キプロス
 

2005.3.22.〜3.31

 

 ヴィーナス誕生の島 キプロス周遊、というツァーに参加した。

 

 キプロス共和国は四国の半分、9251平方キロメートルの島国である。

地中海の一番奥に位置し、国土の36から38%が森林で島の中央にはオリンポス山を中心とする山岳地帯が広がる。豊かな大地と海の幸に恵まれ、ギリシャ神話のヴィーナス誕生の地としても有名である。

 地理的にはギリシャ、トルコ、エジプト、シリアと古代文明に囲まれたことから、昔から中東、アフリカ、ヨーロッパの交通の要所としてさまざまな国の支配を受けてきた。

 ギリシャ、ローマ帝国、トルコ、そして1960年の独立までイギリスの植民地だった。

 1963年トルコ系住民の権利を制限する憲法の修正から、トルコ系住民が議会を放棄し、ギリシャ系住民と対立することになった。やがて内乱にまで発展し、国連平和維持軍が駐留し現代に至っている。

 1974年7月、ギリシャ軍事政権の介入によるクーデターが発生する。トルコ軍がトルコ系住民の保護を理由にキプロス北部に軍を派兵し、『キプロス連邦トルコ系住民共和国』として独立宣言をする。

これによりキプロス島はトルコ系の多く住む北部(37%)とギリシャ系住民の多く住む南部に分断される。

 1983年11月には北部のトルコ系住民が、『北キプロス・トルコ共和国』として独立宣言をした。

 1974年以来南北分断の図式が出来上がり、グリーンラインでキプロスは南部、北部に分かれている。

 グリーンラインは、1974年に国連平和維持軍が配置されできた境界線である。ギリシャ系住民は境界線、トルコ系住民は国境と言っている。

 現在南キプロスはEUに加盟しているが、北キプロスもEUに加盟する話から話し合いが進み、手始めに北部と南部の住民の行き来が自由になった。(時間制限はあるが)

 キプロス島の37%が北部、3%がイギリスの基地、残りが南部キプロスである。

 通貨はキプロスポンドで、1ポンド約240円である。

 

 3月22日(火)雨1日目

 

 エミレーツ航空でキプロスへ向かう。あいにくの雨であるがキプロスは年間降雨日が少ない国である。

 夕方雨が止んだ頃に家を出、関空に向かった。

関空は時間も遅いので何時もの喧騒は無い。

 個人チェックインを済ませ、搭乗を待ち、23時5分発の飛行機でドバイに向け飛び立った。ドバイまでは11時間30分、モニターからはオイル・マネーで潤うドバイの観光スポットが流れている。

 

 3月23日(水)晴2日目

 

 午前5時25分にドバイ着、時差5時間である。

 通関時、国連維持軍の兵士は特別で我々のように順番を並ばず通関して行った。そのとき通関をしていた人がいたのだが、その人を待たせ割り込んだのを驚いて見ていた。

 3時間の時間待ちで、8時30分発の飛行機でキプロスのラルナカへ向かう。飛行時間約4時間弱である。10時10分にラルナカ国際空港に無事到着、時差がまた2時間増える。

 ラルナカからバスに乗りニコシアに向かう。12時半頃首都ニコシアに着き、旧市街にあるレストランでメザというキプロスの食事を摂る。メザは幾種類ものお皿料理である。

水は飲んでも大丈夫安心ということでグリーンサラダを食べる。このとき2種類のペースト状になったマヨネーズのようなものが付く。これとテーブルワインが毎回の昼食時には付くことになる。

ニコシア リドラ通り

展望台から見た北キプロス。

 昼食後フリータイムになり、旧市街を歩き、展望台へ行く。ここから見たのがキレニア山系の山肌に描かれているトルコと北キプロス共和国の国旗の絵。

 リドラ通りがこの街の中心でショッピングセンターになっている。通りはやけに靴屋が目立った。

突き当たりがグリーンラインの検問所。国連維持軍の兵士が見張りに立っている。ここの覗き穴からは北キプロスの廃屋が見え、緩衝地帯が続く。

 

 3月24日(木)晴3日目

 

 ニコシアはキプロス共和国の首都、紀元前10世紀頃に首都となる。人口は20万人。ベネチア人が16世紀に築いた城壁に囲まれ、旧市街、新市街に分かれている。ベネチアの後オスマン・トルコの侵攻を受けた。

 ベネチア時代の城壁の横を通り、ハート型に飛び出た砦跡を見てハマグスタ門で写真ストップ。

 キプロスの初代大統領のマカリオスの像が立っている。像の後ろが司教の館、隣が聖ヨハネ教会である。聖ヨハネ教会は1662年に建てられ、聖パルナバスの墓から見つかったといわれるフレスコ画などが展示されている。

ギリシャ正教会であるからイエス、マリアのイコンが描かれている。

聖バルバナスは聖マルコと共にキプロスで布教活動を行った。

 次に考古学博物館へ行く。考古学博物館には紀元前3000年からのギリシャ、ローマ、ビザンチン時代のものが時代別に展示され、キプロスの文化、歴史が解る。

 キプロス文明はエーゲ海、中東の文明がミックスしたもの。ブロンズ時代にはケシが栽培されその実を輸出していた。

エジプトに支配されていた頃、スフィンクスとライオンの像が墓を守っていた。死者の埋葬は紀元前7000年前頃からで、死者も共に生活をするという考え方であった。

 北側のキレニアに向かう。バスは北側のバスに乗り換えないといけない。待ち合わせの場所のスーパーマーケットの駐車場にはすでにバスが待っていた。バスを乗り換え、パスポートを用意し検問所を越えて北側に入るのである。

 先ずギリシャ側の検問を受け(我々のパスポート番号を書いた紙を提出)、こちらから見えている距離の北側の検問を受ける。ここでもパスポートを見るでなく、いとも簡単に通過できる。ここから北側のガイドが乗り込み挨拶を受ける。

 峠を越えると限りなく美しいマリン・ブルーの海が見える。これがキレニアの港である。「キレイ!」を発しながら走るとミナレットが見え出し、ペラパイス村へと入る。ペラパイスは人口2000人くらいの風光明媚な村である。沿道の新しい瀟洒な家は大概が外国人所有だそうだ。

ここでも黄色い花が空き地を埋めている、花の名前はクラウン・デージー。

 キレニアに向かう道路前方に見えるのがキレニア山脈で、5本の指という山を見ながら走る。

 キレニアの丘の上に建つのがペラパイス修道院。13世紀に造られたフランク王国ルジオン家の修道院。ゴシック様式の庭園、回廊を持った教会である。

ベネチア人が入り、もといた住民を追い出したが、その後16世紀にオスマン・トルコの侵攻でギリシャ正教徒が追い出され、教会としての使用はできなくなった。

教会跡には修道士達の図書室、住居、食堂跡などがある。

教会は高台にあるのでキレニアの港が一望できる。 

高台にあるペラパイス修道院 高台から見るキレニアの海岸線

ペラパイス修道院とそこから見るキレニアの美しい景色。

 教会を出てすぐにあるのが『アイドロネスの木レストラン』、今日の昼食はここで魚のメザ。

レストラン近くで熱心に、碁のようなゲームにうち興じる男達。

また回りにはザクロの花が青空に映えてとても綺麗。(花物語、キプロスの花に紹介)

キレニア城の城塞から見た海

 次にキレニア城に行く。12世紀に港を守るために建てられた城で、何回か増改築され今の姿になり博物館として使用されている。

 城の隣に『沈没船ミュージアム』があり、キプロスのスポンジダイバーが偶然見つけた沈没船を展示してある。

 ペンシルヴァニア大学が引き上げ復元した。

4人乗りの貿易船でキプロスからは銅を

積み込み、サモスからはオイル、アーモンドなどを持ち帰った。

小型船であるから途中の港で停泊しながら積荷を持ち運んだ。

沈没船は船から人骨が出ていないので、海賊に襲われ捕虜となったとみなされている。

船は海底の砂に埋もれていたため原型のまま残った。大きさは幅9メートル、長さ14メートルの木造船で80年使われた2300年前のものである。

真中から作る造船法であった。 

 城壁の上には野生種のアヤメ、ニンニクの花、他にも名前の知らない花が咲いている。黄色い花が多く、クラウン・デージーも葉をかぐと菊なの匂いがする。

 道路沿いなどには今が盛りのミモザの花が咲き誇っている。

 景色の良い北キプロスを後にニコシアに戻り、ここからリマソールへと向かう。

途中キロキティアの遺跡を右手に見、西方向には夕日が山の稜線を染めながら落ちていくのを車窓から楽しむ。

ニコシアからリマソールまでは2車線の高速道路で1時間半ほどの距離である。

 

 3月25日(金)晴4日目

 

 リマソールはキプロス第2の商業都市、またリゾート地としても有名。シーズンには住民より多くの観光客が来るそうである。人口は16万人、9月にはワインフェスティバルが開催される。ワインの生産地でもある。

 昨日の気温は最低気温10度、最高気温22度という気温差の大きい日だったが、今日もまた暑くなりそうである。

 アマサスの遺跡が海岸沿いにあり、空き地には一面にクラウン・デージーが咲いている。

ワイン工場を抜けるとキプロス杉の防風林が見え出し、その内側は柑橘類の果樹園である。このような道を走る抜けるとコロシオ城に着く。

 コロシオ城は12世紀にテンプル騎士団の館として、十字軍の遠征基地として造られた3階建ての軍事用の城である。

高さ21メートル、幅は1辺が12メートル、壁の厚さ2メートルという頑丈な造りである。1454年に改築され現在見るような形になっている。2回部分が入口で今は階段がついているが当時は跳ね橋だった。中に入ると集会場、台所などが残り、屋上に上がる螺旋階段がある。

 次が古代都市クリウム古代遺跡である。

紀元前7世紀頃に、ギリシャのペロポンス半島から来たアカイア人の植民地として造られた。今見るものは365年の大震災の後再建されたものである。

 ユストリオスの館の内部にはモザイクが残り、公衆浴場跡も見られる。円形劇場は今もコンサート会場として使われている。浴場の水は7キロメートル先の山から引かれていた。

モザイクには屋根を架け保護している。高台になるのでここからの景色は絶景である。今の季節緑が美しく、花が咲き、高い青空と真青な水平線が続いている。

クリウム遺跡の高台から見た海岸線と山の方向

この草も真夏になると一面枯草色になるという。燦々と降り注ぐ春の陽光、というより真夏のような感じがする。

 クリウムの守護神アポロン神殿は紀元前7世紀に最初の神殿が建てられた。アポロン神殿の柱はナバティア様式、黄色い花が咲く野原に2本の柱が青空に向け立っている。

 ワイン生産の盛んなオモドス村で昼食を摂り、細い道を歩く。ここは蜘蛛の巣というレースが有名。このレースは鈎針で編むのではなく、カタン糸を縫い針で引っ掛けるようにしてもようを作っていく。レースは繊細だが張りがない。ここでも安いものは中国製。

村の中心の広場にでると何故か何処かで見たことがあるようなゆったりとした風景である。石畳がゆるい坂道になり、両側には土産物店、カフェが並ぶ。一軒のカフェでワインの試飲をする。味音痴の私は葡萄の焼酎だけ分かったという次第。これはアルコール度が50度ときつく舌が焼け付くようである。

葡萄の焼酎というのは、ワインを絞った後の葡萄を高温で暖め蒸留させたもので色は無色である。

 村の教会、聖十字架教会はイエスが十字架に架けられ時、身体を縛った麻紐が置かれているという。ここのイコンはロシア正教の影響を受けたいコンである。イコンには光琳が描かれ、顔の描き方も少し違う。オスマン・トルコのスルタンの息子を厚遇したので、この教会はオスマン・トルコから守られギリシャ正教が続いた。

 子供連れの家族がイコンに接吻しているのを見ると、宗教が生活に密着しているのが分かる。

 

 3月26日(土)晴5日目

 

 今日は終日トロードス山塊である。

 トロードス山塊はキプロスの中央部に位置し、標高1951メートルのオリンポス山を中心にした山岳地帯。

さまざまな国からの侵略から逃れるため、海岸線でなく山中に村を作った。山中には1986年世界遺産に登録された教会郡が点在している。

昔を忍ばせるような小さな村が残り、夏の避暑地にもなっている。

世界遺産の小さなバナティスホリス教会 山はトロードス山塊 高台からトリミクリィ村を見る

 ガラタ村のバナティスホリス教会への道は村人の姿もなく、長閑な田舎の風景である。地面に切妻の屋根が届きそうな小さな教会である。

この教会は石造り教会に後から屋根を付けたものである。1514年頃のビザンチン時代のギリシャ正教に忠実なフレスコ画入口に残っている。

屋根の教会 聖ニコラス教会とフレスコ画

 カコベトリア村の教会聖ニコラス教会も別名屋根の教会といわれ、11世紀初期から屋根がついていた。中には11世紀のイエスの生涯と奇跡をあらわした壁画が残り、17世紀に修復されている。

 キッコー修道院へ道の岩肌に咲いているのが、キプロスだけの花“聖母マリアの涙”である。

 キッコー修道院はキプロスでも有名な修道院で、標高1140メートルの高台に位置している。

1092年の創建から何度も火災に遭い、現在の建物は19から20世紀と新しい。聖母マリアのイコンは現存する聖ルカが描いた3枚の一つだが、当時の皇帝が公開を禁

じたため司祭も見ていない。

祭壇左側のマリアのイコンは、グリーンラインを越えて殺された青年の死を嘆き、涙を流したと有名になった。

 今日の昼食は盗人料理という羊肉を焼いた料理である。

この料理トルコから攻め込まれたとき、盗んだ肉を焼くと煙が出るので、石を熱くしその熱で焼いた料理である。付け合せのポテトがとても美味しい。キプロスのポテトは揚げてもゆでても美味しい、また量は豪快にたくさん付く。

 

 

 

 

 ペドラス村に建つアルハンゲロス・ミハイル教会(聖ミカエル教会)は1474年の建立で小さな教会である。これも世界遺産に登録されている。

この村は道幅が細く坂道の多い村である。夏の暑さを避けるためか、樹齢100年くらいの葡萄の木を植えている家が多い。

残雪のオリンポス山

 5時過ぎにトルコ軍が伐採した山に英国人が植林し、森林になったオリンポス山に行く。

今年は雪が多く、山の頂上には英国軍のレーダーがある。

この山キプロスのスキー場で、リフトが1本ある。

外気温は10度と肌寒い。

 

 

 3月27日(日)晴6日目

 

ペトラ・ドゥ・ロミオの展望所から、キプロスを紹介する写真がここからの景色。(左上)

アフロディーティの海岸からの風景。

透明できれいな海。

 今日からサマータイム、一時間早く時計が進んだ。

 リマソールを拠点に毎日観光をしているが、今日の観光地はパフォスである。

 パフォスは島の南部に位置し、豊かな自然に恵まれている。

かってはキプロスの首都として栄え、文化財も多く残り、街全体が世界遺産になっている。パフォスとは光に満ち溢れたという意味で夕景のきれいなところ。

 リマソールから車で40分ほど走ると目的地のペトラ・ドウ・ロミオ(ロミオの岩)の展望所に着く。

限りなく透明で青い海が広がっている。ヴィーナスが誕生したというのもっともと頷ける。

 美しい海岸を後に紀元前4世紀頃の王の墓に向かう。この葉かはいまだに誰の墓か分かっていない。入口から地下に降りると中は広く、柱が建ち、部屋がいくつかありまるで住居のようである。エジプトのプトレマイオスの墓ともいわれている。ここも春の花が咲き、始めて見た野生のユリはグラジオラスの小降りのように見える濃いピンクの花である。

 次に向かうのがパフォス城だが途中木に布を結びつけた木がある。日本のおみくじを結びつけるのと同じ発想のようで面白い。願掛けをして結び付けているという。ここが聖ソロモリの墓である。聖なる水が湧き出る井戸があり、体にぬると悪いところが治るそうだ。

 現在のパフォス城はオスマン・トルコによって再建されたもので、その近くにあるのが1962年に偶然農夫によって発見され、考古学博物館になっているディオニスの館である。入口付近には西域でよく見るタマリスクがここでは大木である。

テセウスの館から歩き、エオンの館、600年前のモザイクが展示されているモザイクの館などを見て廻る。モザイクの題材はギリシャ神話を題材にしたものである。

 住宅地の中にあるのがパウロが鞭打たれたという柱が残っているという小さな遺跡。

岩の礼拝堂ネオフィスト修道院

 山肌を利用して建てられた内部にはフレスコ画が残り、中庭には数匹の猫が気持ち良さげに寝そべっている。

 

 3月28日(月)晴、薄曇7日目

 

 アマサスの遺跡は紀元前1100年ごろの古代遺跡。今見るものはローマ時代のもので頂上にはアクロポリスがある。

 リマソール城は元々は海岸近くにあったのが今は少し中に入っている。ベネチア時代の砦跡で、1570年オスマン・トルコ、次にイギリスの支配を受け、その都度改築され今の型になっている。現在は中世博物館になり、屋上に上がり、見張り大まで上がって景色を見たがそれほど良くない。今日は雲が多く海の青さも紺碧でない。

この城の近くにリチャード獅子王が結婚式を挙げた教会があったというが、教会跡もない。

 自由時間の後2時にはホテルに帰る、今日はこれというポイントもなくメリハリのない日だった。

 

 3月29日(火)晴8日目

 

 今朝の出発は10時半と遅めである。キプロスの玄関口ラルナカへの移動である。

 ラルナカはギリシャ・ミケーネの貴重な文化遺産のあるところ。海岸線に面してリゾート地として活気のある街である。 

キロキティア遺跡

 キロキティア遺跡は世界遺産に登録された、紀元前7000年から3000年のあいだ人間が住んでいた住居跡である。その後ぷつんと生命が絶たれている。

遺跡の入場料は75セント、それを払い丘の上の住居の石積みを見る。

なんと円形に石を積んでいる、これが7000年前にもうできていたとは驚きである。マロニ川が流れ、その河原の石を使い、円形に基礎を築き、上部には藁と土でレンガを作って載せ、間を小石で埋めた。それが長い年月でセメント状になっている。当時の寿命は25歳から45歳ぐらいと推測されている。人種的にはキプロスにはない黒曜石が発見されているため、シリア、イスラエル方面からの渡来人と思われている。又家畜も飼い、農耕を主としていたようである。この遺跡は1937年に発見された。

住居を復元したものを見ると、壁も厚く四角い窓が開けられている。これは夏の暑さに適した構造である。死者も住居の舌に埋葬したのではないか、今とは死生観が違ったのではないかと考えられている。

 次に向かったのはレフカラというレースと銀細工の町である。

 レフカラとは白いという意味で、標高800メートルの山の斜面に家を建てた。昔は見晴らしがよく砦として家を建てたという。ここの人は皆商売上手で金持ちが多いそうである。 

ずらりとレースを売る店、銀細工の店が並んでいる。レースは看板娘ならず看板叔母さんが店先で作って客引きをしている。レースの図案は本になっているようでその本を見ていた。そもそもはベネチア人の貴族の夫人が作っていたレースの技術だそうだ。アイルランドのリネン、フランスの糸で作るカットワークレースである。

1482年レオナルド・ダビンチがここのレースを買い、ミラノ大聖堂に飾ったことが有名で、ダビンチスタイルという山形を繰り返した図案がある。

 

 

 

 ハラ・スルタンテッケは塩湖の側に建つイスラム教のモスクである。ウムハラム(1648年)という女性の墓で、モハメッド知人だったそうである。

モスクは1816年から建設が始まり、今も使用されている。しかしモスクの中に入るとギシギシと音がしきれいなモスクとは言い難い。

 今日の締めくくりは11世紀に再建された天使の教会というキプロス最古の教会アンゲロクティスト教会である。6世紀頃のビザンチン様式のモザイクが祭壇部分に残っている。

 4時ごろにホテルに戻り、夕食までぼうと過ごす。

 

 3月30日(水)晴9日目

 

 ラルナカ市内観光である。

 ラザラ教会に行く。キリストにより復活したラザロがキプロスに最初に来た司祭として布教し、亡くなったところ。

 ピエディリス博物館はデミトリス・ピエディリス個人が収集したものを展示した博物館。古代から近代に至るまでの展示物があり、中でもローマングラス、レースのテーブルクロスなど中々見応えのあるものがある。

 アギア・ナパに向かいハイウエイを走る。沿道はジャガイモ畑が続き、風車が見え隠れしている。オスマン・トルコ時代の水道橋をチラッと見た。この橋なんと五十年位前まで使っていたそうである。何年使ったのか、指折り数えるのは止めよう、ずいぶん長く使ったということだ。

 アギア・ナパはレストランが並び、急速に観光地として発展した町である。もとは漁村だった。

アギア・ナパ修道院は中庭には花がよく咲き綺麗である。

建物は4世紀頃に創建され、15世紀のベネチア時代に大きくなり今の形になる。

貴族の娘が平民と恋をし、結婚を反対されたのを悲しんでここに尼僧院を開きこもった所。

ファマグスタ文化センターから見る緩衝地帯と北キプロス

 グリーンライン近くのファマグスタ文化センターに行くことになった。パラリウムという小さな町ゐ通過するとペリャーニの町へ入る。ここにあるのがファマグスタ文化センターである。中に入ると時間のかかるエレベーターが1機あるがかったるく待てないので階段を登り、屋上に上がる。

そこから廃墟となったファマグスタの町が見える。以前は海岸線の美しいリゾート地だった。

緩衝地帯から先には北キプロスの国旗が風にはためき、背の高いホテルが廃墟になって残っているのが見える。

もともと北部は経済の中心地であり、観光地として成り立っていた。

センターの隣にあるギリシャ教会の鐘は、グリーンラインを越えて亡くなった青年の死を悼み今も鳴り響いている。

青年は撲殺され、国葬となった。トルコに抗議した従兄もまたトルコ国旗のポールに登ったところを射殺された。ドイツ青年の呼びかけに応じ、幾つもの入口から突入し、その一つがここファマグスタだった。

 ここから見る風景は静かである。ここが分断の悲劇が生じたところとは思えない。当時の人々はすぐに元の場所に戻れると思っていたそうである。

 

 予定より早く4時半にラルナカ空港に着き、搭乗手続きを済ませドバイに向かう。

ラルナカ19時10分発である。飛行時間3時間15分でドバイに着く。

ドバイの待合室にはインド系、アラブ系など人が靴下まで脱ぎ、椅子だけでなく通路にまで横になり寝ている。足元から強烈な臭いがする。搭乗まで3時間もある。

 

 3月31日(木)晴10日目

 

 ドバイ2時50分発で関空に向け帰国の途につく。夜中の待ち時間で非常に疲れた。9時間あまりの飛行である。ドバイから時差5時間をプラスして、17時20分に無事関空に着き、通関して今回の旅は終った。

 

キプロスの選挙制度、兵役、住宅事情

 キプロスの選挙制度は義務制だそうだ。18歳以上には選挙手帳を渡し、もし棄権すれば政府から注意を受ける。

 男子は2年間の兵役があり、大学受験が済めば兵役につく。兵役が済んでも1年に1回、訓練を忘れないために2日程度の再訓練を受ける。

 住宅はマンションの場合居間、応接間、ベッドルーム、キッチンで大体3万から5万ポンドくらい。土地付きの場合600平方メートルの土地に200平方メートルくらいの家を建てる。建築費は10万ポンドくらい。この数字聞き間違いでなければ日本に比べ安い。ちなみに1ポンド240円くらい。

 

 キプロスは花の時期を迎え、春から初夏の花が咲き乱れ一番よい時期に良くことができた。

風光明媚だけでないキプロス、分断国家だけでないキプロスを見ることが出来た。

 

 

 

 

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