっての旅であった。 ブルガリアは面積11,1平方キロメートル、人口900万人、首都はソフィア。バラとヨーグルトの国というイメージである。 ルーマニアは面積23,8万平方キロメートル、人口2300万人、首都はブカレスト。イメージとしてはルーマニアというとドラキュラである、しかし農業国である。
◇5月12日(木)晴 1日目
伊丹から成田へ、今回一人で参加し少し不安があったが思い切って旅立った。 成田に着くと、中巴公路で一緒だった人も同じ旅であった。今回はお孫さんを連れての旅だそうだ。 12時20分発のルフトハンザ機でミュンヘンに向かって12時間15分のフライトである。成田⇔ミュンヘン間9400キロメートルである。 私の隣席の方はドイツ人で、日本の企業との合弁会社に6年間勤務した人である。今年の8月にはドイツに帰国するので忙しく、ドイツと日本の間を行き来していると話していた。機内食が出るまでお互いに本を読んでいたのだが、それから話し始め、シベリア上空からは短く感じた。いつもなら丁度半分ぐらいの距離でこれからが長く退屈な時間になるのが助かった。シベリア上空は雪が残り、いつも見る荒涼とした不毛の大地とは違った。 ミュンヘン上空に近づくと黄色い菜の花畑が見えてくる。ドイツ人の話によると、菜の花でオイルを取るために栽培しているということだった。 現地時間17時30分頃にミュンヘンに着いたが、機内放送で雷雨ということだ。 お互いに「これからの仕事が上手く行きますように」、「いい旅をして下さい」と、いって別れた。 ソフィア行きの飛行機が30分遅れとなり、20時10分発でミュンヘンを飛び立ち、ソフィアに着いたのが23時20分。空港は日本のローカル空港のような小さな空港である。 何時もの事ながら時差があるので長い1日がこれでやっと終った。明日の用意をして眠りにつく。
◇5月13日(木)晴 2日目
昨日遅くにホテル入りだったが、今日は楽しみの一つリラ僧院の見学である。 ホテルを出てソフィア通りの一つグリス王様通りを走る。道の両側にはマロニエが街路樹として花を咲かせている。 市民はバスをよく利用するそうで、バスも5枚チケットを買うと割安だそうだ。これは日本も同じで、私も利用している。 ソフィア市内は交通渋滞もひどく、車の数も多い。ソフィアを抜けると近くには温泉があるそうである。市内を出て住宅街も抜けると、山道に入り長閑な田園風景へと変わる。農家の庭先にはチューリップ、タンポポが咲き、マロニエの花、リラの花が庭先から見える。まわりの新緑が美しく、ヴィドシャ山(2290メートル)の頂上には残雪があり、やがてベルニク地方になる。人口は僅か200人の小さな村だが、二種類の葡萄が栽培され、赤ワインが有名とのこと。 またコウノトリが巣づくりをするコチュノヴァという村では毎年4月から5月ごろまで巣づくりをしてエジプトやアフリカに帰って行くそうである。 11時30分頃に焼く120キロを走り、リラ僧院に着く。リラ山には残雪が残り、緑とリラ山の景色は絶景である。リラ山とは『水の山』という意味で、湖や川が多い。リラ山の頂上はムラサといい2925メートルあり、バルカン山脈の一番高い所。 リラ僧院はブルガリア最大の僧院で、イワン・リルスキーという修道士が隠遁生活を始めた所。 |
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リラ僧院とフレスコ画 |
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城塞のような建物の中にあり、敷地面積は8846平方メートルもある。 リラ僧院はブルガリア君主から特権を与えられ、14世紀にオスマントルコの侵略を受けたが、オスマントルコもリラ僧院だけは特権をそのままにした。しかし17世紀から18世紀にかけてオスマントルコの内紛による影響を受け、1883年の火事で焼失したが1年後には再建の槌音が聞こえた。 リラ僧院の中で一番古い建物は1335年に建てられた高さ23メートル、壁の厚さ1,5メートルのフレリヨの搭である。一時期牢獄としても使われた。 教会のまわりのフレスコ画は19世紀に描かれたもので、死者が現世でおこなった行いにもとづき天国か地獄に別れる。 写真で見ていたリラ僧院と、目の前で見るリラ僧院のドームをつなぎ合わせたようなものと城壁は想像外であった。回廊式の修道僧たちの部屋はブルガリア・ルネッサンス様式。内部の中央は聖職者の扉、左にマリアのイコン、右にキリストのイコン、ドームの中央には三位一体が描かれている。 バルカン半島を一時は制圧したブルガリア王国の力を見たように思う。今でこそ舗装道路が出来車で簡単に来ることができるが、当時峻険な山の中の僧院であったことが幸いしてリラ僧院が守られたのであろう。 展示室にはラファエロ修道士が12年の歳月をかけて作った十字架があり、その結果失明したという。18世紀のオリジナルでくるみ材で、高さが70センチの見事なものである。ロシア正教の影響を受けたイコンは、頭の光輪が銀製である。 |
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リラ僧院への道の景色 |
昼食後、もと来た道を引き返しソフィア市内の国立博物館の見学をする。 国立博物館ではブルガリアの紀元前から現代にいたる展示物が年代順に見ることが出来る。紀元前6000年から1世紀にかけてローマ軍が入ってきたため、ローマ時代のモザイクもある。 トラキア時代の副葬品の中には、当時の生活用品の道具類のミニチュアが入っ |
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ていた。翡翠のイコンがあり、一番大きな翡翠に12神が描かれている。 ブルガリアという国は紀元前7000年からトラキア人が住みつき、オスマントルコ、ロシアに支配されたが、一時はヨーロッパを支配した大帝国だった。 次に聖ペトカ地下教会に行く、ここは四方をビルに取り囲まれた所に位置している。この教会はトラキア人の礼拝堂であった。1956年に発掘され、4世紀にはローマ教会として転向されていた。床はローマ遺跡の石畳になっている。 2階に上がると14世紀のオリジナルの壁画が残っている。教会自体は小さな教会である。外から見ると分からないが、やはり天井はドームになっており、民衆の尊敬を現した聖書の画面が正教会のルールに従って描かれている。地下教会を出て暫らく歩くと、ローマ時代の中心地になる。ここにはネテラ教会、シナゴーグ、モスク、アルメニア正教会が集まっている。 |
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大統領府に行く時に通る道が、シェラトンホテルの中庭にあり、ここにローマ時代の遺跡がある。浴場か水道施設かと意見が分かれているという。ここを抜けると大統領府になり、丁度衛兵の交代時間が近づいていた。ここの衛兵、「やれやれ時間が来た、交代だ!」と、言う表情をし顔に笑みが浮かんでいた。何処の国の衛兵も目も動かさず、直立不動なのに。 |
ローマ遺跡 |
聖ニコライ・ロシア教会 |
アレキサンドル・ネフスキー教会(聖ロシア教会)はバルカン半島最大の美しい教会で、ネオビザンチン様式。 高さが54メートル、金色のドームの美しい教会である。82のイコンと3つの祭壇があり、木製のドアは17年間も乾燥させた木材を使い、祭壇の右側にはライオンの像、王と王妃が座る椅子もあるが王は留守だったため誰も座ることがなかった。 1878年から1887年にかけてロシアとトルコが戦った露土戦争で亡くなったロシア兵の慰霊のために建てられた教会である。 そもそもはブルガリアをトルコから解放するための戦争だった。 |
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皮肉なことにそれからロシアの支配下に入り、社会主義国としてブルガリアは進むことになる。今もまだその影響が少なからず残っているように感じる。 聖ソフィア教会も見たが、記憶が曖昧だ。首都ソフィアの由来はここから来たのだが。『知恵』という意味である。 4から6世紀にかけてソフィアは色んな民族の支配を受け、7世紀にはスラブ民族が住みつき、11世紀から13世紀にはビザンチンに支配された。
今日はリラ僧院をはじめ、市内に戻ってからも多くの教会、国立博物館など見所の多い1日であった。 国立博物館で感じたことだが、ブルガリアというとヨーグルトと農業しか連想しなかったが、歴史も古く広大な領土を持ち勢力もあった。埋葬品から出てくる金製品の純度や技術の高さ、武器や生活用品もたくさん見ることが出来た。 イコンもロシアのイコンは金属を使い、立体的であった。 天気も曇から晴れ、そして最後は雨と目まぐるしく変わった長い観光のだった。
◇5月14日(金)曇り後小雨 気温16度 3日目
朝起きると昨夜雨が降ったらしく、道が濡れている。今日は傘を用意することにする。 9時にホテルを出てソフィアを後にし、ブルガリア第2の都市プロウディフへ350キロの移動である。車窓からの景色は黄色い花、紫の花、アマポーラが咲く平原が続く。農業国の割には農地として使われていない土地が目立つ。社会主義の名残かどうか分からないが。牧草地には羊、山羊が放牧されている。 11時頃にプロウディブに着き、旧市街に入ると中世の佇まいの石畳が残り、家の建て方も面白い。 |
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民家の建て方は、道幅が狭いため2階部分を張り出たせた窓の多い家並が続く。 これは19世紀から続く伝統的な家である。 その石畳を歩いて聖コンスタンチン・エレナ教会に向かう時、道路で焼物のサンプルが置いてある。その人の工房に案内され、焼物を机に叩きつけても割れないという。後で出直すことを約束して、教会へ向かう。 |
プロウディブの市内の家 |
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教会はトルコの支配時だったので、夜に建設をし、昼になるとトルコ軍が破壊を繰り返し、ギリシャ総督の仲介で建設が出来た。そのため長い年月を要したが、1832年に完成を見た。ブルガリアの典型的な正教会様式で、古い教会の一つである。教会のあるところは宗教者がローマ人に殺された場所に建てられた。天井はルネッサンスの影響でドームでなく舟形になっており、2階には聖歌隊の席がある。 壁画の穀物、葡萄は豊かさを表し、イコンは聖書の場面が描かれている。 聖エレナはキリストの十字架を発見し、その十字架で奇跡が起きたという。 聖コンスタンチン・エレナと聖エレナの息子が十字架と一緒にイコンに描かれている。ローマ人に捕らえられたブルガリア人を助けたことによって、聖人として描かれているのである。 民族博物館は当時のお金持ちが建てた屋敷跡で、1847年ハジ・ゲオルギという建築家の手による建物である。当時大変なお金をかけたもので、窓が130、部屋数12部屋、正面から見ると2階建て、裏からは3階建てになっている。窓は張り出し窓で鉄格子が嵌っている。天井に特徴があり、模様は違うが共通しているのは太陽を表現し、果物、小麦の豊饒をあらわしたものである。材質はくるみ材で、正面入口の絵は領主から解放された市場の様子が描かれている。まだトルコの影響が残っていたので、トルコ人、モスクも描かれている。 持ち主が博物館として寄付したものである。 展示物は18世紀の農機具、手回しオルガン、これには美人画が描かれている。各部屋ごとに分類されて展示されているのだが、面白いのは女性の装身具で、直径が10センチもありそうな金属のバックル、これをお腹の上に飾るのである。勿論大きいほど富をあらわしている。 羊から毛を紡ぐ道具、それをフェルト状の布に加工し靴下、絨毯、民族衣装として作られている。羊飼い達は布袋にパンとチーズという質素なお弁当を持参し、放牧の合間に木製のスプーンなどを作っていた。 楽器は笛、バブパイプ、弦楽器があり、弦楽器はバイオリンのように弾くのではなく、半円形の形で下に置きチェロのように弾く。 次に円形劇場に行くが、道は中世からの石畳で石が磨耗し滑りやすくなっている。民族博物館で予定より時間が長くなっていたので、外からの見学となった。 1965年に工事中に偶然発見されたもので、3000人収容の小さな円形劇場である。今はコンサート、撮影、イベント会場として使用されている。 昼食後バチコヴォ僧院に行く。この僧院はリラ僧院に次ぐ規模をほこり、僧院に描かれたフレスコ画はリラ僧院の壁画と同じザハリ・ゾタラフの作品である。 海抜440メートルの小高い所にあり、1083年にグルジア人の兄弟によって創設された。病院、学校などもあり活発な活動をおこなっていたが、グルジアからは遠いのでブルガリア人が代わりを勤めていた。トルコ人によって破壊されたが左側だけが残り、17世紀にトルコの支配が終った時に壁画が出来た。当時はトルコ人に弾圧された人々を匿い、ブルガリア人の心と文化の拠点となった。17世紀から聖母マリアを偲び、毎日2回のミサが行われ、今では結婚式も執り行われている。また芸術的に非常に高い12世紀のイコンもある。 教会正面のキリストのイコンは布に描かれ、布に奇跡があったため非常に珍しいとのことである。技法は17世紀のルールに従って描かれ、聖人の顔の回りにはバラの飾りがある。 マリアとキリストのイコンには金の頭飾りと、銀で打ち出されている。金は命と光を表現している。祭壇は17世紀のもので、正面は父なる神、鳩、キリストの三位一体が描かれている。 食堂に入るとドームの天井には煙突の穴がある。また天井の絵はキリストの先祖を描いてある。17世紀のオリジナルのテーブルは40年前まで使われていた。 トルコの侵攻まではエーゲ海沿岸まで葡萄畑が続き、修道僧によって葡萄酒が作られ豊かな地方であった。トルコの衰退によってまた教会として復活した。この地方には110以上の僧院があるが17世紀のものは珍しい。 プロウディフはトラキア平野の中央部に位置し、紀元前6000年まで遡ることができる。 トラキア人は言語的にはインド民族に属するそうであるが、特別の言語は持っていなかった。ギリシャの文献から騎馬民族であったことが分かっている。トラキア人と馬は非常に密接な関係にあり、経済だけでなく宗教的にも関係が深い。 太陽の象徴が白馬であることからも分かる。馬がその人の財力を示していた。 |
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バチコヴォの新市街にて |
またギリシャとの関係も深く、バルカン半島で民族の移動によりトラキア王国は色々な民族に支配された。バルカン半島にローマ軍が侵攻し、その時にトラキア王国は征服された。ローマ人はトラキア人の部族を対立させ、容易に征服した。 またトラキア人の一面には兵力だけでなく、芸術性もにも優れ、金細工などに精巧なものが多い。 夕方ガイドのリナさんの案内で新市街を歩いた。 街は人通りも多く、何処の都会も同じである。 この時期のヨーロッパは日暮れが遅いので、夕方という感じはしない。 |
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今日の昼食はギリシャ料理のムサカだったがさすがにブルガリア、ヨーグルトが添えられ、これをムサカの上に載せかき混ぜて食するのがブルガリア風。 夕食はヨーグルトサラダ、これが団子のように並んでいる。中央にキュウリの薄切りが花のように置かれ中にはオリーブの実が。勿論団子の中にもキュウリは入っている。 |
ヨーグルトサラダ |
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◇5月15日(土)曇、途中雨、ブルガスに着くと晴 4日目
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ローマ劇場 |
昨日見ることが出来なかったローマ劇場から今日の観光が始まった。昨日とは違う道からローマ劇場に向かった。この劇場は舞台の後ろ側にロドビ山が見えるように設計されているという。 裏側から聖マリナ教会を見、中に入る。 16世紀の建立され、2度の火災で焼失したが1763年に再建された。屋根は外から見ると切妻になっているが中に入ると |
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ドームになっており、芸術性の高い装飾がなされている。教会の様式はバジリカ様式である。 3時間半の移動で黒海沿岸のブルガスに向かう。30分ほど走ると雨である。 この辺一帯はトラキア平野で果物、野菜を作っている農業地帯である。 進行方向左側にバルカン山脈が見えてくる。この山脈でバルカン半島という。バルカン山脈の南と北とでは気候が全く違う。 ネセベルは黒海に面した小さな漁港だが、紀元前2000年まで遡ることができる。トラキアの集落があったが、6世紀にギリシャの植民地となり、城塞に囲まれた町である。やがてギリシャ人が出て行き、その後にブルガリア人が入り、漁業のほかに葡萄栽培などがおこなわれた。教会はトルコが侵攻した時にも破壊は免れた。黒海沿岸の一番美しい町で文化的建造物も多い。 ブルガリアの東側の天然の国境線になり、トルコへの渡り道でもある。ボスボラス海峡、マルマラ海峡、エーゲ海へと続く。 |
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黒海沿岸の町、ネセベルの景色
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ネセベルの遺跡
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聖ソフィア教会は南ブルガリアでは1番大きな礼拝堂があり、また1番古い教会でもあった。バジリカスタイルで左右にお墓があり、宗教儀式だけでなく町の問題も取り上げ、会議場としての役目も果たした。今は音響効果がいいので、コンサート会場として使われている。 聖スパスティ教会は15世紀から16世紀のもので外観は民家の形をとり、十字架もない。14世紀のトルコの支配下で地下3メートルのところに掘られ、15世紀、16世紀の壁画が残っているそうだ。 工事中偶然発見されたローマ風呂、ハマムが隣り合わせにあった。 いくつかの教会跡を見た後、聖バンクトクラート教会へ行く。13世紀から14世紀の教会で入口が東の方向エルサレムに向かっている。教会のまわりの外壁は色んな色使いをした焼物、レンガで装飾され面白い教会である。 今はギャラリーとして、ブルガリア人の画家の絵が集められ売られている。 5時で閉館している考古学博物館を無理に開けてもらい、ギリシャ時代の彫刻などを見る。元は10世紀から11世紀の聖ヨハネ教会だったところ。 町自体が小さいため、歩いてまわることが出来、多くの遺跡があった。 |
結婚式で花嫁とパパ
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夕食に行くと結婚披露宴がおこなわれていて、非常に楽しそうである。ニナさんが「ブルガリアの結婚式は民族舞踊などを踊りながら一晩中踊るの。若し良かったら一緒に踊ってあげて。」の声で飛び入りさせてもらった。 帰るときパパさんから『ラキア』というお酒を貰った。「メルシー、メルシー(有難う)」 「チャオ、チャオ(さようなら)」といって楽しいひと時を過ごした。 |
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ネセブルの町は道が狭く1階は石造りで倉庫として使い、2階部分が住居部分になっている。またどの家も無花果の木を植えていて、小さく青いまに摘み取りジャムにする。実が硬いので写真のように煮崩れせず色も緑のまま出来上がる。 1軒のレストランの人の好意で試食が出来ました。 |
イチジクのジャム |
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◇5月16日(日)曇りから雨 5日目
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ブルガスの夜明け |
朝起きると綺麗な朝日の昇るのが見えた、これならお天気は大丈夫? 8時半にブルガスを出発し、300キロメートルほど離れたヴェリコ・タルノボへ向かう。バルカン山脈とスレトナゴラ山地の間をぬいながら走る。 途中バラ栽培で有名なカザンラックに立ち寄る。あいにくの雨模様である。 |
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1944年に防空壕を掘っている時に発見されたトラキア人の古墳である。 幅70メートル、高さ40メートルの丘の上に造られたものである。約2300年前のもので石造りの玄関に3つのホールから成り立ち、レンガ造り独特の形をしている。文化、芸術性の高いもので当時のトラキア人の戦闘場面、葬送の儀式のフレスコ画が有名である。又多くの副葬品もあったが、盗掘に遭っている。 王族、貴族の墓で主人が亡くなると王妃も一緒に殉職し、馬は尊敬に値するものなので馬も一緒に埋められた。妃達は王に1番愛された女性なので、殉職できることは光栄なことであった。 バラ博物館に行くと、女性がバラから精油される過程を説明してくれる。 1キログラムのバラオイルを摂るのにバラの花が1トン必要で、金と同じ価値があった。コンコンという丸い形をした容器に入れ輸出される。95パーセントがフランスに向け出され、高給香水となる。このバラはペルシャから来たものである。 バラの摘み取りは5月の末から6月初めの早朝に行う。そうしないと香りが飛ぶそうで、その頃にあわせてバラ祭りもおこなわれる。今年のブルガリアは異常気象で、雨が多く寒いのでバラは伸びていない。咲いているのはアマポーラだけである。 バラの谷は海抜350メートル、長さ94メートル、幅110メートルある。元々肥沃な土地でバラ栽培に適し、1本の木から40ぐらいの花が付くそうである。 博物館内の売店に行くと、バラに関してのものが一杯売られている。バラリキュールは非常に綺麗な色をしているが、28度という非常にキツイお酒である。 バラの谷を過ぎ、シブカ峠に向かうが、山の中に金色のドームが見えてくる。これがトルコと戦ったロシア兵の慰霊碑とともにできたキリスト誕生教会、ロシア正教会である。ブルガリア人とロシア人で造られた。 車窓からの景色はアマポーラの群落や、白い花、紫の花が咲き乱れている。 やがて目的地のヴェリコ・タルノボに着き、ツァラベツの丘に行くが入口での説明で終る。門を入ると跳ね橋があり、また門がありそこを通り抜けると王宮になる。王宮は高い所にあり、今は破壊され城壁だけが残っている。城壁の先端の高さは7メートル、3つの丘から成り立ち、城塞の下は切りだった岩壁でここから囚人たちは目隠しされ下の川に突き落とされた。ここから見る市街は絶景である。 ツァラベツは歴史と芸術、大学のある古い街である。 1363年にトルコ軍によって制圧され、500年間トルコの支配下に下るが、その後露土戦争によって解放され社会主義国となり、東欧の自由化とともに現代に至っている。 |
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ツァラベツの丘 |
丘から見た景色 |
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レーザーショウー |
夜9時30分からツァラベツの丘のレーザーショウを見に行く。 丘の遺跡から城塞にライトアップされ、ブルガリアが平和であった緑の光が、赤に変わりトルコに侵攻され女性達の阿鼻叫喚の悲鳴に変わる。そして青色になり露土戦争の時代へ。また緑になり3方の見張り台の搭からレーザー光線が交錯し、男性合唱の民族音楽が流れ、 |
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色もオレンジから薄い青に変化しながら平和を勝ち取った様子を音楽とレーザー光線であらわしたブルガリアの歴史を感じさせる素晴らしいショウであった。時間にすれば20分と短いが、充分に楽しめた。 改めてブルガリア帝国の栄華と強さと歴史を感じ取れた。
◇5月17日(月) 6日目
今日は国境を越えルーマニアに入る。 国境を越えるので時間が計れないということで早めに出発予定だったが、ちょっとした事故が起き、結局出発が1時間近く遅れた。 2時間近く走り10時50分に国境に着き、パスポートを渡し無事ブルガリアを出国。次にルーマニアに入国。ドナウ河の真中が国境ということ。 国境付近はブルガリアに比べると、貧しさがひしひしと伝わってくるような感じである。家の屋根もブリキやスレートの屋根が多くなり、人だかりの所は畑で採れた農作物を売っている姿が見られる。ブカレストの近づいてくると、人も車も多くなり社会主義時代の汚いアパートが見えてきた。 昼食場所で今まで一緒だったブルガリアのドライバー、ガイドと別れ、今度はルーマニア側の人に代わる。 昼食後、3時半頃になっていたがいよいよルーマニアの観光が始まる。 |
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先ずは共産主義時代にチャウシュスク大統領の館から始まる。 国民の館といわれ、贅を尽くした建物で、世界で2番目の大きさである。正式名はルーマニア議会本部。 総床面積35万平方キロメートル、1500の部屋、250人の掃除夫が必要だった。エレベーターが49もあるのにトイレは地下に1つだけ。 2800のシャンデリアは3000トンのクリスタルガラス。 |
ルーマニア議会本部=国民の館 |
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皮肉なことに完成を見ず銃殺された。そのため寝室はなく、豪華な宮殿だけが残り、今は国際会議やイベント会場として使われている。 エレナ宮殿には夫人は住まいしていた。 ブカレストで1番広い通りが統一大通りで、幅が106メートルある。道の両側の街路樹は菩提樹の木。 ブカレストから130キロメートル離れたシナイアに向かって走る。峠を越えるとシナイア、海抜950メートルで日本の軽井沢と同じ。ここにはシナイア僧院があり、エジプトのシナイ山から由来している。 車窓から見える家は一般的に小さな家が多く、長閑な田園風景に見えるが実際の生活はどうなんだろうと思った。 ◆チャウシュスクについて チャウシュスクは貧しい家に生まれ、14歳の時に靴職人の修行に入るが働くことが嫌いで、1921年に共産党ができ、1950年に彼は書記長になる。 1948年に工業は国営に、1949年には農業も共同体になる。暫らくは国民の支持もあったが1970年から独裁政治へと移行していく。キリスト正教会は秘密警察になる。 旧ソ連のスターリン時代に共産党を学び、大統領となってから軍隊と警察を掌中におさめた。この頃から国民の疲弊が始まり、生産性も落ち品質も悪くなる。 秘密警察には親のない子から選び、高給を与え教育した。今もまだ5000人の共産党員がいる。 チャウシュスク夫妻は逃亡を企てが捕まり、処刑された。このニュースは衝撃的に見た。3人の子供のうち1人は亡くなり、もう1人の息子はチャウシュスクの政治に反対していたので今はブカレストに住んでいる。娘はイギリス人と結婚しフランスに住んでいる。
◇5月18日(火) 晴 7日目
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聖ニコラエ教会 |
ルーマニア第2の古都プラショフに向かう。 プラショフへの進行方向左手に山頂には残雪が残るカルパチア山脈(2300メートル)が見え、緑の美しい平原を走る。 プラショフの町は300平方キロメートル、海抜600メートルで、標高900メートルのトゥンパ山がある。町の中心にはカトリック、プロテスタント、正教会などがある。 町の中心には13世紀に造られた時計搭の建物があり、市役所として使われていたが現在は博物館になっている。 聖ニコラエ教会の時計搭は13世紀のものでスケ |
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イ区という1番古い街並みにある。鐘楼はゴシック様式で木製だったが、16世紀には石造りになった。18世紀にフレスコ画が描かれ、入口にはルーマニアの風習が、教会の様式はビザンチン様式である。祭壇には新旧約聖書のイコンが描かれている。 黒の教会は14世紀から15世紀にかけて建立され、カトリックから16世紀にプロテスタントに代わりマルチン・ルターの肖像画がある。祭壇にはモーゼの十戒が描かれている。トルコから持ち込まれた絨毯が300から400枚も飾られている。またウイーンから寄贈の4000本のパイプオルガンが目を引く。 民族博物館はルーマニアの民族衣装、機織機、当時の洗濯機など生活に関するものから、宝飾品にいたるまで展示されている。
ブラショフから25キロメートル離れた所にあるのが、ドラキュラ伝説のブラン城である。そこへ行くまでの景色はプチェンジ山麓を走り山には残雪が残り、牧歌的な美しい景色である。馬、羊、牛などが放牧され緑の芽吹きがなんともいえない長閑さである。小川が流れ、野草が咲き、おとぎ話に出てくるような小さな家の庭にはチューリップ、ライラックが咲いている。そんな道を通り、峠を上ったところにあるのがブラン城である。 |
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山の上に立つ典型的な中世の城壁で、思っていたより小さなお城であった。 城内には今は跳ね橋もなくなり階段を使う。警備室、その横が食堂で中庭があり、そこには井戸がある。火薬庫はゲストハウスになり階段を登ると待合室になり、王様に面会する控えの間である。王妃の着替えの間は、中世では武器保管室だった所。 |
ドラキュラで有名なブラン城 |
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他にも秘密階段があり、音楽室に行くことができた。このお城から見える景色は、伝説とは裏腹に高台にあるため非常に美しい景色である。 マリア王妃はイギリスから輿入りし、王様が亡くなった後悲しみのため全ての家具を黒に塗り替えた。 ドラキュラ伝説になったヴラド・ツェペシュは残虐な性格で、攻め入るトルコ兵を串刺しにしたことからこのような伝説が生まれた。ワラキア公国の王として実在した王様である。 |
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ブラン城を出た所にある土産物屋 |
お城を出るとたくさんの土産物屋が並び、テーブルクロス、ブラン城の絵、写真のような人形などが売られている。 同じ道を引き返し、4時半にはホテルに着いた。私の部屋からはケーブルカーが見えるので、まだ間に合うか聞いてもらったが、5時までということで諦めた。
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◇5月19日(水)晴れ時々曇 8日目
シナイア観光だが政府高官が来ているとかで、時間調整のため私が昨日登りたいと思っていたケーブルカーに乗ることができた。ケーブルカーから見る景色は素晴らしい眺めである。遠くにこれから行くペレシュ城も見えている。 山頂まで行くにはケーブルカーを乗り換えないといけない。降りた所は海抜940メートルのところで雪山の山頂は2200メートルの高さがある。10時のケーブルカーで下山し、シナイアへ向かった。 シナイア僧院は敷地内に新旧の僧院から成り立ち、新しい方を見学した。17世紀に建造された僧院でシナイアの町の由来にもなっている。 中に入ると三位一体、聖母マリアに捧げられたフレスコ画がある。 シナイアの市内の中央公園、郵便局、市庁舎などを車窓見学し、ペレシュ城に向かう。中央公園は木立の多い公園である。 |
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ペレシュ城 |
ペレシュ城はカロル1世の夏の離宮として私財で建立し、1875年から取り掛かり1914年に完成した。入口からお城まで500メートルある。 城内の最初の圧巻は天井のステンドグラスで、開閉式になっている。 タペストリーは200年前のフランス製、寄木細工の木彫り、400種の武器コレクションはルーマニア製ばかりでなくヨーロッパ製もあり、暖炉には紋章が、その他にライオン、鷲、魚、牛の頭の細工が施され、ラテン語で『神様無しに全て無し』と刻まれている。 カルロ1世の個人的な図書館、秘密扉は寝室に通じている。机の上には手紙入れと宝石箱がある。 |
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贅を尽くした城であるから、絵画の間、鏡の間、舞踏の間などがある。絵画は四季を通じたものが収集されている。 30名限定のダイニングルーム、スペイン様式の部屋は元々休むための部屋、アラビアの影響が見られるトルコ様式の部屋には絹製の絨毯が飾られている。 最初からエレベーターが設置され、セントラルヒーティングの設備があった。 また国王の為の66席の劇場があり、1906年からは映画も見たそうである。 ドイツ・ルネッサンス様式の建物で、ルーマニア1の城というのも頷ける。 |
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今日の目的地ピアトラ・ネムツに向かう。途中ビカス渓谷に立ち寄り、赤い湖を見る。これは回りの土に鉄分が混じり、雨が降るとその水が流れ込み赤く見えるというが、緑ともベージュともいえない色である。 ビカス渓谷は道路横を流れるビカス川の流れに沿って出来た断崖絶壁である。 約400キロメートルの移動だった。 |
ビカス渓谷の赤い湖 |
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◇5月20日(木)晴 9日目
実質的には今日が最後の観光である。世界遺産に登録されている僧院巡りである。 朝8時に出発し、着いたのが10時半頃である。ルーマニア北部に位置するスチャバ地方はオスマン・トルコの全盛時代と重なり、支配されまいとするステファン大公が自治を守った所。 |
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スチャバ地方の僧院群とフレスコ画 |
先ずはヴィオロネッツ僧院、1448年にステファン大公の命で建立され、400年前に聖書から取られたフレスコ画が有名である。南壁には青の、西壁には最後の晩餐のフレスコ画が描かれている。三位一体と死者が天国か地獄かに分けられる図が描かれている。 次にフモール僧院へ、1530年に建立され、現在25人の修道女が生活している。外観からの見学。 |
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モルドヴィッツァ僧院は1945年から40人の修道女が生活し、ブコヴィナ地方では2番目の規模の僧院である。1532年に建立され1537年にフレスコ画が完成した。ここのフレスコ画の特徴は626年にペルシャ軍によってコンスタンチノーブルが攻め込まれている絵が描かれている。 スチェヴィツァ僧院は最大規模の僧院で、16世紀終わりの建立。分厚い城壁は厚さが3メートル、高さ6メートルである。城壁に囲まれた僧院の壁画には32段の天国への梯子があり、梯子を登って行っても皆が皆天国に行けるとは限らない。自分の犯した罪のところで地獄に落ちるようになっている。 アルヴァレ修道院と呼ばれているが普通の教会である。16世紀にモルドヴァ公国の一貴族の手で造られ規模は小さい。 聖ゲオスゲ・ノウは1521年に完成し、屋根はモザイク模様だった。 大城塞は14世紀までブコヴィナ公国の首都で、ステファン大公の家族や家来が住んでいた。空掘りがあり2つの跳ね橋があったが、今は廃墟となりオリジナル部分と後に追加増築した部分が白い線を境に見えている。 丁度戦没者を慰霊する催しが行われており、歌を唄ったり民族衣装を身にまとい民族舞踊を踊っていた。民族衣装は刺繍された綺麗なものであった。
今日は盛りだくさんに僧院を見たが、みな尼僧院なのにトイレが汚く少しがっかりだった。これも修行と思わないのは、国民性の違いだろうか。 昼食は民家レストランで、家庭料理だった。お粥のようなものが出、また土産物も売っているし、家は綺麗に整頓されていた。
◇5月21日(金) 晴 10日目
隣国のウクライナ国境の方が近いのではというスチャバからブカレストまで480キロメートルの道のり、時間にして約8時間の移動である。単調な景色の中夕方5時半頃にブカレストに着き、暫らく市内を回りホテルへ。 恒例の最後の晩餐を済ませ、明日早朝の出発のため用意をして今日は終わり。
◇5月22日(土) 11日目
3時半のモーニングコール、4時に荷物を出し、朝食のお弁当を貰って4時半に空港に向かう。 7時5分発の飛行機に乗りミュンヘンへ、2時間の飛行である。ミュンヘンは大雨である。来る時も雨だった。 ここで8時間の時間待ち。免税店で買い物をしたり、カフェでお茶を飲んだりして時間を潰し搭乗時間の来るのを待った。 やっと搭乗時間になり、飛行機に乗り込み、現地時間15時30分発で成田に向かう。機内食を済ませ、薬を飲み眠ることにした。幸い薬が効き、朝まで眠ることができた。
◇5月23日(日) 12日目
定刻の10時に成田に着き、通関を済ませ、荷物を宅配に渡し、またリムジンに乗り羽田へ。チェックインを先に済ませ、飛行機の時間までVIZAのラウンジで休憩をとる。飛行時間が来たので再度飛行機に乗り、伊丹に向かう。
今回急に思い立ち旅立ったブルガリア・ルーマニアの旅だった。去年もバルカン半島のアルバニアの旅だったが、同じ正教会、イコンだがアルバニアとはまた少し違うイコンだった。だが何処の僧院も三位一体とイエス、マリアのイコンで、当分イコンは見たくない。イスラムのモスクが恋しい。 バラの谷も期待に反し1輪のバラも見ることが出来なかったが、ツァラベツのレーザーショウは期待していなかった分とても良かった。 牧歌的な国だがまだ何処かしこに社会主義時代の影響が残っている。これは去年のアルバニアも一緒だが。 癒しの国といわれて行ったが、やはり私は辺境が好きだし、シルクロードが性に合っていることを確認した旅だった。 |