河西回廊・天山北路の旅

 

 

 今回シルクロードの旅に出た。2002・9・12〜25までの2週間の旅である。

今度のコースは「河西回廊・天山北路の旅」というのである。

河西回廊とは黄河の西を指し、漢民族によって多民族を併合した意味である。

天山北路は天山山脈の北側を走るシルクロードの一つのルート。中国には3本のシルクロードがあり、全て楼蘭に集まる。

 今回は天山山脈の北のルートを旅し、敦煌がハイライトである。

 先ずは旅した日付順に書いていきたいと思う。

 

☆1日目 9.12.晴

 

 関西空港を14時50分に飛び立ち、広州へ。時差は1時間、3時間10分のフライトで広州に着く。

着後レストランで夕食を済ませ、去年も泊まったホテルへ。

☆2日目 9.13.曇

 

 広州は1週間のうち晴れるのは3日ほどとか。

 飛行機が午後の便なので、広州を散策。先ずホテル近くの沙面を、ここは10分ほど歩くと終わり。その後広州のシンボル越秀公園、鎮海楼へ。

その鎮海楼の中の展示物に、明の時代の水時計があった。4つの桶から水が流れるように作られている。

鎮 海 楼

 午後の便で西安に着く。あいにくに雨模様。天気の日は城壁にライトアップされているが、今日はなし。

 黄土高原が続き、西から東に流れている河が「渭水」。

西安も唐の時代が終ると都としての機能も失われ、洛陽、北京へと都は移っていく。

 

☆2日目9月14日

 

  靄にけむる華清池

 西安から東の城門を出て、玄宗皇帝と楊貴妃で有名な華清池へ。もう全く観光化されたところ。中国人のうるさい事。妖艶な楊貴妃の姿の前で皆が我勝ちに写真を取り合っている。

ここは玄宗皇帝と楊貴妃の冬の温泉場だった所。

 兵馬傭坑は何度もテレビで見ているので、そんなに感慨も無いし、見た目も大きく感じなかった。

しかし、死後の世界も今と同じ生活ができるようにと、このような凄いものが地下に埋まって異様とは誰が思っただろう。

 当時の兵士の身長は160センチぐらいだったらしい、だが実物は180センチ以上ある。二つとして同じ顔がないのも不思議。

 

 

 

兵 馬 傭 坑

 井戸を掘っていて偶然見つけたが、太陽の光で彩色されていたのが色落ちしたため、現在修復中のものは太陽光が当らないようにしている。

 午後から玄奘法師が国禁を破ってまでインドに渡り、持ち帰って訳したと言う大雁搭を見る。慈恩院の境内の中に有り、西安のシンボルとなっている。

大雁搭は地震のため、少し傾いている。当初5階建てだったが、則天武后の時に7階建てになった。

 

☆4日目9月15日

 

西 の 城 門

 昔の旅人は、ここの門を出て西域に旅たった。色んな思いがあったことだろう。

ここからは天気がよければ東の城門も見えるが、あいにく曇空で見ることは出来なかった。

 城門から見える鐘楼は3階建ての木造建築で、外敵に対し威嚇する意味もあった。ここから北からの遊牧民の侵攻を防ぐ役目もした。

 

  私たちはここの門から西域に出ず、一挙に蘭州まで飛行機を使う。

この不毛の黄土高原に杉の苗木を植えたりするが、水の問題を解決しないといけないのが蘭州だ。

 黄土高原はゴビ砂漠から運ばれてきた砂が積もったもので、ここから春になると日本まで黄砂となって飛んでくる。

 「馬踏飛燕」のある甘粛博物館へ。今は修復中で文物のみの展示だが、8千年前から5千年前までと気の遠くなるようなものが展示されている。

 白搭山公園は標高2194メートル、蘭州で一番高い所にある。300段の階段を上がると、黄河とその市内が一望できる。イスラム教徒も多いのでイスラム寺院も目立つ。公園の中には「慈恩寺白塔」と呼ばれる7層8画(21メートル)の塔がある。

 

☆5日目9月16日

 

 蘭州から武威までの移動日、距離にして280キロ走る。本格的に憧れのシルクロードに入ってきた。

 鳥鞘嶺は3000メートルの峠、右手に万年雪の残る祁連山脈が連なり、山裾は1木1草もない山である。

 漢民族は西へ勢力を向け、匈奴は西へ帰るための道であった。今は一本の舗装された道が何処までも続いている。

何処までも続く祁連山脈の草原地帯は放牧地だが、草が途切れると塩が噴出す大地である。時々木が見えるがそれは乾燥に強いポプラの木。祁連山脈の雪解け水が豊富なため、農業も盛んな土地である。

 昼過ぎに武威の町に着いたが、3時から観光が始まる。それまで少休憩をホテルでとる。

 文廟は西夏文字でかかれた石碑が建ち、孔子を祀っている。

孔子は達人とみなされ、皇帝と同じ龍の彫り物が階段に彫られている。

裏に回ると柳の木と池があり、中国らしい。

 又この世とあの世を分ける「れい星門」がある。(レイは中国の漢字で日本には無い)

文廟の裏手にある静かな池と柳

 雷台遺跡は中国の観光のシンボルになった、「馬踏飛燕」が発見された所。今にも天空に飛び立ちそうな躍動感がある。

雷台漢墓が3つ有り、狭い入口から中に入ると、突然広い部屋に突き当たる。しかし中には何も無い、石を1つでも外すと壊れるというが盗掘の跡が残っている。

 今日の最後は「鳩摩羅什」の羅什寺塔を見に行く。何も無い所に搭だけが建っている。彼はインド人を父に、母は西域の人で亀茲の国に生まれ神童といわれた。

 

☆6日目9月17日

 

 河西回廊を張掖を経て酒泉までゴビ砂漠を500キロ走る。

祁 連 山 脈

 バスの中から見える景色は禿山だが、反対側に回ると林が有り、野生動物も住んでいるという。

平原の向こうには万里の長城(一部壊れているが)が見え、狼煙台には旗がはためいている。いかにも辺境の地にいると言う事が実感できる。

 張掖はゴビ砂漠の東の端に辺り、当時の国際貿易都市であった。

 ここ張掖で西夏の時代に出来た大仏寺の大仏を見る。中国の室内仏では最大級の釈迦像である。粘土でできた涅槃仏でお腹に穴があり、その中から仏像や、仏典が出てきた。

 ゴビ砂漠をただひたすら酒泉にむけて走る。酒泉の元の名は「金泉」。海抜2000メートルの所に有る。将軍が戦に勝ち褒美としてもらった酒を部下にも飲ませるために泉に入れたら、こんこんと酒の泉が湧いてきたという。

 市内に戻り鐘鼓楼を見る。街の中心に建ち、東西南北に行く道が4方にあり夫々に名前が付いている。

 

☆7日目9月18日

 

 万里の長城の嘉峪関は600年前の明の時代に1番西の関所として作られた。

1372年に匈奴が攻め込み、ここの重要性を認められ、600人の屯田兵がいた。屯田兵は地元の人間だと逃げ帰るので、他所から連れて来て自給自足の生活をしていた。

 今は公園のように奇麗に整備されているが、「天下雄関」とか書かれた門をくぐると外城、内城に分かれ、レンガに泥を塗って造ったもの。内城城壁に登ると、遠くに祁連山脈が、砂漠の中には万里の長城が見え、ゴビ砂漠が果てしなく続いている。ゴビ砂漠とはモンゴル語で、水も植物も無い所という意味。

 

☆8日目9月19日

 

タマリスク 「楼蘭」を読むと城が落ちる時、女王が死に、その墓の上に植えたという

 誰もが「感激しますよ」という楡林窟の見学。渓谷の景色も良く、回廊式になっている。多くの屈を見るが、15窟は唐の時代のもので、飛天が笛を持ち楡林窟で一番美しい飛天といわれている。

16窟は曹一族の夫と妻が描かれ、妻はウイグル人。ふっくらとした顔には眉の上に花を、頬の上には鳥の絵が描かれている

 

 

 特別窟の3窟は西夏時代のもだが、塑像は秦の時代のもので天井には曼荼羅が描かれ、入口の右側には普賢菩薩様、峨眉山の風景が描かれている。玄奘法師が普賢菩薩に向かっている、非常に有名な絵である。

 再びゴビ砂漠を走り、目的地敦煌に着く。

 鳴沙山に行くにはラクダに乗るか、ラクダが引く荷車に乗るか、電気自動車に乗るのである。

鳴沙山へ上がるのには340段の階段を登る。そこまで行けば、月牙泉の三日月型の湖が奇麗に見える。しかし私は体調が悪かったので売店で休憩していた。

 鳴 沙 山 の 月 牙 泉

☆9日目 9月20日

 

 今回の旅のハイライト莫高窟を昼食を挟んで14見たことになる。

どれも皆素晴らしく、当時の隊商が何年もかけて無事に旅を終えた感謝の気持ちが作らさせた物である。残念ながら写真は取る事は禁止されている。

外から見ると3階建ての回廊式建物である。 

敦 煌(96窟)

 96窟は則天武后をモデルにしたという高さ33メートルの北大仏がある。

 148窟は30年の年月をかけて丸いアーチと長方形で出来ており、後漢時代のもの。涅槃仏が収められ、腕が長いのが特徴。これは成仏した事を表している。又入口には莫高窟で一番古い密教の絵が描かれている。

 特別窟の57窟には壁画には説法図画、飛天が美しく、美人屈とも言われている。

 237窟は中唐時代のもので、天井の絵にはハスの花の中に3匹の兎の絵が描かれている。

 

 285窟も特別窟で、天井には虎の顔を描き、崑崙山脈の守神雷神、下に風神、鹿の姿などが描かれている。釈迦を中央にしたインド様式。

 158窟は涅槃仏で非常にいいお顔である、勿論特別窟である。

 どの窟も素晴らしく、細かく説明するには私では無理だ。

飛天の姿の美しさ、残存している夫々の時代の説法図など、時代とともに同じように見えても少しずつ違い「見事」と言うより言葉が無い。

北涼時代、北魏時代、西魏時代、隋時代、五大時代、宋時代、西夏時代のもので壁画、塑像全てが素晴らしい。約1000年の歳月砂に埋もれていたのが幸いしたと思う。100年前に偶然発見された敦煌文書によって、今我々が敦煌の遺跡を見ることができるのだ。

 その後西晋時代の墓を見に行く。1981年に発見され、1号墓、2号墓を見る。1号墓は貴族の夫婦の合葬墓、2号墓は女性の墓で化粧室まである。

何時の世も女性は美しくありたいと思うことは一緒である。

 

☆10日目 9月21日

 

 今日の観光コースは漢時代の関所玉門関と万里の長城である。

 鳴沙山の後ろには天山山脈の一部が見え始めた。しかし雲が多く、万年雪との境がはっきりと見えない。ただ見渡す限りゴビの砂漠の平原である。 玉門関はどのような立派な関所かと思っていたが長方形の土の塊。屯田兵が自給自足で関を守り、商人たちも遠くホータンから玉を運んできたという。情報交換の場でもあっただろう。

万 里 の 長 城

 ここから3〜4キロメートル走ると所々つぶれた万里の長城の西の端がが残っている。「漢代頂上遺跡」、「汊長城」とか枯れた日が建っている。

土、藁、土、藁と積み上げ固め、5メートルの高さに幅2.5メートルある。ここを出ると本当に西域に出て行くことになる。ここまでは甘粛省。

ポ プ ラ 並 木

 昼食はこのポプラ並木沿いにある、葡萄農家のレストランで。

 甘粛省最後の観光地、陽関へ。ここへ来ると「奥さん馬に乗らないか」と盛んに声をかけてくる。最初は小高い丘のほうへ連れて行き、小さなオアシスを見せる。次に「奥さん、反対のほうがいい景色。」といって馬から下ろさない。仕方が無いから又馬で行く。成る程先ほどの景色より数倍いい。これがここの商売のやり方だ。必要な言葉だけを覚えていて、此方が一人で馬に乗るからたずなを引くなといっても理解できない。

 

 一旦敦煌まで戻り、「柳園」という駅から夜行列車でトルファンに向けて出発する。今夜は中秋の名月で、奇麗な月を車窓の窓から見る。勿論配ってくれた美味し月餅を食べながら。

 

☆11日目 9月22日

 

 早朝にトルファンノ駅に着いた。もうここは新疆ウイグル自治区。トルファンは非常に風の強い所である。ウイグル語で「低地」という意味。年間雨量は16ミリだが蒸発量は3000ミリ以上。しかし天山山脈の雪解け水を、カレーズという地下水道でまかない豊かな葡萄畑を作っている。

 

 高昌故城という廃墟に行く。

非常に埃ぽいところで、ハンカチでマスク代わりにし、ロバが引く荷車に乗って行く。

 城にはドームの屋根が付いていたが今は無い。全くの土の景色、城の中は3層構造になっていて、非常に仏教が盛んな国だった。玄奘法師もここで30日間説法をしたことでも有名。インドからの帰りに寄る約束をしていたが、もうその時は国は敗れ無くなっていた。その後イスラム教徒により仏像は壊され、仏像が収められていた場所だけが残っている。

 

 

高 昌 故 城

 ここから10キロメートルほど離れた所にアスターナー古墳群がある。現在見ることが出来るのは、故俗の墓、商人の墓、貧しい夫婦の墓で、全てミイラである。

1300年目の漢民族の墓で、掘れば幾つも出てきそうである。

役人の墓は、唐の時代のもので正面に座右の銘が彫られ、自分を戒める事が描いてある。又商人の墓は途中病気になり故郷を思う絵が描かれている。夫婦の墓は何も無い。  

ベゼクリクの入り口の砂の富士山

 ベザクリク千仏洞は道は切り立つ崖と渓谷からなり、回廊式になっている。西方浄土の絵が描かれ、トルコから輸入された緑と青のトルコ石が使われている。

唐の時代の美人画、説法図と供養する人等が描かれている。莫高屈との違いは彫ったのでなく、レンガに粘土で化粧して造った事。 インド、パキスタンから仏教が伝わってきた事がよく分かる。

 火焔山はもっと赤いかと思っていたが、少しレンガ色かなと思う程度。岩肌というか山肌は乾燥による筋が一杯でこれが燃えるように見えることからこの名前が付いた。太陽の光、時間帯によって色が違ってくるのだろう。

ウイグル族の奇麗な女性が民族衣装を見につけ、写真を写せという。

火 焰 山

 午後は恒例の民家訪問。訪ねた家は毛皮商人の裕福な家庭。建物は半分が地下に2階部分は地上に建っている。夏は地下で暮らし冬は上で生活する。庭には木が植わり、木陰に入ると乾燥しているので涼しいのだろう。台所が庭にあり、イスラムのドームのようなものが付いている。勿論三日月と星がついている。

 

☆12日目 9月23日

 

交 河 故 城

交 河 故 城

 2本の河が交叉する所に出来たのでこの名がついた。元々ある丘を掘り下げて紀元前2世紀頃から造り始め、四世紀にはいると高昌故城に占領されその後クチャに移動した。民族は車師族に属する。南門と東門があり、半分は地下方式になっている。この遺跡で一番多いのは役所跡、次に寺である。

東門には井戸が残っており、コンクリートで蓋をしているが4つ穴が開いていて以下に深い井戸か分かる。覗くと顔が移るのでまだ水があるということ。

 大仏寺はこの遺跡では2番目の大きさ。しかしここもイスラムによって破壊されている。

 次はカレーズを見に行くが、たわわに実った葡萄棚の下を歩いて行く。

トルファンは砂漠地帯だが、天山山脈の豊富な雪解け水で、大事な水源である。50メートルの穴を掘り、灯をともし自分の影を頼りに水脈をたどっていく。水は1年中安定しているそうだ。

 道は天山山脈の支山の中を一直線に1本走っている。道の両側の大草原には、風力発電の風車が回っている。砂漠の風情は無い、砂嵐があってこそ砂漠なのに。

 ウルムチも2年前とは大違いに発展している。

 

☆13日目 9月24日

 

 今日は「楼蘭の美女」との再会の日だ。「新疆ウイグル博物館」は現在修復建設中。殆どが今日本に来ている。

今仮設展示場にはミイラが殆ど。化学とはなんでも明らかにしてしまうので夢が無くなる。乾燥した「楼蘭の美女」のミイラもヨーロッパ系という。殆どのミイラがヨーロッパ系。それだけシルクロードとして交流があったということ。アレキサンダーやマルコ・ポーロも歩いた道。ペルシャ、パキスタンなどと地続きなのだから。

 建設費用が足りないので骨董品を売るという、今回この話これで3回目。

 いよいよウルムチから広州に向けて帰るときが来た。ウルムチ空港は今年の1月に新しく開港され奇麗な空港だ。

 

☆14日目 9月25日

 広州午前9時30分発で関空まで3時間20分。

 今回感じたことは中国の国土の広さ、人口の多さ、又開発力の強さとスピード。

 無事楽しいシルクロードの旅が出来ました。

 

天山山脈と大草原

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