モロッコ
 

 私がモロッコに行ったのは1998.10.17〜26.までの10日間の旅に参加した旅です。関空からもあったのに、前泊して成田から出国しました。

その旅日記です。

 私がいだいているモロッコは、映画の世界でした。

 モロッコはアフリカ大陸の最北西側に位置し、国土の広さは71万850平方キロ、日本の1.9倍の広さ。人口は約2600万人、60%が先住民族のベルベル人が占め、アラブ人、フランス人などが住んでいる。

公用語は勿論アラビア語、フランスの植民地だった関係でフランス語が通じる。

 今回のコースは

KLM航空で先ずアムステルダムへ→カサブランカ→ラバト→メクネス→フェズ→アトラス越えをして→エルフード→カスバ街道を通り→ワルザザード→ティスカ峠を越え→マラケシュ→カサブランカ→アムステルダム→日本

と、いうルートだ。

☆0日目

 前泊のため伊丹から成田へ、そしてホテル。

初めて雨の出発になった。

 

☆1日目

 成田発10時10分のKLM航空で先ずアムステルダムへの飛行。飛行時間12時間。カサブランカまでの待ち時間6時間、その時間を利用してアムステルダム市内をバスで見学。

 アムステルダムに近づいてきた時は雨模様、しかし市内観光のときは晴れ間も見え始めたが、肌寒い日だった。

風車を写真に撮ろうとすると、カメラのシャッターが下りず、故障してしまい空港の免税店で新しく買った。

 運河で車が止まったとき、跳ね橋が2艘のヨットが通過するので跳ね橋の上がるのを見ることが出来た。

 時間が来てアムステルダムからモロッコ行きの飛行機に乗り、現地時間23時10分にモロッコに到着。アムステルダムからモロッコまで3時間40分、実に近い国である。

 ホテルに入るとイスラムの最初の洗礼で、ホテルの水道工事で断水。シャワーもトイレも使用不可の状態。幸い水を持参していたのでそれで洗顔は済ますことが出来た。

 

☆2日目

 9時にホテルを出発し、カサブランカからモロッコ唯一の高速道路を2時間ほど走り、首都ラバトに着く。

 ラバトは『庭園都市』の別名を持つ近代的な街、王宮、官庁、大使館が集まる政治の中心地。落ち着いた雰囲気もあるが、一歩メディナに足を入れるとアラブ特有の喧騒がある。

 ラバトは10世紀にベルベル民族のゼナータ族がブーレグレグ川の東にサレの町を、西側に要塞を造り、そこを『リバータ』と名づけたことに由来する。

商業都市として発展し、1912年に首都として今日に至っている。 

アルファー・モスク

ハッサンの塔

 王宮は現ハッサン2世と家族が住み、敷地内にあるアルファー・モスクに毎週金曜日には礼拝に行く所。

王宮は白い壁に緑の屋根の美しい建物である。

 モハメッド五世の霊廟はフランスからの独立に力を注ぎ建国の父と言われている。

 ハッサンの塔は霊廟の敷地内にあるが、未完の塔と言われている。

ムーア様式の代表的な建物で完成すれば88メートルになるはずが44メートルで停まっている。

ハッサンの霊廟内

霊廟の横に、大理石の石柱が360本あり、これはモスクの跡。

所々に城塞の跡が残り、入口には赤い軍服に緑の帽子を被り、白いマントを羽織った兵士が馬に乗って睨みをきかせている。

 

 ウダイヤのカスバはアル・ムワヒッド朝に築かれた城塞を利用し、17世紀にムーレイ・ラッシドによって建造された城壁。18世紀に気性の激しいウダイヤ・アラブ族の軍隊が駐屯した事からこの名前が付いた。

 昼食後、ラバトを後にメクネスに向かう。

メクネスはまたの名をメクネッサ・ザイトゥーンといい『オリーブのメクネッサ』という意味。

10世紀頃ベルベル系メクネッサターザ(現在のターザ)に次いでここに都市を作り周囲にオリーブ、ぶどうなどの農業地帯を作ったことに由来している。メクネスワインが有名。

 ムーレイ・イスマイルの廟を見学。モロッコでイスラム教徒以外でも入れる廟で、最上部は木彫り、壁は漆喰、下のほうはタイル張り、床はアラベスク模様の綺麗な廟である。

マンスール門(勝利の門)

 

 マンスール門は着たアフリカ1の美しい門といわれている。

キリスト教徒からイスラム教徒に改宗したムーレイ・マンスールが設計し、『改宗者の勝利の門』と言われている。1732年に完成し、馬蹄形のアーチと青、緑のタイルのモザイクと彩釉タイルで彩られた門である。

☆3日目

  アラーのお告げにしたがって808年に造られたモロッコ最古の王都。また世界最大の迷路の都市、フェズ。『知的な都市』、とも言われる。

 ムーレイ・イドリス2世によって建造され、13世紀のマリーン朝時代に最盛期をむかえた。

 新市街はフランス領時代に、行政の中心が移り、旧市街は世界遺産にも登録され、修復の手が入っている迷路。

「道が細く、迷路になっているので迷子にならないように、前の人の頭を見て歩いてください。」と、注意を喚起された迷路は、細い道を荷を積んだロバが通り、キャラバンサライ跡では織物工場になっていたりする。店、店が一杯に人のすごい事。

 

高台から見たフェズのメディナ・巨大迷路がある。

 

 この迷路の中にカラウイーン・モスクがある。異教徒は入れないので外から覗くだけ。9世紀に豪商の娘が寄進して出来たモスクだが、始めは小さな礼拝堂だった。10世紀始めにムラービト朝のムーレイ・ベン・ユーセフの改築により、現在北アフリカ1の大華麗なモスクとなった。

また昔、カラウィーン大学としても使われ、世界最古の大学の1つで、アラブ諸国からの留学生も受け入れていた。

アッタリーン・メドレサ

 神学校アッタリーン・メドレサは壁の上部は漆喰で、下の部分はタイル、壁は木製のアラベスク模様の典型的なイスラム建築である。

モザイクや壁の彫刻は精緻で素晴らしく美しい。

小さな中庭があり、中庭を取り巻くように2階建ての建物があり、1階は教室、2階は学生寮として使われていた。1階は思ったより狭く、それでもメッカの方角にミヒーラブがあり、礼拝堂としても使われていたことが分かる。 

 

 

 

 フェズ川のほとりにダッバーギーン(タンネリ)と、いうなめし革の職人街がある。円い染色桶が並ぶ作業所は中世がそのまま残っている。親子代々受け継がれ、羊、山羊、牛の革を手作業で染め付けている。

この地域に近づくと、道端で観光客相手のミントを売っている。このミントを鼻にかざして見学するのだが、もうどうしようもないほどの臭いである。

作業員は慣れで染色桶の中に入っている人もいる。

 私はほうほうの態で早くこの作業所から出たかった。

 朝から2時間あまりメディナの中を歩き、やっと絨毯屋で休憩が取れた。ミントティをご馳走になりながら、流暢な日本語で絨毯の説明を受け、後はお決まりのコース「マダム・・・・・・」と、絨毯の売り込みが始った。私は目のお正月をしただけ。

 昼食はメディナの中のレストランで、クスクスが。モロッコに来た限りは一度は食したいと思っていた。だが私にはご馳走といわれても、そんなに美味しいとは思わなかった。

 

 

 

 

 

 

モロッコ名物クスクス

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンナの模様レストランで)

 

 午後からは王宮の7つの扉、メディナの入口のブン・シュルード門、ユダヤ人街を見て今日の観光は終わり。

 

☆4日目

 4000メートル級の山が連なるアトラス越え、サハラ砂漠の入口エルフードへの移動日である。

今回アトラス越えを楽しみにしていたので、車窓の景色を楽しみながら、462キロメートルの長丁場を楽しむ事にする。

 アトラス山脈はモロッコを2つに分け、北のマラケシュ、フェズ、メクネスの大都市が城塞とメディナの世界なら、南はカスバとオアシスの世界。

乾いた土地に生粋のベルベル人が遊牧生活をしているところ。

 フェズからジャカランダの咲く並木道を走ると、モロッコのスイスといわれるイフランの町に着く。標高1650メートルでもう黄葉が始り、国王の夏の別荘がある所。 

アトラス山脈

 平原の向こうに山脈が延び、北アフリカ最大のステップ地帯。

潅木も無くなり、ただはるか彼方まで土の平原が続き、木のない山が見えているだけ。

アトラスの裾野か、山中か見分けがつかない。

 

 

 1770メートルのラルフード峠を越え、ジーズ川の渓谷にはジーズ川が蛇行して流れている。この枯れたような川が1964年に氾濫し、人口ダムを作り、ナツメヤシを栽培して生活している。丁度収穫期で、何処の家の屋根にも実が干してある。

 今日は何回も小休止を取りながら、砂漠の入口エルフードの町に着いた。

 

☆5日目

メルドゥーガ砂丘の風紋

メルドゥーガ砂丘の夜明け

 今回の最大のイベント、エルフードから30キロメートル離れたメルドゥーガ砂丘の夜明けを見に行く。明け方4時半頃から四輪駆動車に分乗し、漆黒の闇に青白く輝く満天の星を見ながら砂丘の入口まで走る。

ここで駱駝に乗り換え、写真ポイントまで行く。段々と明るくなるに従い、ベドウィンの黒いテントも識別できるようになる。

やがて空が金色に輝き、朝日が昇ってきた。感動の一瞬であった。

 無事駱駝ステーションに戻ると、辺り一面駱駝の糞尿が一杯、臭かった筈だ。

 念願の夜明けを見て、次はカスバ街道を走る事になる。

エルフードからティネリーを経由して、ワルザザードまでの道をカスバ街道という。大小の城壁に囲まれた城塞を結んだ道のことで、カスバとは「砦」という意味。

 途中カナートがあり、本では読んでいたが実際に見るのは初めてだ。昔ペルシャ今のイランで始り、北アフリカのモロッコまで広がった地下水路の事。今はポンプで水を吸い上げているのでやがて消えていくものだ。

トドラ渓谷

 

オアシス都市ティネリーの北西15キロメートルにあるのが、モロッコのグランドキャニオン、トドラ渓谷である。川の両側の絶壁は200メートルの高さがある。また幅は川を挟んで一番狭い所が10メートル。上を見ると真っ青な青空が見え、人間も、観光バスも、荷を積んだ親子のロバも小さく見える。

トドラ渓谷に咲いて花

 

 

 

 トドラ渓谷を出て川に沿って走ると、今度はダラス渓谷に入る。ここも風光明媚なところで、眼下にはナツメヤシを栽培しているオアシスが見える。

 エルフードからワルザザードまで315キロメートルを走り、景色の変化を楽しんだ。

 

☆6日目

 ワルザザードは1920年代にフランス軍によって砂漠の最前基地として建設され、今はモロッコ軍が駐屯する広い重要な所。

 ティガールのカスバは今はホテルになっていて、ミントティの入れ方を実演してくれた。ミントティは甘い方が美味しい。

 世界遺産になっているアイト・ベン・ハッドゥーのカスバは丘の斜面を利用して建てられている。

『アラビアのロレンス』『ナイルの宝石』などの映画の撮影にも使われ、ロケをする前からあるように上手に門を作ってあってそのまま置かれている。

不自然さがなく違和感無しで見れるのが不思議だ。

 

 

 

 

 

 

 

アイト・ベン・ハッドゥーのカスバ

 カスバの中に住民が生活をしており、新しく日干しレンガを鉄筋に貼り付け新しい家も建築中だ。ロバに乗って水汲み場に来た女の子は非常に綺麗な子だった。だが1日に何回もこれをしているんだろうなと思った。

 皆はカスバの上まで上がっていったが私は途中で断念し、子供達の写真を撮っていた。すかさず「マネー」、「キャンディー」と手を出してくる。

 ティシュカ峠は2260メートルの峠で、桃源郷ともいわれるとおり緑が多く、深い山の中で長閑なゆったりとした所だ。

学校帰りの子供達とも会ったが、先ほどのカスバの子供達と随分違う。

 そうこうしているうちにマラケシュに着いた。250キロメートルの走行距離だった。

 今夜はマラケシュのファンタジア・ショウでディナーだが、行くと騎馬の人、民族衣装の人、結婚式の服装をした男女に迎えられる。

ショウは騎馬戦などの後花火が上がっておしまい。食事は多分クスクスだろうと思っていたらやはりクスクスだった。

ダンサーが客のところへ回ってきて無理やりダンスをさせる。そしてお金を取っていく。

 

☆7日目

 マラケシュはモロッコの縮図といわれ、一番エキサイティングな町である。

モロッコ第2の都市で人口64万人、フェズに次ぐ2番目に古い街でもある。ベルベル人が11世紀後半に最初のイスラム国家としてムラービト朝(アルモラヴィト朝)がここに建国した所。

 メナラ庭園に行くと池というよりプールのような池があり、水は泥水のような色をしており青い水を想像していただけに驚いた。この水はアトラス山脈の雪解け水なのだが。パンをちぎって投げると、大きな鯉が出てきて凄い食欲である。

 昔王様がハーレムから連れてきた女性と楽しんだ後、この池に投げ込んだという。

 メディナの横にあるのがマラケシュのシンボル、クトゥピアの塔である。高さ65メートルの美しいミナレットで、四面に異なった文様があり、ムーア様式の建造物である。

塔の上にある球形は、女王がラマダンの月に食べ物を食べた罪滅ぼしのため、自分の持っている金を溶かして寄進したものである。一番大きいのが直径2メートル、次が1メートル、一番小さいものが50センチある。大きい串だんごが載っているようだ。それよりも私は、そんなにたくさんの金を持っていたことに驚きを感じた。今も塔の上で燦然と輝いているが、真鍮である。

 パピア宮殿に行くのにメディナの中を通って行くのだが、中庭に面して第一夫人、第二夫人の部屋を見た。やはり第一夫人の部屋の方が立派である。何事も1番でないとだめということ。

 天上部分は細密画が描かれ、彩り鮮やかなタイルが貼ってあり、壁、柱も見事な彫刻である。

各部屋は暑さ対策のため天井が高く、扉も二段構造で夏は全開し、冬は半分だけを開閉するようになっている。

 アク・バディン霊廟は気分が悪く、バスの中に一人残っていた。

 これで午前の観光は全部終わり、次は3時からジャマ・エル・フナ広場に行く事になっている。これもパスした。本当は5時過ぎから行くと、大道芸人がでたりして一番面白いのだが、もし事故でも起きたらの配慮だろう。

私達はホテルの売店で買い物ごっこをして楽しんだ。

 

☆8日目

 アトラス山脈を背にしながらカサブランカに向かって出発。

カサブランカはすっかりヨーロッパナイズされた街で、人口300万人の経済都市である。リン鉱石の輸出港として、ヨーロッパの玄関口として栄えている。12世紀には貿易港として発展し、15〜16世紀にかけてポルトガルに破壊され、18世紀にスルタン、スディー・モハメッド・イブン・アブドゥラーによって再建された。1907年のフランス占領後は、ヨーロッパの影響を受け急速に近代化された。

 カサブランカはこれといって見るものは無いが、ハッサン2世大モスクとモハメッド5世広場の前にあるハイアット・リージェンシーホテルの中のバー・カサブランカぐらいである。

霧のハッサン2世大モスク

 ハッサン2世大モスクは敷地9ヘクタール。モスクの広さ2ヘクタール、全敷地には8万人が収容できるという。

1986年から1993年までの8年間をかけて建造されたモスクである。勿論モロッコ1である。

近代的なモスクだけに、外壁にはゴンドラも備え付けられ、何かあったときには便利だろう。

 大西洋の傍に建っているので、海水より大気のほうが暖かく海霧が出てとても幻想的であった。

 異教徒は入れないが、礼拝の時間になったので門が開き、中を覗くと圧倒されるほど綺麗な装飾がなされている。

入口には緑の服に赤い帽子をかぶった門番が腕組みをして立っていた。

 ハイアット・リージェンシーの中のバー・カサブランカには映画「カサブランカ」のポスターが貼ってある。ここでモロッコ式灰皿を買う。吸殻が下に落ちるようになっている。焼きが悪いのに値段は高かった。

 

☆9日目

 早朝の出発で、7時30分のKLM便でアムステルダムに向かって飛び立つ。

アムステルダム14時20分の飛行機で日本に向かって帰国の途に着いた。

 

☆10日目

 予定通り日本時間9時30分に成田に到着。

 何時も何か椿事が起きないかと期待するが、今回も何もなし。

通関を済ませた後、伊丹までの便が午後5時まで無い、そこで少し空港内をぶらつき、VISAのVIPルームに行き、久しぶりに新聞を読んでいるうちに爆睡し、時間が来て伊丹に帰り着いた。

 中味7日間で大体を周った旅、少し強行軍であったが、夜明け。カスバ街道、サハラ砂漠と見たいと思っていたものは全部見れ、面白い国だった。

 観光客ずれしたモロッコ人にはヘキヘキしたが。

 

 

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