カラコルムハイウェイ クンジュラブ峠・中パ国境を越えて

2000.6.12.〜6.26.

カラコルムハイウェイ縦走

 

 15日間の新疆ウイグルからパキスタンへのシルクロード、ガンダーラ遺跡への旅である。

国境のクンジュラブは5000メートル近く、またパキスタンはガンダーラ遺跡だけでなく、カラコルム、K2など山登りの基地としての国でもある。

 

☆6月12日(月)1日目

 

 伊丹から成田へ。集合時間12時。14時発のパキスタン航空で中国の北京に飛び立つ。北京までは時差1時間、飛行時間3時間30分。

パキスタン航空は機体が古いと聞いていたが、新しく快適なたびであった。飛び立つと画面には青空が映し出され、コーランが流れる。

スチュワーディスさんは目鼻立ちがはっきりとした美人揃い。

 北京空港は新しく、大理石を敷き詰めた綺麗な空港である。気温は34度。

 北京の市民の足、自転車に圧倒される。テレビで見ていても凄いと感じていたが実際に目で見ると、もう圧巻だ。

 建造物も紫禁城が580年前、アパートは30年から40年前のものはレンガ造りだが最近のものは鉄筋コンクリートの高層アパートになっている。

 

☆6月13日(火)2日目

 

天安門広場

 ウルムチへの飛行機の時間が午後2時なので、その時間を利用して、天安門広場、天壇公園に行く。

 天安門広場は横幅500メートル、面積40万平米、100万人収容できるというが、実際は半分の50万人だそうだ。

中国も観光ブームで、多くの人が来ていた。

 天壇公園は天安門広場の7倍の広さを持ち、気温はすでに37度だが木陰に入ると涼しい、しかし暑い。

 公園内の建物は1421年に造営され、紫禁城と同じころの建造物。

青は天、黄色は皇帝、緑は庶民を表している。

天心石があり、ここから皇帝が五穀豊穣を祈願したという。石を中心に9の倍数で石を敷き詰めてある。9が縁起のいい数で、階段も9段になっている。

 横に龍の彫り物ある階段を上がると、丸い三層の祈念殿がある。中には4本の柱があり、四季をあらわし、それを取り巻く12本の柱は時間、次の24の柱は節句をあらわしている。1本の杉の木で造られ、100年前に再建され、そのとき色は青に変わった。

 北京発14時40分の新疆航空でウルムチへ。機内からは雪を被った天山山脈が見える。飛行時間は4時間15分、成田、北京間よりも長い。それだけ中国の国土が広いということ。

 ウルムチに着いても日が高い、北京時間が中国の標準時間で、漢民族は北京時間を、ウイグル族は新疆時間で働いているそうだ。

 ウルムチは海から一番遠く、2500キロメートル離れている。ウイグル族の中心地で、前漢時代から1884年まで西域と言われていた。ウルムチとはウイグル語で『美しい牧場』という意味。海抜865メートル、天山山脈のオアシス都市。水源は天山山脈の雪解け水で、天山山脈の一番高いところは5445メートル。

 人口比率は漢民族75%、ウイグル族12%。気温は夏は38度ぐらい、冬はマイナス25度。ウイグル族はイスラム教徒である。

 ウルムチのシンボルは紅山、ウルムチ河を西に移し、その上に紅山高速道路を造った。7、8月が果物のが熟し、観光シーズンは4月から10月まで。

今回走るカラコルム・ハイウェイは5月1日から10月31日まで、後は雪で閉ざされ閉鎖される。

 

☆6月14日(水)3日目

 

 午後7時10分の飛行機でカシュガルへと向かうのでそれまでウルムチを観光する。

5445メートルのボゴダ峰

標高2000メートルの天池

 天池で遊覧船に乗り、ボゴダ峰を見る。風が冷たく寒いが、気持ちがいい。また非常に美しい景色である。

紅山公園から見たルムチの市街

 

 紅山公園には龍を鎮めるために建てたという九層の塔が建っている。

ウルムチのシンボル紅山公園から見たウルムチの市街は大都会。

ウルムチはシルクロードのオアシス都市というが到底思えない。

天山山脈を中心に3本のシルクロードの出発点。

 新疆ウイグル博物館にはあの有名な『楼蘭の美女』のミイラが展示されている。推定年齢40歳というが、前に本で読んだ時は14から15歳の新妻と書いてあった。頭には鷹の羽をつけている。私にとっては若い方がロマンがあるが、今は科学がすべてを解明してしまう。

 少数民族の衣装を展示してあるが、少しずつ文化の違いがわかって面白い。

 夕食後カシュガルに向かって出発する。上空から見える景色は素晴らしい。天山山脈は雪を被り、険しい山が連なり、真っ赤な山と変化に富んでいる。タクラマカン砂漠はウイグル語で『タッキリマンカン』といい、『入ると二度と出て来れない死の砂漠』という意味。今回は天山山脈とタクラマカン砂漠を1時間半の飛行機で越えた。

 カシュガルは新疆ウイグルの第2の都市。人口は300万人、そのうちの33万人が市内に住んでいる。ウイグル人が大半で、乾燥した大陸性気候。気温は夏は40度を越え、冬はマイナス17度ぐらいまで下がる。果物の故郷といわれる所だが今は端境期で、西瓜、ハミウリぐらいしかない。ハミウリは食べたいと思っていたのでちょうどいい。

 何となく埃ぽっく、ポプラ並木も道路の両側に並列に何本も植わり、埃とサンドベージュの土の道、イスラム寺院が加わりシルクロードの条件を満たしている。

何となく土の道とポプラが郷愁を誘う風情がある。

 今宵のホテルはカシュガル一のホテルの新館で泊まるが、水は鉄臭くシャワーのみ。その代わり蝿たたきが置いてあった。早速蝿を殺し、蚊を殺して虫除けスプレーを豪勢に撒く。

 

☆6月15日(木)4日目

 

 最初は香妃墓から始る。1640年に建てられ、天井を支える梁の模様は景色が描かれている。モスク多く見たがこのように絵が書いてあるのは始めて見た。緑色は当地が乾燥地なので、オアシスをイメージして好まれた。建材はポプラの木。

 香妃は小さいころよりいい香りがするということで、この名がついた。彼女が26歳の時乾隆帝に召され北京で亡くなるまで過ごす。遺言により3年の歳月を掛け、カシュガルに遺体が戻り埋葬された。

 敷地内には桑の木があり、白い2pぐらいの実がなっていて食べると素朴な味だ。桑の木は楽器を作るのに適しているそうだ。

西域一のモスク エディガール寺院

 西域最大のモスク、エディガール寺院は修復中で、中は見ることが出来なかった。

1442年建立のモスクで、緑を基調としたタイルで出来ている。

庭では職人がポプラの木を使って、修復の部品を作っている。

 

 

 テレビでよく中継されるカシュガルの職人街。露天に屋外散髪屋、ありとあらゆる日常雑貨が喧騒と埃の中で売られている。通りには面白い看板が。

歯医者の看板

露店でハミウリ売りの立派な髭をたくわえた爺さん

園児

 『少数民族の幼稚園を訪ねます』と旅のしおりに書いてあった。どのような幼稚園かと思っていたら、園児が芸をするのである。綺麗に化粧をし、大人顔負けの演技にカメラを向けるとすぐポーズをとる。普通の幼稚園だが、顔の可愛い子を選び演技を教えているそうだ。子供達も選ばれたという自信が出ている。

 昼食はウイグル人の民家で家庭料理。焼き菓子、ナン(ここのはタマネギのみじん切り入りで美味しい)果物(アンズ、ハミウリ、スイカ)手打ち焼きうどん、シシカバブ。手打ちうどんは焼きうどんにせず、冷やしうどんで食べたかった。アンズはまだ十分熟していないから下痢をするので食べないように注意される。

ウイグルの民家での一般的な食事

 昼食後ホテルでシエスタタイムを取り、夕方改めて西域一のバザールへ行く。

バザールだけに布地、果物、日用雑貨などありとあらゆるものが売られている。布地のケバケバしいこと。ここで薔薇のお茶を買う。ピンク色でほのかに薔薇の匂いがする。

 暑さ対策で屋根が付いているのだが。風のとおりが悪い。そこに20歳ぐらいの女の子が近づき巧みな日本語で「冷たい飲み物あります。ビールもあります。ソファーもあります。後で集合場所まで送ります。」とかき口説く。ついつい冷たい飲み物に惹かれその子の後を着いて行く。着いたところはその子の店である。ウルムチで1年日本語を習ったといっていた。物凄く商売熱心で、姉弟は彼女の指示で動いているだけ。私たちに「貴女方は飲み物だけですか、何故ですか。翡翠のペンダントもあるのに。」と、翡翠を買えと勧める。買う意思のないことを伝えると「翡翠は幸福を持って来ますよ。」とまだ勧める。そこで「貴女も私たちにその翡翠をプレゼントすると、この店に幸福を持って来ますよ。」というと「まぁ!」と言って大笑い。でもお陰で一息つくことが出来た。

 民芸品工場も見学コースで行くと、ウイグル帽子にミシン刺繍をしたり、編み機で編物をしたり、絨毯を織ったりしている職業訓練所のようなところ。この後の関所が怖い。民芸品の売込みである。お金が無いから買わないと言うと、カードでもいいとなかなか引き下がらない。

 去年出来たというカシュガル駅に行くと土地が広いので敷地も広く、緑の2両編成の列車が停車している。カシュガルからウルムチまで32時間で結ばれ、それまでは飛行機か長距離バスだったので、1日1本でも便利になったそうだ。

 カシュガルの生活について聞くと、10年前からメッカへの訪問も可能になったという。車は新車1台17万元(上海値段)、羊1頭6百から7百元、月収は1000元前後。金融機関はボーナスが祭りの度に出るそうだ。

 

☆6月16日(金)5日目

 

 バスに乗り込み、エンジンもかかり出発というとき、ホテルの従業員が血相変えて走ってくる。「111号室のスリッパが無い!」。私達の部屋である。部屋に付いている消耗品と思い、これから暫らくシャワーのみになるのでこれがあると便利だからと、スーツケースに入れたのだ。備品であるから2人分20元払って無罪放免。ゴムスリッパはバザールで山積みされていたのに。こうなれば家に持ち帰り、綺麗に洗ってベランダ履くとしよう。

 世界の屋根パミール高原に向かって走る。標高もどんどん高くなってくる。果てしなく続く荒涼とした石砂漠。水のあるところには村落が有り、小麦を収穫している。

 オーパル村というオアシスで市がたっている。近隣の人々が品物を持ち寄ってきて売り買いしている。

トイレタイムという事でトイレに行ったが、3度トライしても臭気と汚さで駄目だった。

それでもお金を2角払わされた。想像を絶するトイレだった。

 明日に備えての買い物も済みオーパル村を後にすると、今度はキルギス族の村落になる。騎馬の人も見るようになる。パミール高原周辺は複雑に民族が入り込み、アラーの神を信じて暮している。

 キルギス人の村落は牧畜を主にし、人口約120万人。厳しい冬が過ぎ、雪解け水で草が芽吹き羊が放牧されている。

 2時前にトロン湖に着くが曇空で、キラキラ輝く白い砂山は見ることが出来なかった。先ほど買ったスイカを切ってもらい、美味しく食べる。お腹も空いているし、水分の補給になった。

標高3600メートルのカラクリ湖

 山はベージュ色から赤い山に、またベージュ色に変化し、険しい山並みが続く。遠くに雪山が見え、落石した小石の道をジャンピングしながら走り抜けるとカラクリ湖である。

 カラクリ湖は標高3600メートルでコングル山7719メートル、ムスタグ・アダ山7546メートル(崑崙山脈の西端)に挟まれた湖。青い湖面に2つの高い山、静かな山である。

 駱駝に乗らないかと煩く付きまとい、また中国人観光だの喧しいこと。

 昼食も終わり、標高4000メートルのスバシ峠で写真ストップ。黄色い花が一面に咲き、その向こうは高い山である。涼しい、気温は20度。ここはタジキ族のオアシス。タシュクルガンまでの景色は高い山と、果てしない荒涼とした景色である。

石頭城

石頭城に咲くラクダ草

 予定より早く着いたので明日見る予定の石頭城を見に行く事になった。

タシュクル=石、ガン=城塞という意味のウイグル語。

タジキ族は文字を持たなかったので、大規模な城の資料は無いが、1987年に発見された人骨や陶器の破片から、ここには1000年前には少数民族が住んでいたことが分かっている。崩落が激しく、中に入っても見るべきものが無いが、柳の木が多いのが目立つ。

 タシュクルガンの町は小さな町で、ポプラ並木と側溝があり、土の道で何か懐かしい郷愁を感じた。遠い昔の日本の田舎に風景である。

 今夜泊まるホテルは目抜き通りにある『巴米爾(パミール)賓館』という立派なホテルである。部屋は狭く、ケバケバしい毛布がかかり、トイレットペーパーは1回分、お水とお湯は10時から11時まで。翌朝は8時から9時までの時間制限。最初は鉄錆で赤水が出る。

それに門番のようなお姉さんに一々鍵を開けてもらわないと部屋に入れない。大きな鍵束をもって座っている。

私は少々疲れが出ていたので先に部屋に戻っていたが、友人が戻り話を聞くと国境付近で落石があり、自分の荷物は自分で運ばないといけないということ。

 明日はいよいよ国境越え、クンジュラブ峠だ。

 

☆6月17日(土)6日目

 

 昔アレキサンダーもマルコ・ポーロも越え、シルクロードの隊商も越えたクンジュラブ峠である。

 1回目の出国検査を受ける。狭いカウンターには中国人、パキスタン人、観光客でごったがえしている。人の並び方が反対なので余計時間もかかり混雑している。それでもパスポートに『中国辺防検査』というスタンプを押してもらい、無事出国。暫らく走るとまた検査、ドライバーが名簿を渡し、一人ひとりパスポートを見せて終わり。どんどん標高が高くなって行く。

 標高4943メートル、中国とパキスタンの国境である。国境には中国、パキスタンと書いた石柱が立っている。

行ったり来たり子供のような事をしていた。

草原の向こうは荒々しい岩肌の山、残雪の山、万年雪の山である。

カラコルム山系である。まさか私がここに来ることが出来たなんて、感無量である。

 

クンジュラブ峠

 

 ここからパキスタンの入国事務所まで80キロメートル、2時間の行程である。

4000メートルまで下がった所でハミウリとスイカを食べる。

昨日の話では落石で通行止めの個所も復旧が済み、無事走る事が出来た。

 今度はパキスタン側のパスポートチェック、ほんの少し走るとまた検問。これはクンジュラブ国立公園の入園料を払う所。

パキスタン入国審査事務所スストから見える山

 4時にスストに無事到着。入管事務所はバラックのような建物。それでも中国人、パキスタン人。外国人と別れている。

切り立ったような山が残雪を残し聳えている。素晴らしい景色である。

ここで中国人スタッフと別れ、新たにパキスタンのスタッフと交代。

 通関事務所の横のレストランで遅い昼食、今までの田舎中華料理からカレー風味のパキスタン料理に変わる。

 山はカールン・コー山脈の一部、河はフンザ河。

フサニ村、パース氷河と進む。モーレン山から流れる氷河の水はまるで滝のよう。車はグルミット村を基点に山へ登る。

 カラコルム・ハイウェイはカシュガルからイスラマバード手前80キロメートルの道をいい、まさにカラコルム・ハイウェイを走っているのである。

 標高2400メートルのフンザは元々フンザ王国で、ミールが支配していた。今もミールの建物がフンザに残っている。

フンザは河と木々、アンズなどの栽培農家がほとんどの村で、谷一帯の人口は10万人住んでいる。水とアンズに恵まれ最後の桃源郷といわれている。

夏山登山の拠点で山登りの人は多く来るので、北パキスタンは貧しい地域だが、フンザは豊かに暮している。

フンザ

 ホテルに入ると周りはとても景色がよく、レディース・フィンガーなどの山が手にとるように見える。

 春にはアンズの花が咲き、全山ピンク色に染まるという。

 

☆6月18日(日)7日目

 

 サンライズツァーに申し込んだが、明るくなってからの出発で朝日が山から登る所は写真に写せなかった。だがパノラマで山々を見ることが出来た。

細い小型ジープ1台がやっとの急勾配の道を上るのである。

ゴールデンロック

レディースフィンガー

 ホテルでジープを乗り換え、ホーパル氷河を見に行く。ジープでないと無理な細い険しい道である。アレキサンダーの末裔がたくさんいるナガル村。子供達が写真を写してくれと出てくる。本当にヨーロッパ系の顔かたちの子がたくさんいる。

 ホーパル氷河は青い氷河と違い、石を巻き込んで流れてくるので、黒いゴツゴツした氷河である。だがこの氷河、エメラルドが取れるのだ、本当は取りに行きたいが非常に危険なのでやめた。

 帰り道先ほどの子供達が「アドレス、アドレス」と言いながら紙切れを持って走るジープを追いかけてくる。1枚とってやりたくさん写していた人に「送ってやって」といって渡す。私は字の書ける子に手帳にアドレスを書かせていたから送ってやるが。

 午後はアルチット城、バルチット村を見る。

アルチット城は廃墟になっており、上から見ると民家の屋根はフラットになり、アンズ等が干せるようになっている。

 バルチット村も民家の横が側溝になっていて、灰色の雪解け水が流れている。これが彼らの飲料水と聞いて驚く。

 本当は今日見るラカボシ・ビュウが曇空のため明日に延期。自由時間となりフンザの町を散歩する。ぶらぶらと歩いていると日本の学生に会う。みな一様に髭を伸ばしている。「何故か」と聞くと」パキスタンでは髭が無かったら襲われるから」という答えに笑ってしまう。

イスラマバードの大学で日本語を勉強している学生や、K2を24回ガイドして登り、日本の山岳会会員というパキスタン人と話をした。

 

☆6月19日(月)8日目

 

 桃源郷のフンザからギルギットを通り、チラスまで移動である。

15分ほど走ると、バスが止まり、ガーネット拾いをするという。全然拾えない。ドライバーが拾ったのを呉れる、今回女性3人で残り7人はみな男性。だから女性にだけに呉れた。

ラカポシ・ビューの展望台

 ラカポシ・ビューでティタイム。

ラカポシ・ビューは7788メートル、残念ながら頂上に雲がかかり山頂が見えない。

雪解け水が休憩所の横を流れている。非常に綺麗な景色である。お茶を飲みながら雲が流れるのを待ったが、雲に隠れたまま山頂は出てこなかった。

でもこんな目の前で高い山が見れたなんて幸せだと感じた。

 今私達が走っているのは、カラコルム・ハイウェイだが、河を挟んだ対岸は昔のシルクロードで、今にも崩落しそうな所、もうすでに崩落した所が見えている。

隊商たちはラクダと共に命をかけて通った道だ。もし落ちれば急流に呑まれてしまう命がけの旅だったのだろう。

 ラカポシ・ビューを後に、ギルギットに向かって走るが同じような断崖絶壁に、雪山が見え5000メートル以下の山には名前がないという。日本にも高い山があるかと聞くので、「あるよ」と答えると、「何千メートルか」と聞く。3776メートルというと何だという顔をして大笑い。彼らには山に入らないのだ。

 ギルギットは昔仏法僧が修行をしたところ。今はカラコルム山脈登山の基地になっている。

 小型ジープに乗り換え、ガルガの磨崖仏を見に行く。ジープを降りて歩くと、太陽光線がチクチクと痛い。それほど太陽光線がきつい。

 磨崖仏は高さ3メートルの立像で、耳が長いので中国、チベットの仏僧が作ったものといわれ、4世紀頃のもだそうだ。

望遠鏡を借りて見ると細かい所まで見ることが出来た。

 ここまでの道には清流が流れ、ハーブが生え、木陰に入ると先ほどのさすような痛みは無く涼しくて気持ちがいい。

ガルガの磨崖仏

 ヒマラヤ、カラコルム、ヒンドゥークシの3山脈と、ギルギット河、インダス河の合流点で2本の河が合流し1本のインダス河になる。

 今日は曇空でナンガルバット8025メートル、K28060メートルの山は見ることが出来なかった。明日もし晴れれば引き返して見ることになった。

 チラスに着くとムッとした暑さである。苦行僧が修行した険しい山の中の岩絵を見る。仏舎利、仏像が描かれているが、だいぶ線も薄くなっている。

 ホテルは暑い所だけに天井が高く、扇風機も回りクーラーも付いている。だがクーラーの音のやかましいこと。

 ホテルの売店に民族衣装が売っているので見に行くが、縫製が悪いのとアームホールが狭く、結局着れないことが分かり諦めた。

 

☆6月20日(9日目)

 

チラスのホテルの河原にいた少女

 あいにくの曇空で、ナンガルバット行きは中止になった。

 裏庭に回ると可愛い女の子が少年達と一緒にいた。

 今日はマリックも添乗員も民族衣装で決めている。男物はカミーズ、女物はパンジャビスーツという。

 今日はチラスからサイド・シャリフまで360キロメートル走る。

 河原にある4世紀頃のチャティアールの岩絵を見るが、とても素朴で風雨に曝され線も細くなっている。

 断崖絶壁のカラコルム・ハイウェイをぶ飛ばして走るので、時々ガイドがスピードを落とすように注意している。

対岸の山と結ぶ橋が二本架っていて、一本は中国が、もう一本は日本が架けたという。

 タンシールというドライブインのようなところで小休止。氷河の水がしぶきをあげながら激しい勢いで流れている。河から取れる魚を焼いて売ったり、氷河の水で冷やしたスイカを売っている。次から次とトラックや観光バスがやってくる。ここでパキスタン観光団から一緒に写真をとりたいと申し込まれた。喜んで応じる。

氷河とインダス河と合流した河

氷河とインダス河の合流点で、5万年前の地殻変動で、アジア大陸とインド大陸がぶつかって出来た所。

 午後からはカラコルム・ハイウェイから分かれてシャングラ峠を越える事になった。この道は夏は霧が出やすく、今の季節は雨が降りやすい。また雨になると寒くなる。

だがカラコルム・ハイウェイだとサイド・シャリフまで6時間かかるが、この峠だと3時間で済む。標高が2200メートルあり、冬は雪で閉ざされ通行できない。

 村の中心といっても数軒の店が日用品や食料品を売っているだけ。商店が途切れるともう全く山の中だ。寂れた村で貧しい地域のため教育はあまり受けていない。住民はパターン人で、人口83万人、アフガニスタンの国境近くに住む少数民族である。パターン人は山岳民族でイラン系に属し、攻撃的で獰猛果敢、頭もよく手先が器用なので手作りの精巧な武器を密売している。

 今日も5時頃から雨になり、濃霧で視界が悪い。対向車のドライバーが渋滞しているのでここで待つほうがいいと教えてくれる。15分ほど待っていると霧も晴れだし、何回か景色のいいところで写真ストップを取り、一気に600メートル下ると山の景色が一変する。険しかった山も標高が下がるにつれ、緑の山に変わるが、深い谷には氷河の融け水が清流となって流れている。インダスと合流すると灰色の河になる。

 アフガニスタンの難民も住んでいるスワット村を通りミンゴラの村に着く。ここがサイド・シャリフである。村の中心は人と車でごったがえしている。河の名前も地名と一緒にミンゴラ川に変わる。走ってきた渓谷はスワット渓谷で景勝の地。

 朝早く出て11時間半、我々のドライバーは神風ドライバーなので定刻に着いた。

スワットはアレキサンダーが攻め込んだ最南端に当たる所。

長距離の移動だったが、景色が良く変化にも富んでいたので楽しい1日だった。

 

☆6月21日(水)10日目

 

 晴れて暑く朝からもう気温は34度もある。

 スワット最大の仏教遺跡ブトカラを見に行く。BUT=仏、KARA=基盤という意味。これがガンダーラである。紀元前4世紀から建造され、6世紀頃まで続いたが3世紀頃が一番盛んで、4回建て増しされた事が分かっている。

卒塔婆の語源になったストゥーバの土台部分が残っている。

ブトカラのストゥーバの基盤

中心の円形ストゥーバの周りに200のストゥーバが奉献されていたという。

紀元前4世紀のものは密に石を組み合わせ、紀元後はセメント状のもので組み立てられている。ストゥーパもアレキサンダーが入ったものは西洋の影響を受けている。中心部にはライオン、象などがストゥーバを守るように置かれている。

五層の下の部分が残っている仏像は紀元前4世紀、西洋と交じり合ったものがガンダーラである。コリント様式の柱が残っている。基盤の丸いものは紀元前、四角いものは紀元後のもので、ドレープも西洋の影響。

 頭、顔などは後に入ってきたイスラムの侵略者によって壊され、下に敷き詰められていたラピスラズリーは侵略者に宝石として剥がされた。

 ストゥーバの回りには学校があり、そこで学んだ僧が教えを広げていった。

 ガンダーラの特色は西洋文化と溶け合ったもので、ガンダーラの意味は密集という意味。スワット渓谷の東から伝わりここで花開いた。

 スワット博物館は大きな仏足石、彫刻、仏像、仏頭などが展示されている。

 昨日下りて来たのと違う道を通りスワット川の上流に行く。避暑地にもなっているのでホテル、土産物屋が並んでいる。

 

☆6月22日(木)11日目

 

 カルガレーの磨崖仏は全長3メートルの結跏跊座の磨崖仏で顔が潰されているのが痛々しい。 

タクティ・バイの遺跡

 ガンダーラ平野にある山岳寺院跡のタクティ・バイ(貯水槽の意味)に行くが、暑さの中階段を上がるのに一苦労する。中央には大ストゥーバの基盤だけが残っている。七輪の基軸があったという。僧院、塔院、講堂が同じ敷地にあり、1世紀から3世紀頃が最盛期で7世紀まで続いた。当時は700人ぐらいの僧が修行していたらしい。真中の窪みに水を貯め、身体を清めたり、涼を取ったりした所。山中険しい所だから悟りを開く事が出来た。

 アシュカ王の碑文があるシャーバス・ガリに立ち寄る。碑文には『水は皆で分け与えよ、親族は敬え』と書いてある。文字はアラム文字でアラビア文字の原型となったもの。

それにしても暑い!!!気温は45度に達している。頭がボーとしてクラクラする。

 ペシャワールに着いた。アフガニスタンとの国境の街である。ガンダーラ国の首都として、キャラバン隊の集積地として栄えた所である。アフガニスタンの難民も多く住み、植物が多く植えられていることから別名を『花の街』という。

 せっかくパキスタンに来たのだからあのギンギらのトラックを写真に撮りたい。そこで午前中トラックターミナルに寄ってもらった。目移りするぐらいギンギらのトラックが並んでいる。このトラックのペイティングは半年に1回塗り替えるため、維持費は6千ドルぐらいかかり車の値段に相当するとか。

 暑さは体験した事の無い暑さで、バスから降りると足元からもムワーとした暑さが身体を取り巻いてくる。長袖に長ズボン、帽子にサングラス、それでも太陽が容赦なく肌を射す。

トラックターミナルでパキスタン

名物のギンギラのトラック

 

☆6月23日(金)12日目

カイバル峠から見たアフガニスタンに通じる道

 アフガニスタンとの国境カイバル峠に行くには通行許可書が要る。パスポートを渡し取ってもらい国境警備隊についてもらう。

 カイバル峠はアレキサンダー、マルコ・ポーロも通った峠。カイバル峠とは『静かな番人』という意味。

荒々しい岩肌が連なり、アフガニスタンへと通じている。

 

 1978年にロシアがアフガニスタン侵攻以来、難民となって流れ込んできたパターン人の部落を通る。ここのバザールは税金がかからない上、密輸品でも銃でも麻薬でもなんでも手に入る。 

オールドバザールへの

道で見た家

洒落た建物

 

 休憩を挟んで気温40度の中オールドバザールへ行く。あいにく金曜日でバザールの中は休みの店が多かった。

建物は築100年から150年経っている。

オールドバザールの路地の中を入っていくと3階にマハハッド・ハーン・モスクがある。

 

☆6月24日(土)13日目

 

 ペシャワール博物館は1907年開館の博物館で、ガンダーラ美術収集は随一を誇る。1階には多くの仏像が展示されている。博物館の見ものの一つ、仏陀は鼻が欠けていて痛々しいが、悟りを開いた後の顔で滋味のある顔をしている。

中国の影響が入ると耳が大きく長くなり、髭を生やした仏像は4世紀頃のもので、中国文化が入る前のもの。首だけの像もギリシャの影響で、人間臭い顔になってくる。仏陀の悩める像も、どうすれば庶民に話がわかるように伝わるか、を悩んでいる様子がよく出ている。本物の苦行僧はラホールの博物館にあるが、ここにはコピーがある。4世紀頃のもだそうだ。

 博物館は大きな扇風機だけで涼をとるので非常に蒸し暑い。天井が高いのと、人が少ないのが救いである。

 最終目的地イスラマバードに向かって走る。

 アトックはカブール川とインダス河の合流点で、最終地点はアラビア海真で流れて行く。

 アトック城は16世紀にアフガニスタンの王リスが攻め入り造った城。アレキサンダーもここまで攻め込んでいる。

 夕方イスラマバード手前ラワールヒンディに着き、今夜はここのホテルでパキスタン最後の宿泊になる。

イスラマバードの隣町で、人口もイスラマバード六十万人に対しここは120万人が住み、一般的な市民層から高級住宅街まですべてを凝縮した街。

アトック城

 

☆6月25日(日)14日目

ジュリアンの遺跡の仏像

 タキシラ地方のジュリアンの僧院は高台にあり、紀元前4世紀アレキサンダーが攻め込んだときにはもう街が出来ており、医学、法律など7学部から構成された大学のような形態の学術都市として発展していた。

 遺跡はフン族によって壊されたストゥーバの基盤が残っている。僅かな雨でも石灰岩が壊れるので屋根つきで囲ってある。イスラム、フン族によって壊されたが、インドの考古学者の手で修復された。アルカイックスマイルの仏像が多い。

 遺跡の向かいは現在禿山だが当時は木が茂り、この木を薪として使っていた。

 シルカップのマチ遺跡は『切られた首』という意味。

整然とした都市遺跡で、紀元前4世紀から紀元2世紀までの600年間冬の都として使われていた。

入口からメインストリートまで敵が攻め込んできたとき、力を落とさせるため緩いカーブになっている。全長600メートル、両側には商店が並び、入口を背に右側は高くなっている。ストゥーバに関するものを商っていたので、生活物資より1段高くしてある。

 双頭の鷲のストゥーバはアレキサンダーより前のギリシャスタイル。通りの真中には裁判所と死刑台があり、判決が下ると処刑された。

 地震と疫病が流行り街も衰退し、都もペシャワールに移っため寂れていった。

 世界遺産にも登録され、イギリスが管理修復している。

 イスラマバードは丘陵地帯で緑の多い美しい街である。

街中には大統領官邸、最高裁判所、国会議事堂、各国大使館、ナショナルバンクが並び、日本から見れば羨ましい環境である。

ヒマラヤ山系の国立公園マルガラ峠を上がると展望台になっていて、イスラマバード市内が一望できる。少し霞んでいるのが残念だが緑の多い綺麗な都市である。

 

 展望台からも見えていたシャーフィサル・モスクは15年前オーディションでトルコのデザイナーにより設計されたモスクで、サウジアラビアの国王の寄付で出来たものである。ミナレットがトルコ型と思っていた。

ミナレットの高さ88メートル、建物の高さが40メートル、広場は大理石が敷き詰められた豪華なモスクである。

 

シャーフィサル・モスク

1階はイスラム研究所に、2階が礼拝堂になっている。外の広場も入れると10万人が収容できる。

 夕食後マリックの好意でもう一度展望台に上がってくれ、暮れなずむイスラマバードの景色を目に焼き付けた。

 空港でのボディチェックはすんなり済んだ。しかし手荷物検査で引っかかり、バッグの中は無茶苦茶。

係官「ジャスト モーメント」       私「エッ!」

係官「オープン ザ バァグ」      私「・・・・・」

その前に係官の手がもうすでにバッグを開けている。逆らっても無駄なので好きなようにさせた。一つひとつ説明し、化粧品ポーチの中まで丹念に見たのには恐れ入りました。誰かが犠牲になるところを私が標的にされたという事、そんなに怪しい顔もしていないのに。

 搭乗ゲートの開く間に紅茶の注文を取りに来る、出前を頼み飲む。

 北京経由で帰国の途についた。今回の旅は非常に私にとって有意義な旅だった。

 

☆6月26日(月)15日目

 

 無事12時40分に成田空港に到着。通関を済ませ、伊丹までの飛行機の時間待ち、これが長くて成田出発は関西人にとっては不便だ。

 でもこれで楽しかっ旅も終わり、明日からは現実の生活が待っている。 

 

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