イスラエル

      

旅  行  行  程  図

2005.9.5〜9.15.

 

 5年ぶりに再開されたイスラエル旅行に参加した。

 

 イスラエルには4000年の歴史がある。

 1948年5月にイスラエル国家が建設されたが、それまでは祖国なき国民として1900年間流浪と移住を繰り返した。

 国土はガザ地区、ゴラン高原を入れても四国よりやや大きい27,800平方キロメートル。国民の78パーセントがユダヤ人、他にアラブ人が住んでいる。

ユダヤ教徒が78パーセント、イスラム教徒15,2パーセント、キリスト教徒2,15パーセントである。

 「旧約聖書」創世記のアダムとイブに始まり、「ノアの箱舟」から10代目のアブラハムがユダヤ人、アラブ人の父祖と考えられている。

 アブラハムが神の声を聞き、行き先もわからぬまま旅を続けた。再び神の声でカナン(パレスチナ)の地を与えられた。孫のヤコブの時代にこの地は飢饉に見舞われ、一族は息子ヨセフを頼り、エジプトへと行く。

 「出エジプト記」、モーゼの「十戒」を経て40年の歳月を要しカナンの地を目指した。

ヤコブは後にイスラエルと改名し、その12人の子供がイスラエル12支族となる。

その後カナンはイスラエル12支族による分割統治を経て、イスラエル最初の王サウル、ダビデ、ソロモンへと進む。

 エルサレムはダビデ王の時代に首都と定めた。ダビデは40年間エルサレムを治め、後継者がソロモンである。ソロモン王といえばシバの女王である。ソロモン王を訪ねたシバの女王が身ごもり、その子がエチオピア初代皇帝になる。

 ソロモン王の死後、北のイスラエルと南のユダに別れ衰退していく。

 イスラエルは紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年にユダもバビロニアに滅ぼされる。そのとき捕らえられバビロンに送られる。これがバビロンの虜囚である。奴隷生活を覚悟していたが、かなり自由に農業、商業を営むことが出来たそうである。

 その後紀元前538年にはバビロニアがペルシャに滅ぼされ、そのペルシャもアレキサンダーによって倒される。

 ユダヤ教禁止令に反発したユダヤは紀元前161年に自治を勝ち取ったが、紀元前60年以降はローマの支配下に入る。紀元66年に反乱を起こしたが70年に鎮圧される。これが「ユダヤ戦記」に書かれたマサダの戦いである。

 アラブ、セルジューク朝、十字軍、オスマン朝がそれぞれ支配し、世界中に散ったユダヤ民族が迫害の対象となった。

第二次世界大戦のときヒットラーはヨーロッパを支配下に置き、ユダヤ人の虐殺が始まった。

 パレスチナに流れ込んだユダヤ人との衝突が始まり、イギリスは解決策を国連にゆだねた。1947年アラブとユダヤの2つの国とし、エルサレムは国際管理と決まり、イギリスの統治は終わった。ベン・グリオン総裁がイスラエルの建国を宣言した。初代大統領はワインツマンがなる。その後中東戦争が起き、1979年にはエジプトと平和条約が締結され、パレスチナ自治区との交渉が始まっているがいまだに解決はしていない。

 

 ユダヤ人には2つの種類があり、1つはアシュケナージのユダヤ人、もう1つはスファラディのユダヤ人である。

アシュケナージ・ユダヤ人はロシア、ポーランド、ドイツなど東ヨーロッパにコミュニティを作った人々であり、ロシアのポグロムやドイツのホロコーストなどで迫害されて西ヨーロッパ、さらにアメリカなどに移住した人々。

 このアシュケナージ・ユダヤ人はもともとカザール人だった人々である。(カザール人を入れるとイスラエルは13氏族になる)

 スファラディ・ユダヤ人の一部は混血しているが、彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫である。1492年までスペインにいたが、その後カトリックにより国外追放になり、北アフリカ、フランス南部、オランダ、ブルガリア地方に移り住んだ。

 本当の血筋を継ぐユダヤ人の多くは北アフリカのアラブ民族の中に根を張った。

 イスラエル建国の原動力になったのがアシュケナージ・ユダヤ人達だった。

イスラエル建国まではアシュケナージとスファラディはまったく別の世界に住み、シナゴーグ(ユダヤ教会)もラビ(ユダヤ教師)も別である。〔「ユダヤ人とは誰か」第13支族・カザール王国の謎より〕

 

 現代のイスラエルはスプリンクラーで砂漠を緑化し、花、果物の輸出国。スプリンクラーはイスラエルの発明品。

 

 

9月8日(木)晴 1日目

 

 朝8時30分に関空に集合し、10時10分発のキャセイ・パシフィクで香港へ。

香港で9時間の時間待ちである。香港市内に出、少し観光を済ませはやめの夕食を摂り4時間前に空港に行く。

 空港に着きイスラエル航空のカウンターに入ると、チェックインする人はまばらだが銃を構えたポリスが数人立っている。警備が厳しい。

 一列に並び手荷物検査を受けるのである。これは今までの手荷物検査と違い一人ひとり質問に答え検査を受けるのである。

いよいよ私の番が回り、通訳は香港のガイドさんがしてくれた。

 

「手荷物検査に協力してください。」と慇懃だがパスポートのスタンプ一つひとつの国を詳しく見ていく。

係官「あなたはレバノンに行っているがその目的は、なぜ一日だったのですか。」

私 「シリア旅行中パールベック遺跡を見るため位置だけレバノンに行きました。」

係官「あなたはイランに行っていますがその目的は何でしたか。」

「今もイラン人と付き合いはありますか。あなたはイエメンにも行っていますね。何か目的がありましたか。」などなどを20分ほど聞かれ、手荷物を開けるように指示される。荷物を開けると今度は「この荷物は誰が詰めましたか。荷物を誰かに預けましたか。今日ここまでどのようにして来ましたか。」等など。

係官「どうもご協力ありがとうございました。」

とこんな調子で約30分である。これでやっとチェックイン手続きに。チェックインが済むと次が別室でスーツケースの検査がある。

検査室には係官に誘導され、エレヴェーターに乗って行く。着いたところにはスーツケースが並べられている。順番が来ると係官のところに行くのだがここでもまた「この荷物は誰が詰めましたか。」等などを聞かれ、これをクリアーして初めて航空機に荷物が積み込まれる。

 香港から週1便のエルアル・イスラエル航空で定刻にてる浴び空港に向け出発。

 

 

9月9日(金)晴 2日目

 

 早朝4時50分にイスラエルのテルアビブ・ベングリオン空港に着いた。

 入国審査に時間がかかる。また一つひとつ入念にスタンプを確認している。

 地中海沿岸を北上し、シャロンの野の南限を走りぬけ、カイザリアへ向かう。

 カイザリアはヘロデ大王がここに街を築き、使徒パウロがローマへ布教に旅立ったところ。

模型地図で当時の街の様子などを見る。地中海のそばに建つ円形劇場、導水橋を見る。13世紀に出来た要塞跡は軍事的にも地中海の玄関口として重要なところだった。真っ青な地中海に面して残る遺跡、塩の香を一杯に吸い込み、容赦なく降り注ぐ太陽は突き刺さるように肌にささる。

導水橋

カイザリアの遺跡

 カナの婚礼教会はイエスが始めて奇跡を起こしたという教会。地下には石の甕が展示されている。婚礼のときワインが無くってしまい、そのとき甕に入れた水をワインに変えたという。

教会を出ると土産物店ではカナのワインを売っている。甘口のポートワインのようである。

 ナザレの受胎告知教会は、天使ガブリエルがマリアに受胎告知した教会。

マリアが住んでいたという岩窟の上に建てられている。岩窟が祭壇になり、巡礼団が詣でている。祭壇から階段を上がると教会の両壁には世界から寄付された聖母子像の絵が掛けられている。

1969年に完成した教会だが、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナが最初の教会を建て、ビザンチン時代、十字軍時代にも教会があった聖地である。

ナザレにはイエスが30歳ごろまで住んでいた。

 昼食後ガリラヤ湖畔のティベリアに向かう。

 ガリラヤ湖湖畔のキブツが経営しているホテルに泊まるので、キブツを見学する。

 キブツはヘブライ語で集団、集合という意味。

集団生活をしながら国家建設の夢を持ち、農業、果樹園芸、漁業などをしながら「すべてのメンバーの団体責任および平等」による生産労働をしている。

 ヨーロッパ諸国、イラク、北アフリカからの移民がキブツに加わり生活をしている。キブツ内には学校、老人のための家があり、映画などのカルチャー施設も備わっている。

 イガルセンターは初代キブツメンバーのイガル・アロンを偲んで建てたられた。

イガル・アロンは外務大臣、副総理としてまたキブツメンバーとして働いた。

 センターの中には2人のキブツメンバーが1986年にガリラヤ湖湖底から発見した2000年前の木造船が復元、展示されている。

 

 キブツに入るには1年間のテスト生活をし、適性を審査される。

                     キブツのホテル内で 鳳凰木とジャスミンの花

 

9月10日(土)晴 3日目

 

 ヨルダン、シリア、イスラエルの国境にある2800メートル級の山の雪解け水がヨルダン川に流れ、ガリラヤ湖に注がれる。ガリラヤ湖の水も灌漑用に使われ、夏場はずいぶんと水位が下がる。

 ガリラヤ湖から『イエスの舟』という、イエスも乗ったとう復元舟に乗りティべりからカペナウムに向かう。

船頭さんがイエスのときもそうしたように網をうってくれたが魚はかからなかった。

聖書では嵐を沈めたガリラヤ湖も今日は静かな湖面である。

岸辺には教会、神父の家、ペテロ首位権教会、シナゴーグ、ピンクの屋根のギリシャ教会などが見えている。

 この一帯をカペナウムという。

カペナウムはガリラヤ湖の北部に位置し、イエスの時代にはエルサレム、アッコー、ダマスカスからバビロンに通じる交通の要衝だった。

 1991年に新しく建てられた土台に下に、砂に埋もれていた3重で8角形をした土台がある。5世紀のビザンチン様式のものだ。これが見えるように造られている。

シナゴーグ跡は4世紀に建てられたもので、聖地エルサレムの方角に開いていた。砂に埋もれていたものを掘り出した。男性は1階、女性は2階で祈り、コリント様式のギリシャの影響を受けたユダヤ人教会跡。

道の両側にはユダヤ教に関する石柱、模様を施した梁などが置かれている。その模様は葡萄などの果物が彫られている。オリーブを絞った石臼もある。

 次にパンと魚の奇跡の協会に行く。2匹の魚と5つのパンを5000人の群集に分け与えたという。聖堂前には4から5世紀ごろの2匹と5つのパンのモザイクと黒い岩がある。モザイクをモチーフにした絵皿もよく売られている。

 丘の上に建つのが垂訓教会。

ガリラヤ湖が一望できる八角形のカトリック教会である。1938年に建立。

パンと魚の奇跡の教会のモザイク

垂訓教会

垂訓教会からガリラヤ湖を見て

 この教会でイエスが「心の貧しい人は幸いである。・・・・・・」など8つの祝福の言葉を述べた教会。 

ペテロ首位権教会の中のメンザ・クリスティ

垂訓教会からガリラヤ湖畔に建つペテロ首位権教会へ。舗装された道で両側にはオリーブの木が植わり、側溝にはきれいな水が流れている。この水は泉から流れる水で、石に囲まれたところから水が湧き出ている。しかしわずかに塩分が含まれているためガリラヤ湖には入らないように側溝に水を流しているということである。この水はヨルダ

ン川に流れている。教会の中に入ると岩の祭壇があり、復活後弟子たちに食事を与えたという。

 昼食は聖ペテロの魚といわれるセント・ピーターズ・フィシュを食する。

運の良い人は伝説通り魚の口からコインが出てきた。

魚は白身のあっさりとした味でレモンをかけて食べると美味しかった。

昼食のセント・ピーターズ・フィシュ

 税の徴収官が来た際、イエスがペテロに「誰から税をとるのか。子供からか、他のものからか。」と聞き、「他のもの」と答えると「それなら払わなくてよい」と言った。イエスは神の子だからであるが、それでもペテロに魚を捕らせ、その魚がくわえていた銀貨を税金として払ったという。

ペティシャンのローマ遺跡

 昼食後死海に向けて荒涼とした砂漠を走る。

 途中ペティシャンに立ち寄りローマ遺跡を見る。

749年の地震で倒れたままの柱などが残り、規模の大きな遺跡である。大きな石が九の字に曲がり、石畳に飲み込まれるように倒れている。シリアのパルミラ遺跡を思い出す。列中通りと同じである。

 これは死海に向かう途中にある見ごたえのある遺跡、「今日のおまけとして連れて行く。」と、ガイド氏の提案で実現したもの。キリストの足跡に興味が無ければ今日一番の見ごたえがあるものだ。

  

 ヨルダン川西岸はイギリスが統治していたところ。

荒涼とした山の麓にわずかな緑が見える。平原にビニールハウスも見え、刈り取りの済んだ農地も広がる。イスラエルは砂漠を灌漑し農地にした国である。

 ナツメヤシが整然と並び、収穫できる実にはネットをかぶせてある。灌漑されているところはバナナ園、マンゴー園など農地が広がる。このような道の沿道には真っ赤な鳳凰木の花が咲き、ブーゲンビリアが咲いている。

 バスはヨルダン川を挟んで国境沿いに走っているのだが、二重に張り巡らされている鉄条鋼の中には時折地雷が埋まっているという看板がある。

やがて死海が見え出す。死海の対岸の山が薄紫色をし、土漠、石漠の不毛の大地である。ところどころ死海の水が無くなり2つに湖が分かれているようなところもある。しかし真っ青な大きな湖である。何処まで走っても死海の傍である。やっとホテルが並ぶところに着く。

今日は死海沿岸のリゾート地エンボケックに泊まる。

 

 

9月11日(日)晴 4日目

 

 死海は長さ78キロメートル、幅18キロメートル、海抜マイナス398メートル、塩分濃度35%の塩湖。ヨルダンとの国境に位置し、ヨルダン川から流れ込む水の出口が無く、強烈な日差しから水が蒸発し、塩分が残って凝縮した結果だ。湖底には塩の結晶が敷き詰められている。

 創世記に出てくるソドムとゴモラの町、その頃ソドムの町は乱れに乱れきっていた。三人の神の使者がソドムの町を滅ぼすという。それを聞いてアブラハムが驚き、正しい人を50人から10人まで減らしたにもかかわらず、町には正しい人がおらず滅ぼされることになった。神の使者をかくまったのがソドムの町に住むアブラハムの甥のロトである。神がロトに「命がけで逃げなさい。

ロトの妻の塩柱

後ろを振り返ってはいけない。」と。山に逃げることになったロトたちだったが、絶対に後ろを振り返ってはならないと言われていたにもかかわらず、ロトの妻は滅ぶソドムの町を振り返り見た。妻はたちまち塩柱となった。

茶色の岩塩の山が連なっている、そこに塩柱だけが1本立ち、人の姿に見えなくは無い。山の麓にはよく見ると塩の結晶が落ちている。茶色の荒涼とした乾いた世界である。

 

 死海のほとりに一面赤茶けた丘陵のワディがあり、バスで走ると山の上をスパッと切り取ったような岩山がある。死海から高度差400メートルの山頂は広がり、四方を山に囲まれた自然の要塞があり、これがマサダの要塞だ。

マサダとはアラム語で要塞という意味。

 山頂にはロープウェイで上がるのだが眼下には青い死海が見え、ローマ軍が登ったという当時のままの蛇の道を歩いている人たちの姿が見える。

 ロープウェイを降り、ピーター・オトールが出演している簡単なマサダの物語を見る。

ローマ軍に追い詰められた900人のユダヤ人がマサダで篭城、玉砕した物語である。

紀元70年、ローマがエルサレムを陥落し、最後に立てこもったのがここマサダ。

2年以上も篭城したが最後は自決してこの戦いは終わった。ユダヤ民族結束の場として象徴的なマサダである。

水を征したユダヤ人はローマ軍が水で苦しんでいる間もマサダではサウナ、プールを楽しむことが出来るだけの水が確保できていた。

これはマサダには縦横に張り巡らされた水路があり、雨水を貯える設備が整っていたからである。ローマ軍が壊した城砦から下を見ると、ローマ軍が野営をした陣地後が四角い石積みになって残っている。

 マサダは紀元前100年ごろ大司祭によって建てられその後ヘロデ王が増築し、冬の宮殿を建てた。貯水庫、食料庫、サウナなどがあった。今もその当時の建造物石積みが残っている。サウナはモザイクが残り当時の生活水準の高さをうかがい知ることが出来る。

遺跡の中は外敵に襲われたときは人が一人しか通れない細い道になっている。

全てが乾いた台地の中、茶色の岩の世界に残されているのである。

マサダの遺跡

ヘロデ王が建てた冬の宮殿跡

マサダの遺跡から見た死海

 

クムランの遺跡見えているのが洞窟から死海の写本が出てきた

 ヨルダン砂漠を北へ走るとクムランの遺跡に着く。

 ここでもクムラン教徒がどのように集団生活していたか、ビデオを見てからの見学になる。

 紀元前2世紀ごろクムラン教徒はユダヤ教の一派で集団生活をし、祈り、労働、話し合いなど、伝統や習慣を大事に生活していた。

女性の骨も発見され、男だけの集団生活と思われていたが、生活は共同でしたものと考えられるようになった。

最盛期の紀元前130年ごろは数千人の人々が暮らしていたが、紀元後70年ごろのユダヤ戦争でローマ軍に滅ぼされた。これからユダヤ人の離散が始まるのである。写本は壷に入れられ洞窟に隠された。これが20世紀最大の発見といわれる『死海の写本』である。

 死海の写本は羊皮紙に竹ペンで墨汁を使い、ヘブライ語で書かれた紀元前2世紀ごろの書物といわれている。

 写本はクムランに同じ土地、生活様式が残っているので信憑性は高い。

 書物はユダヤ教の原典、旧約聖書のことなどと共にそのときの信条が53条として書き記されている。また紀元後マサダでの自決、イスラエル建国のことなどが予言として書かれていた。

 遺跡としても整備され、当時の貯水池、集会場所跡を見ることが出来る。ここも岩と砂の世界である。

 写本は1947年に偶然ベドウィンの少年がクムランの洞窟から壷に入った巻物を発見した。1900年間の眠りから覚めた写本は転売を重ねた末、アメリカから建国間もないイスラエルが買い戻した。

 マサダもクムランもローマ軍に滅ぼされた後の町は今見る岩の風景と変わりなく、灼熱の熱砂の砂漠と青い死海があり、ここを吹きぬける熱風は今と同じであっただろう。

 クムランを後にしてエルサレムに向かう。車窓からベドウィンの集落などが見える。

 エルサレムは標高730メートル、死海からすると1100メートル高くなる。

エルサレムが近づくと丘の上にアパートなどが見え始める。アラブ人居住区は金持ちが思い思いの広さで家を建てているが、ユダヤ人居住区は秩序よくアパート郡が建ち並んでいる。人口70万人だが、ユダヤ人対アラブ人の人口比は大体2対1のわりあいでアラブ人が23万人くらいを占めている。

 新市街の古い住宅地は赤い屋根の一軒家が多く、30年ほど前は閑静な住宅街が今は車の走る街に変わっている。

 一軒のアパートから出てきた男性典型的なユダヤ人スタイル。半ズボンに靴下、服のコートも黒ずくめ。つばのある帽子を被り、もみ上げは長くカールしている。

 

 

9月12日(月)晴 5日目

 

 エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの神殿がここに集まり、互いに神聖な場所としている。

最初に王国が築かれた時から4000年の間、それぞれの宗教をめぐり、民族の誇りをかけた戦いが何度となく起こり、そのつど破壊と再建が繰り返された。

 エルサレムは紀元前1000年ごろダビデがイスラエル統一王国の首都と定めた。その子ソロモン王は神がモーゼに与えた『契約の櫃』をエルサレムのモリヤの丘に置き、ここに神殿を建てた。後にここを神殿の丘といわれるようになった。

 エルサレムはヨルダンによって世界遺産に登録され、現在はイスラエル領にある。3つの宗教の聖域であり、シナゴーグ、教会、モスクがある。常に危険をはらんだ聖都イスラエルは『危険にさらされている世界遺産』なのである。

オリーブ山から見たイスラエル市内

 最初にエルサレムの全景を見ることが出来るオリーブ山の展望台へ行く。

ここから見えるのは全体はサウンド・ベージュ、家々の壁もまたベージュ色をしており帯状に連なる細い緑、そこにひときわ鮮やかに大きく金色の岩のドームが見え、旧市街を取り巻く城壁が見える。

今目の前に見えるエルサレムは静かである、だが何かが起きれば一触即発

のところ。

オリーブ山の麓の谷キドロンの谷は墓地になっている。

 まずゲッセマネのオリーブ園を見に行くが、ここでイエスが3人の弟子を連れ、最後の祈りをささげたオリーブ林であるが、なんと数本のオリーブが低い柵の中に植わっているだけである。

自問自答しながら祈り、血の汗を流したところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエスの時代からのオリーブの木

万国民教会

ゲッセマネはヘブライ語で油絞り、という意味なのだからこのあたり立派なオリーブ林があったのだろう。

想像していたのはオリーブの林であるから以外だった。

 その隣にあるのが万国民教会。1919年に色々の国からの献金で建立された。入り口にはイエスにまつわるモザイク画が描かれている。

中に入るとイエスが祈ったという岩が祭壇のところにある。

 エルサレムを取り巻く城壁には8つの門があり、ダマスカス門はシリアのダマスカスへ、ヤッホォ門はヤッホォに通じていた。

 その1つライオンのレリーフがある聖ステバノ門(生贄の羊を通した門)から入り聖アンナ教会へ行く。教会に庭にはペテスタの池があり、巡礼者の沐浴場として使われていた、といわれている。

 聖墳墓教会はローマ神殿を壊したところから墓が出てきたので、4世紀にコンスタティヌス皇帝の母が建立したもの。

614年にペルシャに、1009年にはエジプトに破壊されたが、そのつど十字軍によって再建された。現在の形は1808年の火事の後再建されたものである。

またカトリック、アルメニア教会、ギリシャ正教、コブト教それにシリア正教会の争いがあり、今も別々に管理されている。

教会内には長方形の岩があり敬虔な信者はその石にひざまずき、口付けをして熱心に祈っている。

 次に訪ねたのが聖マルコ教会。この教会は弟子のマルコが住んでいたところとされている。

イエスが最後の晩餐をし、足を洗ったところ。また光臨したところといわれている。キリストが昇天した後、紀元7年に教会ができたが、71年にローマ軍によって破壊された。

今は地下になっているが元は2階に位置し、シリア正教会の司教ビショップを安置している。

シリア教会はパレスチナ、トルコからシリア、イラクに住んでいたアラム語を話す人々が作った教会。イエスもアラム語を話したといわれている。

 『最後の晩餐の部屋』は2階にあり、過ぎ越しの祭り夜、ここで12人の弟子と最後の晩餐をしたという。

今残っている建物は十字軍が建てた建物であるが、13、14世紀にはイスラム教の寺院になっていた。

 またここでソロモンが王位継承の声を発したという。

ダビデ王の4男が司祭の館に集まり王位を宣言したときのことだが、預言者ナタンの説得でダビデ王がソロモンに油を注ぎ正式の王とした場所である。

 ダビデの墓は最後の晩餐の教会の下にある。黒い布に覆われ棺があるだけ。ここに入るには男性は帽子を被らねばならない。もしなければ紙の帽子を借りる。

鶏鳴教会

 鶏鳴教会は1924年から1931年までの7年間を掛けてヨーロッパ人の手により建設された。

ドームの天井部分にはキリストとマリアのモザイク画がある。

 地下部分にはイエスが捕らえられたときの牢獄が残っている。丘を掘って作ったもの。岩壁には囚人を監視した場所もそのままある。

ユダの裏切りで捕らわれたイエスをペテロが3度知らないと言った場所である。

裏切りを後悔したペテロは後にキリスト教発展のため忠誠を尽くした。

イエスを銀貨30枚で売ったユダは首を吊って死んでしまう。

帰り道は紀元前2世紀の石だらけの道、イエスも歩いただろうという道は、鶏鳴教会を出たところにある。

教会の塀の中にブーゲンビリアの花が綺麗に咲いている。

 

 今日は『イエスの足跡を訪ねて』と、いうことで1日教会などの見学をした。

暑い中よく歩いた1日だった。第13ステーションあたりでアフリカからの巡礼団の一行とも一緒になり、昼食場所も同じだった。

イエスの生誕の地ベツレヘムが遠望できるということだったが、あいにくよく見えなかった。

イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道

鶏鳴教会外のイエスも歩いただろうという道

 

9月13日(火)晴 6日目

 

 エルサレムはどの宗教をとっても聖地であることには変わりはない。

ムスリムの安息日は金曜である。イスラム寺院ではメッカに向いて祈る。

ユダヤ人は嘆きの壁の前で神殿再建を願って祈る。

キリスト教徒はイエスが十字架を背負って、磔刑にあいゴルゴダの丘へ続くヴィア・ドロローサの道を順行する。

 

 城壁の8つの門の1つヤッホォ門あたりはアルメニア人地区になっているが、1947年まではヨルダン領だった。

ヤッホォ門から入るとすぐのところに、4から6世紀ごろのビザンチンの岩壁とヘロデ王も立ったという岩がある。城壁の上をヤッホォ門からシオンの門まで歩く。

違う目線でエルサレムの街を見ることになる。

 城壁を歩くとすぐにダビデの塔がある。ヘロデ王がエルサレム防備を目的に3つの要塞を建てた。現存するのはこの塔だけで、誰かがダビデの塔といったものが定着した。何度かの増築後イスラムのものになり、尖塔にはイスラムのシンボル三日月が付いている。

ランバン地区のシナゴーグ跡

 シオンの門を出ると旧市街に入り、アルメニア人地区を過ぎるとユダヤ人地区、アラブ人地区へと繋がる。

ランバン地区のシナゴーグ跡を見て嘆きの壁に向かう。

 展望台から岩のドームの写真を撮る。ドーム手前が嘆きの壁。

ここが3つの宗教が互いに聖域としているところである。やはりテレビの画面で見るのと

は違い、自分の目で見る風景には感じるものがある。スゴイ!!!パノラマの視野にこの風景があるのだ!

 神殿の丘に入るには手荷物のX線検査、オープンチェックなどを受け、ペットボトルの蓋を開けられ匂いを嗅がれた後中味の質問に答えるのだ。厳重な検査のため暑い中行列をして順番を待つ。銃を手にした係官が常に歩き回り警戒している。やっとここをクリアーし、出てくると眼前に岩のドームがある。

岩のドーム 金の屋根と青いタイルが美しい

 

 青いタイルに金の屋根のモスク、美しい。ブルーのタイルはイスラム圏から運ばれたタイル、屋根は1994年にヨルダン前国王が13番目の宮殿を売ったお金で葺き替えられ、黄金の輝きをしている。

モスクを取り囲む石柱はユダヤ人の神殿の柱跡。The Jerusalem stone. と書いてあった。

残念ながらモスクの中には入れない。

 岩のドームは638年イスラム教徒がエルサレムに入場し、エルサレムの神殿の丘をイスラムの聖域に定めた。その後100年近くエルサレムを支配した。687年にウマイヤ朝5代カリフ、アブドゥル・マリク(在位685−705)の命により建設が始まった。

691年に完成し、現存する最古のイスラム建築である。東西南北の方向に4つの入り口があり、南の入り口はメッカの方を向いた扉がある。8角形のブルーのイスラミックタイルの上に黄金のドームが載っている。8角形のタイルと黄金のドームのバランスがよく美しい。

 アブラハムの時代にあった岩はユダヤ教徒もイスラム教徒も世界の中心と思っている。

ダビデ、ソロモン、ヘロデ、キリストが祈り、預言者ムハンマドの時代の岩はイスラムの手に渡った。この岩から預言者ムハンマドは天馬に乗って昇天したといわれている。

 ユダヤ人の祈りの場『嘆きの壁』は、70年ローマによって神殿が破壊され、部分的に残った485メートルの西の壁。壁の高さ21メートル、下から7段目までは第2神殿時代のもの、その上4段がローマ時代のもので色が少し違う。石材はエルサレムストーンという街の色と同じ薄いサウンド・ベージュ色をしている。

 壁の向こうには神殿の丘に建つ岩のドームが見えている。

神殿の丘はユダヤ教の神殿が建っていたところ。神殿が破壊された後ユダヤ人が1年に1回来訪を許され、望郷の思い、建国の思いを祈った場所。

 1948年に建国したがこの年からヨルダンの管理下に入り、ユダヤ人はこの壁に近づくことも出来なかった。1967年6月7日の6日戦争後は自由に祈ることが出来るようになった。実に1900年もの歳月を要した。

嘆きの壁(男性側)

 私たちも男女別れて嘆きの壁まで行ける。ここでも男性は頭に帽子を被らないといけない。

壁の隙間には願い事を書いた紙が小さく折りたたまれ入れられている。聖書を手に持ち、体をゆすって祈る姿を見ると、一介の観光客が彼らにとって神聖な場所の壁に手を触れるのはいかがなものかと思う。

彼らは祈った後もすぐには背中を見せず、後ずさりしながら祈りの場を後にしている。

 西の壁から南の壁の考古学公園へ。

一番高いところで50メートルの高さがある。紀元前25年から2000年前、新年にラッパを吹いて知らせた塔が落ちている。

神殿からローマ軍をめがけて落とした石もそのまま残っている。

壁は少しずつずらした石積み工法、ソロモンの石切り場から運ばれた。石は最大で200トンもあり、上から下ろしながら積み上げた。城壁の厚さは2メートルある。

 ダビデの街の遺跡は上から下を覗くと遺構の後が見える。これはダビデ王の宮殿を支えていた石積みの跡。壁の横の階段を下りていくと宮殿を支えた大きな石がある。今も発掘中で、しっかりと支えられているが工事現場の足場を広くしたようなところを歩いて移動する。

 紀元前701年にアッシリアに神殿を囲まれたが、そのときはアッシリアの事情で包囲が解かれた。その間弱点だった水対策としてヒゼキアが539メートルの工事をし、水を城壁内に取り込んだ。(ヒゼキアはダビデの末裔で、当時のユダの王)

高台に住居があるのでそこまで水を引くにはまず31メートルの高さに水を上げる工事をした。エルサレムは絶えず戦争があり住居は当時から高台にあった。

今もユダヤ人居住区はエリート地区(高台という意味)に住居を構えている。丘の斜面一杯にアパートや家が立ち並んでいる。

ヒゼキアの工事=水の工事である。これが今も残っているギボンの泉からシロアムの池へのトンネルだ。

ギボンの泉は暗くて何も見えないが水が湧き出す音が聞こえ、このトンネルをたどりながらシロアムの池まで歩くことが出来る。頭にライトをつけた外国人が水着姿でトライしていた。

私たちは300メートルほど先のシロアムの池に向かった。このあたりはアラブ人居住区で少し雰囲気が違う。

 シロアムの池に着くと側溝には澄んだ綺麗な水が流れている。

 

 

 

 

 

シロアムの池

目にするシロアムの池は石積みの細長いプールのようなものである。トンネルを歩いてきた女子高校生が池に足を入れたり、仲間たちと楽しげに話している。非常に大人びて綺麗な娘たちだ。

 この池でイエスが盲人の目を治した、と聖書に書かれている。

 アルメニア人居住区から見るとさほど高く感じなかった城壁だが、シロアムの池あたりから見るとやはり丘の上に建つ大きな城壁である。

 

☆今日のハプニング

 夕食まで時間があるのでベッドの上で寝転んでいると鍵の音が。隣の部屋だろうと高をくくっていた。するとユダヤ人ビジネスマンが。双方同時に驚き、ビジネスマンは「Sorry , sorry・・・」と、出て行った。

 

 

9月14日(水)晴 7日目

 

 今日はエルサレムから古い港町ヤッホォへ行き、そこからテルアビブに向かう。この観光が終わればイスラエルでの滞在が終わり、また厳しい検査を経て帰国である。

メノラ

 国会議事堂(クレネセット)へ行く。

イスラエルの議員数は120人、そのうちアラブ人は7名だそうだ。ヘブライ語で議事が進められ、我々が中に入るにはパスポートの提示が必要。

入り口近くに立つ手のような形のものは『メノラ』。メノラ(燭台)はイギリスから贈られたもの。この像にはイスラエルの歴史、建国の歩みなどが彫られている。自由と信仰を表し、イスラエルの自由の象徴である。

 イスラエル考古学博物館は5つの展示室に別れ、まず『死海写本館』に入る。

この建物は死海の写本が入っていた壷をイメージした白い屋根をし、高さも足元からは屋根の部

分しか見えない。中の写本はオリジナルのため屋根の温度が上がらないように、屋根の回りに噴水のようにしながら水がかけられている。

中に入ると照明も暗く、洞窟をイメージした館内である。1から50までの写本がガラスケースの中に保存展示されている。

世界最古のヘブライ語の聖典、イザヤ書、詩篇などが完全な形でみつ

 

 

 

 

 

イスラエル考古学博物館

かったのだ。偶然とはいえ20世紀最大の発見があったのだ。

 博物館内は自由行動となり、私は聖書・考古学館に行き、エジプトの棺から武器に至るさまざまな文物を見た。ローマングラスは数は少なかったが、コピーがあれば欲しいというデザインのものがあった。

 最後にもう一度高台からエルサレムを見、市民の胃袋を満たすマーケットに立ち寄った。

マーケットで

人の多いところには必ず銃を手にした兵士が立っている。

いろんな人が買い物をしている。

両側の商店には品物も豊富に並んでおり、非常に安価である。みかんの値札を見ると1キロが4シケル、日本円で約100円。バスも乗り放題で日本円で150円。日常生活はしやすいだろう。しかし消費税は17パーセント。

 バスからクロックタワーを見、オールド・ヤッホォの旧市街に入る。

クロックタワーは1906年にオスマン朝のスルタン、アブヂュルハミド2世の在位30年を記念して建てられた町のシンボル。(異教徒は中に入れない)

 ヤッホォは狭い町なので歩いて回る。

聖書にも出てくる古い港町。紀元前10世紀ダビデ王の時代から貿易港として栄えた。

 聖ペテロ教会の入り口の扉には旧約、新約聖書の主要な場面が彫られている。

ペテロが泊まった皮なめし職人シモンの家

 海に向かって岩場の上あたりの丸屋根からイスラムの塔が見えている。ここを遠目に見ながら歩いて行く。皮なめしシモンの家への道は、道も家の壁も薄茶色の石である。

皮なめし職人シモンの家にペテロが泊まった家は残っており、現在はアルメニア人の家族が住んでいる。 道幅の狭い旧市街を歩いていると、ある一角は道の両側

に個性的な店が並んでいる。若きアーチストの工房だそうだ。

なんだか昔にタイムスリップしたような雰囲気の町である。

ヘロデ王の時代、港の陸揚げされた物資をこの石畳を歩きながらエルサレムに運び込んだのだろう。そのときの人々が歩き、遠くから掛け声が聞こえそうである。

エキゾチックなモデル

「彼らからどのようなことを感じますか?」と、流暢な日本語で語りかけられた。

オスマン・トルコの影響があった土地柄、中東も近い。千夜一夜の世界シェラザードのイメージもする。

 道は鈍色した石で敷かれ、家もまたそうである。迷路のような坂道を上がり、階段を上る。出てきたところは3300年前のエジプトの城砦跡があり、ラムセスの丘へと繋がる。

ラムセスの丘から見た市街

ラムセスの丘に来ると地中海が広がり、海岸線には高層ビルが建ち並んでいるのが一望できる。

 今日はユダヤ人の大安吉日、何組のもカップルが結婚記念写真を撮っているのに出くわした。

ユダヤ教は夕方から行事が始まるので、結婚式は夕方にとりおこなわれる。そこで写真だけを先に撮るのだそうだ。

 ラムセスの丘を後にテルアビブに戻り、空港へ。ちょうど椰子の木の街路樹のかなたに夕日が沈もうとしていた。空港へは3時間余り目に着かないといけない。

また出国に際しチェックがあるのかと思うと少々気が重い。

 空港に付き指示に従い並んでいるとなぜか私に「こちらえ」という。グループを代表して質問に答えることになる。ガイド氏は全て日本語で答えろという。

パスポートを見ながら、「本籍地、ツァーメンバーの数、メンバーが入れ替わっていないか、何日イスラエルにいたか、目的は、何処へ行ったか、最期に泊まったホテルの名前は、荷物はどのようにしてここに運ばれたか、スーツケースは誰のものか、過去に貸したことがあるか、何年に何処で買ったか?」、など等を聞かれ答えはメモされる。他の人たちは何か読まされ、「Yes ,No 」を答えればよかった。

荷札シール

それが済むと次はスーツケースのオープンチェック。これが済んでやっとチェックインカウンターへ進むことが出来る。

だが係官が荷札シールをパスポートに貼り忘れたため、手荷物検査が受けられない。カウンターと連絡を取り合いやっとX線検査を済ます。これでも出国なので簡単なのだ。

出入国スタンプ

 ほっと一息入れたくなりアイスコーヒーと焼き菓子を注文した。アイスコーヒー、シャーベット状というかフロート状で液体じゃない。ストローで吸い上げてもシャーベットを食べているようなだ。しかし焼き菓子は美味しかった。

お釣り銭はカウンターの上のコップの中に入れた。

 搭乗時間が来て22時25分発で香港へ向かう。

 ユダヤ教の熱心な信者は黒い紐を腕に巻きつけ、額には5センチ角のものをつけている。これは眉間に神を感じながら祈るということ。

朝方飛行機の中でもこの儀式をしながら祈っている人を何人も見た。

 

 

9月15日(木)晴 8日目

 

 11時間近い夜間飛行が終わり、無事香港に着いた。次は日本に向けて帰るだけ。

夜9時ごろに関空に着き、荷物を宅配し、西宮行き最終のリムジンで帰宅。

 

 

 90パーセントキャンセルが出ない、といわれたが出発2週間ほど前に上手くキャンセルが出て参加した旅だった。

 出入国は今まで経験したことがない厳しいものだったが、入国するといたって平和なイスラエルだった。人の多いところは銃を構えた兵士は立っていたが。

とはいうものの帰ってすぐにガザ地区から撤退が完了した言いながらすぐに銃撃戦があった。

 

 聖書も読んだこともなく、キリスト教に興味があるわけではないがイスラエルには行きたかった。

 キリスト教信者にとっては聖地エルサレムである。イエスに関する史跡が多い。私はキリストの奇跡も余り信用はしておらず、「そんなことあるんかいな」と、半信半疑である。

私はキリストの聖地をただ歩いて見てきただけ。

それよりマサダやクムランの砂の世界、土漠の世界に2000年前も同じ風が吹き、太陽が照りつけていたと思うほうが楽しい。

 イスラエルは旧約から入れると4000年の歴史を持ち、複雑な国である。

高台から見ると嘆きの壁よりも高い、燦然と輝く岩のドームがあり、エルサレムの何処の丘に上がっても街の中心として威容を見せている。

 ヨルダン川西岸を走っても入植者たちがいる内陸部ではなく、ヨルダン川の傍の国道を走るのだから緊張感はない。

 日本とイスラエルの関係は深いという。伊勢神宮に行くとダビデの星、メノラが柱に彫られているという。

 実質7日間でイスラエルの一部を駆け足で、まるで砂漠に吹く風のように旅をした。日差しもまだ強く、暑い季節だった。

今になれば出入国の体験も面白い経験だった。

 

 

 

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