イエメン

 

 私がイエメンに行ったのは1998・2・17〜3・3まで。

最初はエジプトに行く予定だったのが、前年のルクソールのハトシュプト女王葬祭殿のテロでエジプトが渡航禁止になった。

そこで急遽行き先をイエメンに変えたというわけ。結果的にはこれが最後のツァーになり、その後イエメンも渡航禁止になった。

 イエメンはアラビア半島の最南端に位置し、サウジアラビア、オマーンと隣接し、南北統一されたのが1990年という国。海のモンスーンを利用して、海のシルクロードの拠点である。

 宗教はイスラム教で、アラブの最貧国、アラブの中のアラブと言われている。

又ランボーやポール・ニザンなどが憧れ一時住んだ事のある国。

 

☆1日目

 成田からドイツのフランクフルトまで行き、その日はフランクフルト近郊のマンハイムで一泊した。飛行時間12時間10分。

 空港からマンハイムまで小一時間の所。車窓の景色は長閑な田園風景が広がっている。

☆2日目

 フランクフルトを12時45分に飛び立ち、エジプトのカイロへ約4時間の旅。其処からいよいよイエメンのサナーに飛ぶ。飛行時間3時間少々。合計すると随分の長旅になる。

空港にはたくさんのイエメンスタイル(撒きスカートのように布を巻いている)の男達が、腰にザンビアを挿し、たむろしテレビを見ている。

通関はマイペースのゆっくりとした態度で、通関の手続きをする。『郷にいれば郷に・・・』で急いでも仕方が無い。彼らに任せるしかない。

 空港を出るとたくさんの人が、出稼ぎから帰った人を出迎えている。

 私達はタクシーに乗りホテルに向かう、が、タクシー普通のライトバンなのには最初から驚いた。ぽつりぽつりと人家の明かりが見える。

家からの光がカマリア窓のステンドグラスから漏れて綺麗である。

 ホテルのロビーにはイエメン式の応接セットが置かれてている

玄関のドアの上にあるカマリア窓

壁を背に絨毯の上に一人一人分の枕のようなひじ宛が置いてあり、あぐら、立てひざで座ると楽だろうと思う。

 取り敢えず100ドルをリアルに変えたが、厚さにすると2センチぐらいの札束である。凄い金持ちになった気分、でもよれよれで汚い。

 サナーは標高2300メートルの高原都市、「ノアの箱舟」のノアの息子シェムがサナーに最初に住み着いたといわれている。世界最古の町で薄茶色の玄武岩や花崗岩で出来た5〜6階建ての高層住宅が立ち並ぶ。家々の窓は白い雪花石膏で縁取られたカマリアという窓で飾られている。

大体数百年前の建物、中には1000年を越えるものもあるという。1084年12月に世界遺産い登録されている。

 

☆3日目

 サナーの市内観光の日であるが、私は体調を崩しホテルで寝る羽目になり、非常に残念でした。

 今日はサナーの旧市街を見るのをどれだけ楽しみにしていたか、イエメン門など城塞都市としての伝説の街です。

 でも旅は始まったばかり、今日無理をして長引かすより、後の旅が順調に行くよう祈りながらベッドに横になっていました。

 

☆4日目

 昨日休養を取ったので、今日から元気に観光の始まり。

ロックパレス

 

 

階段を登っていくと、別の角度から見るロックパレス

 サナーから少し走ると此処がワディー・ダール。ここの丘にあるのがロックパレス。高さ50メートルの岩の上に不安定な状態で建っている。1030年代のイマームの夏の別荘だった所。5階建ての建物の中はカマリア窓に飾られ、幾つもの部屋がある。

今は政府が管理しているので、ゲートが閉まっている事もあるとか、運良く見ることが出来た。

 今日は金曜日なので、ワディ・ダールの丘の上では結婚式の爆竹を鳴らしたり、ピクニックをしたり思い思いの休日を楽しんでいる。勿論結婚式は男性だけが祝っているのだ。

 双子都市シバムとコカバーン、シバムのスークを抜けて車でコカバーンまで上がる。

シバムのスークは昼前で、市はもう終わり。買い物は男の仕事でビニール袋に買った野菜などが入っている。物価は安く、私達もオレンジを買ったが、20個以上入って100リアル=100円。

たまに黒衣の女性も見かけるが、黒いベールに黒いマント姿、目だけを出している。

 昔シバムが農業を、コカバーンは戦争を受け持っていた。標高差350メートルあるが、その頃の道がまだ残り、今も使われている。今はコカバーンまで舗装道路が出来楽に行けるが、道の両端は荒涼たる景色。

 コカバーンのレストランでイエメン式の昼食。メニューは主食のナン、ジャガイモとタマネギ、トマトを炒めたものに卵を落としたものなど。

ナンの大きさは30センチもある大きさで、香ばしく美味しかった。

 コカバーンから下のシバムの町を見下ろすと緑が豊かで、とてもいい景色である。今から約1時間かけて1000年以上も昔から村人が歩いた道を、シバムに向けて下りていく。

ゴロゴロと石が一杯、その上細く険しい道。すれ違うのはヤギにロバ、ベドウィンの親子など。

 今は山の上のコカバーンまで水道が引かれているが、昔は水汲みは女の仕事。この道を1日に何回となく上り下りした事だろう。

シバムとコカバーンを結ぶ昔の道

 トゥーラはサナーの建物と少し違い、小高い上に建ち、山から切り出した玄武岩で家を作っている。外敵に襲われても見分けがつきにくく、山を背に斜面を利用して段々畑を作っている。8世紀にはコーラン学校もあり、典型的な山岳部族の村である。

 

☆5日目

 8時30分にホテルを出発して、四輪駆動車でハジャラからホダイデまでの移動日である。途中エジプト人墓地、中国人墓地などを見ながらサナーの街ともお別れ。

 中国人墓地から見える山が、イエメンでは一番高い山ナビ・シュワイブ山(3760メートル)、天気がよいので綺麗に見ることが出来た。

段々畑を見ながらアル・ハイマー峠(2800メートル)を走ると其処はマタリ地方。コーヒーの産地で、有名なモカ・ワタリである。

アカネ科の植物カート

 現在イエメンではコーヒーは栽培は収穫までに時間がかかるので、カートにとって変っている。カートだと朝摘んでその日のうちにお金になる。

 イエメンでは合法だが、隣国サウジアラビアでは麻薬扱いである。また毎日カートタイムを取り、ドライバーがスークへカートを買いに立ち寄る。70から80センチぐらいに切り揃えて売っているのを上30センチぐらいをミネラルウォーターで洗い、乾燥しないようにビニールなどに包む。

噛むと軽い興奮作用があり、ピンポン球のように噛みかすを片方の頬へ溜める。

カートを噛んでからの方が、運転の調子も上がるのである。

 標高2800メートルのハジャラも典型的な山岳民族の家で、岩にしがみつくように建っている。村の入口には1つの門が1000年前からあり、山城と同じ。家は築300から500年経った4から5階建ての石造りの家である。玄武岩や花崗岩を積み上げ白い漆喰で縁取られている。

ハジャラの典型的な家

ハジャラの家

ハジャラは標高が高いため午後になると霧が出やすく、今日も霧が出たり晴れたりと、とても幻想的である。

崖下は切り立ったようである。此処では大いに四輪駆動車が活躍した。

 

 昼食後一気に3000メートルを降下し、紅海沿岸のホダイデの街へ。

イエメン第4の街で、アデンに次ぐ貿易港である。

☆6日目

 朝食後、紅海で捕れた魚市場に行く。何故だろうと思っていたが、後で納得。

魚は日本でもある魚が殆どだが、全てが大きい。又漁船は小さな木造船。

 イエメンで最も貧しいといわれるバイト・アルファーキーフ村に立ち寄り、名産のティハマ織りの工房へ。工房といっても掘っ立て小屋のような感じで、織られた布が掛けられている。機は大の男が2人掛りで長い棒を使って織る横機織。1枚織るのに1ヶ月かかるという。私はもっと小さな織物と思っていたが、非常にしっかりとした大きなものである。テーブルクロスぐらいの大きさがある。物凄く派手なものを1枚買ったが、家に持って帰ると使い道がない。

 ザビドも13世紀から15世紀にかけて栄えた所だが、今は見る影もなく寂れている。数学の代数の発祥の地なのに。

 モスクは世界遺産に登録され、カナダの調査隊が援助して修復中。

 突撃訪問隊で民家を見せてもらったが、勿論男部屋しか見せてくれない。見せてもらったのは子供部屋、子供といっても3男が高校生。凄く照れて勉強しているノートを見せてくれ、私に名前を書けという。漢字とローマ字で書いて渡すとその下にアラビア語を書いてくれた。

ザビド様式の天井

 家はザビド様式で、天井には綺麗な幾何学模様が描かれ、ほの暗く意外に涼しい。家全体は迷路のよう、屋上に上がると朽ち果てたような家が並んでいるが、皆人が住んで入るそうだ。チャイをご馳走になって帰る。

 昼食後コーハに向けて走るのだが、その昼食は何時も決まった定食メニュー。

我々を悩ますのがハエの襲撃。食器も気持ちが悪いので、濡れティシュにたっぷりと消毒用アルコールを含ませて持って来ているのでそれで消毒。焼きたてのアツアツのナンにはさすがハエもたからない。それを少し食する程度で終わり。ドライ-バーは見ていると何処からかねぎを手に入れ、ナンに巻いて食べている。味見をした人は美味しかったとか。

 紅海沿岸のコーハには2時半頃に着いた。暑い。

 コーハへの道はまるで産業廃棄物道路、勿論舗装道路ではなく砂漠のような砂の道、おまけに風が強く吹き上げられたビニール袋が木の枝に引っかかり、まるで花が咲いたように見える。

 又泊まる所が素晴らしい海の家。小屋に木の枝をまわし風通しのいいことこの上ない、屋根は筵のようなものが載っている。ベッドのところも同じ。勿論シャワーもトイレもない。海岸近くにシャワーとトイレは有るが。そこで早いがシャワーを浴び、何もする事がないのでボッケーと暮れ行く紅海の海を見ていた。

電気は6時から11時までしか点かない、虫除けに蚊取り線香を焚き、犬の遠吼えを聞きながら寝るのである。

 夕飯は朝ホダイデで買った魚が料理されて出てきた。朝魚市場に行ったのはそのためだった。私達は小屋で持参の五目御飯を食べた。

 

☆7日目

モカの昔のコーヒー豆を保管していた倉庫

 紅海沿岸を四輪駆動で走りながら、目的地のモカへ。モカはかってのコーヒーの積出港としての、繁栄の後は全くなく寂れた薄汚い町である。昔のコーヒーを保管していた倉庫があるだけ。

 車が着くと今まで人っ子一人いなかったのが、ワッーと私達目掛けてやって来る。まるで地の底から湧いて来たような感じである。「バクシーシー」(お恵み)をしないと髪の毛を引っ張ったりする。子供の性格も良くない。

 欧米では17世紀頃から日常的にコーヒーを飲みだし、そのコーヒーを一手に輸出したのがモカ。モカがコーヒー味の代名詞にもなった。

 目的地のタイズに着いて、スーク(市場)を歩く。時間が夕方なので買い物客でごった返している。断然男が多い。スークの道幅は2人が並んで歩くのがやっとの広さ。雑多な生活用品が売られている。ここでもハエが我が物顔で飛んでいる。此処でハエ取りリボンを売れば儲かるだろうと思った。勿論地元の人は誰も気にしていない。

 

☆8日目

 13世紀に建てられたアシュラフィア・モスクを見学、現在コーラン学校として子供達が勉強をしている。当然のことながら男女別々である。男の子は写真に撮らせてくれるが女の子はだめ。先生もだめ。

 このモスクはザビル山(3006メートル)の麓に建ち、白いミナレットは町の至る所から見える。

 タイズは「緑のイエメン」と呼ばれ、イエメン第2の街。標高1400メートルの常春の気候。

 国立博物館見学が、天井が落ちたため中止。

 いよいよ憧れのアデンへ。旧南イエメンだ。アデンは天然の良港で、海の水も綺麗し、イエメンきっての国際貿易港。半分は軍港として使われているので、軍港の方は写真撮影は禁止。兵隊が見張りをしている。

ランボーも住んでいたとこで有名だが、海のシルクロードとして東西貿易の重要な中継地だった。

 シバの女王の貯水池アデン・タンクは、紀元前1世紀に作られた18の貯水池で今も水が満々と貯えられている。シバの女王のときの石積み技術はたいしたものだ。アデンはイギリスの植民地の後、社会主義になったので古い建物は壊され残っていない。

 

☆9日目

 今日は朝5時の飛行機でサナー経由でムッカラへ。ムッカラは中東のベニスといわれているが、「?」です。

 近年この地方に明日行くサユーンにかけて石油、天然ガスが発見され、大変な建設ラッシュと活気に満ちている。

 かっては隣国オマーンにかけて乳香の原産地として栄え、乳香の道を通って全世界に乳香を輸出した港である。

 

☆10日目

 ムッカラを出て少し走ると昔の税関跡が見えてくる。此処を出るといよいよサユーンへの道。アリビンアリーブ峠1200メートルを越えて走り抜けまる。楽しみにしていたハドラモント渓谷である。山賊が出るという話だが、出ても隠れる所がない。兵士の車が付かず離れず付いて伴走してくれる。

ハドモラント渓谷、ワディです

 ハドラモント渓谷は最長400キロメートル、深さ300メートルの谷。ワディで雨期以外は水の流れない河だ。此処に20万人の人が住み、ナツメヤシや養蜂で生計を立てている。

渓谷といってもこんなに幅があると、渓谷の感じはしない。

 予定を変更して、明日見るシバムを見ることになる。写真に撮るには夕方が良いそうだ。

 世界最古の摩天楼の町シバム。実際に見ると5階から8階の建物に見えない。石と日干し煉瓦で出来た家で傷みも酷い。

住民は此処で生活をしていて、道にはヤギなどの家畜がいる。階上の住民は料理の切りかすなどを窓から下に投げ捨て、決して綺麗な町とはいえない。

イエメン人は掃除をしない民族のようだ。

シバムノ街

☆11日目

 ハドラモント渓谷の中心にあるのがサユーンの町。

15世紀にスルタンが此処に移り住み、経済的に発展した所。

スルタンパレス

 スルタンパレスはスルタンが1947年まで住んでいたが、今は博物館になっている。

1948年にオランダ大使館がここに来て、その時のカメラマンが撮った写真が展示されているが、当時とちっとも変っていない。時間が止まっているようで、不思議な気がする。

スルタンパレスから見た外の景色

アル・ムダール・モスク

 アル・ムダール・モスクはタリムにあるスンニ派のモスク。青空に映えてとても綺麗なモスクで、ミナレットの高さは50メートル。タリムのシンボルとなっている。

 

☆12日目

 サユーンを午前11時15分の飛行機の乗る予定が、イエメン航空の予定変更で、何時になるか分からないという。午後から自由行動だったので、初日にサナーの旧市街を見る予定が狂ってしまった。

 ホテルの庭や、ロビーで時間を潰し、昼食もホテルになった。始めてラクダの肉を食べた。味は牛肉と変らない。最初は恐々、小さいのから食べ始め段々に皆のお箸がラクダにいった。

 結局イエメン政府の人を乗せるために、3時30分になった。イエメンではよくある事、航空会社は国営だし。

 サユーンの飛行場には1機の飛行機も無い。

時間が迫ってやっと1機が飛んで来た。イエメンガバメントが乗り込み、次に我々。指定席ではないので早いもの順。

 今日はイエメンガバメントのお陰で予定が狂い、無為な1日だった。

 

☆13日目

 今日はシバの女王の遺跡マーリブへ行く日だった。ところがホテルを出るといやに警戒が厳しい。私はルブ・アル・ハーリー砂漠にある月の宮殿、紀元前8世紀のマーリブ・ダムを見るのを楽しみにしていたのだ。ただ石柱があるだけとは、ガイドブックには書いてあるが、やはりこの目で確かめたいではないか。

ところがゲリラが出るということで、ツーリストの車には兵士が乗り込み、何回もの検問で時間が大いにずれている。突然山の上から「パン、パン」と鉄砲の音。車の中から見ると5人の兵士が、こちらをめがけて鉄砲を撃っている。私は別段怖いという気はしなかったが、ドライバーは必死で後続車に当りながら回転させフルスピードで走り去る。勿論兵士は降りて山の方へ駈けて行く。添乗員は動転している。友人と私は。「怖くないというのも、感性の老化かいなぁ」といって笑ってしまった。

 兵士に丘の上に上がれと命令され、上がるとスイス、フランス、ドイツの車はもう上がっていた。「車から出るな、兵士は写すな!」と言われるが暑くて車の中になんか居れない。当然出て付近を検分したし、隠れて兵士も写した。

 まぁーイエメンでは周期的にこのようにゲリラが出、今日当り出る日だったそうだ。空挺部隊が出て鎮圧したそうな。

 マーリブは見れなかったが、中々エキサイティングな観光最後の日だった。

 

☆14日目

  0時25分初の飛行機で帰国の途へ。

空港へ行く道は、来る時と同じで漆黒の道を走る。所々にまだ店を開けているとかろがあり、そこには裸電球がぶら下がり侘しさと、かっての日本の姿が重なった。

ムッカラのホテルに咲いていた花

 飛行機がサウジアラビア、エジプトに近づくと、明るい光が見えてくる。

 フランクフルトには朝の7時ごろに着き、午後の便なのでフランクフルトの街へ出て、そこで朝食を取った。

やはり街は整然とし、衛生的だ。気候も夏から冬に戻り、楽しい旅も終った。

 

☆15日目

 無事成田に朝の8時30分に着いた。

 

 今回エジプトがだめになり、イエメンに行く事になったが、私にとって非常にカルチャーショックの大きい国だった。

 「アラビア」とは「砂漠の国」という意味であり、アラブ人は「砂漠の人」。

 イエメンは変化に富んだ国、「石のアラビア」、「緑のアラビア」、「砂のアラビア」とは

よく言い表した言葉、正にその通りの国であった。

Happy Arabia 、「アラブ人の心の故郷」が理解できた思い出に残る旅だった。

 

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