旧ユーゴ 

スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・セルビア

 

旅行行程地図

2005.5.23〜6.5

 

 旧ユーゴスラビアは世界遺産にも多く登録され、風光明媚な所である。

バルカン半島の大部分を占め、戦乱が耐えることなく続いた国でもある。

 バルカン半島はさまざまな民族、宗教が交錯した。ここに6から7世紀に南スラブ民族が定住しユーゴスラビアとして成り立っていった。

中世以降はオスマン・トルコ、ハプスブルク帝国の支配下にあり、オスマン・トルコによってイスラム教が持ち込まれた。

 ユーゴスラビアとは『南スラブ人の国』という意味である。その国が1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国となり、1963年に社会主義連邦共和国になった。

1991年にスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、セルビア・モンテネグロそしてマケドニアの6カ国に解体された。

 旧ユーゴスラビアの民族はスロヴェニア、クロアチア、セルビア、ムスリム、モンテネグロそしてマケドニア。

宗教はローマカトリック、東方正教会、イスラム教。

言語はスロヴェニア語、セルビア=クロアチア語、マケドニア語からなり、文字もラテン文字とキリル文字からなる一つの国家だった。

民族、言語、宗教どれをとっても自分達の属性を思えば独立したくなる。

 

 

5月23日(月) 1日目

 

 10時30分発のオーストリア航空でウィーンへ。

飛行時間12時間の長旅、その後小型プロペラ機に乗り換え50分でクラーゲンフルトに到着。山に囲まれた美しい空港だ。 

ここから国境を越えてスロヴェニアへ向かう。

 スロヴェニアはカラヴァンク山脈の反対側に位置し、山の中の道は新緑が美しく残雪もある。

 今日の目的地ブレッドは静かな山間の町である。

 

 

5月24日(火) 2日目

 

 スロヴェニア共和国は四国とほぼ同じ面積、首都はリュブリャーナ。スロヴェニア人が90%を占め、後はイタリア人、ハンガリー人などで構成されている。

気候もアルプス型、大陸型、地中海型など変化がある。

歴史も古く、地域的にも変化に富み、中世の街並みが多く残る国である。

1991年6月に旧ユーゴスラビアから独立を果たした。

独立の際ユーゴスラビアが介入したが、国力があったため戦争は10日間で収束した。

 

 ブレッドは“アルプスの瞳”と称され17世紀頃からリゾート地だった所。ブレッド湖は国立公園にも指定され、絵葉書そっくりの景色である。

 

 ブレッド城は湖面から140メートルの断崖絶壁に建つ。1004年にドイツ王ヘンリー2世からブリクセンの司教に寄進されたもの。1514年一揆で破壊され、また1951年から1961年まで博物館にするため修復された。この城からの眺めは何処から見ても絵になり、ブレッド湖に浮かぶ小島は素晴らしい眺めである。

 博物館には紀元前2世紀から紀元後のコインが展示されている。紀元後になるとコインも金貨に変わっていく。16世紀ハプスブルク家支配のコインは、墓の埋蔵品や川底から出てきたもの。家具は寄木で木を刳り貫き、精巧に模様が施されている。

ブレッド湖から見る聖マリア教会とブレッド城

 

 手漕ぎボートに乗りブレッド湖のシンボルというべき小島に渡る。階段を上り聖マリア教会へ行く。

 聖マリア教会は8〜9世紀にかけて建設された教会、17世紀にはバロック様式に改築された。

 ブレッド湖に住む女性が夫の死を歎き、湖に鐘を投げ込み夫の蘇生を願ったが叶えられず、その後尼として一生を終えた。このような伝説からローマ教皇から鐘を送られた。鐘を鳴らすと願いが叶うという。鐘は天井からぶら下がったロープを引っ張るのだが、中々に重たい。

 ブレッド湖にはマスが泳ぎ、湖の青さとユリアン・アルプスの新緑が映えとても景色がよい。この湖を一言で言い表せば『静か』である。

 昼食後シャコヤ・ロカの町へ。

943年オットー2世がフレイジング2世に寄進した町。交通の要所だった地の利を生かし、町の収益を上げるため通行税を徴収した。ヨーロッパで2番目に古い橋も残り、町の中央広場は城壁で囲まれ14世紀に造られた5つの門があった。13世紀中頃には雇われ司教が政治を司った。職人の町としてのギルドも第二次大戦まで続いていた。

 シャコヤ・ロカ城は博物館になっており、館内には司教の肖像画、農耕器具、当時の生活用品などが展示されている。

 

 

5月25日(水) 3日目

 

 リュブリャーナはユリアン・アルプスから50キロほど離れた所に位置し、四方を山に囲まれたスロヴェニアの首都である。政治、経済の中心として現在に至っている。

神聖ローマ帝国、オスマン・トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれ、ハプスブルク家の支配下にあった。

元は城壁に囲まれた街だったが、18世紀にはオスマン・トルコからの侵略も無くなり城壁は取り壊された。街中は中世の街並みが残り、落ち着きと自然が一体となっている。

リュブリャーナ城から見る市街

 リュブリャーナ城は紀元1世紀に監視搭として造られ、城としては1144年に建立、何度か城主が替わりハプスブルク家の支配下に入った。

1905年に市に買収され今に至っている。

 リュブリャーナ城は人工の運河とリュブリャーナ川に囲まれている。

城内の階段は城の階段には珍しく広く緩やかである。

螺旋階段も上りやすく、ゆっくりと屋上を目指し上っていった。

屋上からは市内が一望でき、遠くにユリアン・アルプスが望まれ、新緑と統一された屋根がとても美しい。

リュブリャーナ川は鉄道が無かった時代、川が運搬にかかわりその中心だった所。

 コングレス広場はフランスの公園を真似て造られ、広場には道が十字に敷かれている。広場はローマ時代の墓の跡を発掘し、その後公園とした。

 1701年の大学は今はシンフォニー・ホールと大学の事務局として使われている。14の古い城の紋章が事務局の壁を取り囲んでいる。

 旧市街は15から16世紀に作られた三位一体教会、市庁舎などが立ち並ぶ。新市街と旧市街を結ぶのが3本橋、雑踏である。これはリュブリャーナ川に架かる橋で、元は1本だったのを歩行者用にと後から2本が付け足され今の形になった。

 ヴォードニク広場にはマーケットがあり、季節の花、野菜などが豊富に並んでいる。

 大聖堂の横にある門は6人の司教がキリストを見ている姿が彫られ、中に入るとフレスコ画が残っている。教会のドームは教会が出来た後、寄付が貯まった100年後に造られた。

 昼食後ボストイナ鍾乳洞に向かう。

 ボストイナ鍾乳洞は世界で3番目、ヨーロッパ一の大きさをほこり、1818年にはじめて調査隊が入った。約27キロメートル、10万年程前から側を流れる川の水が石灰岩を溶かして作られたもの。1ミリ伸びるのに30年もかかる。

ボストイナ鍾乳洞出口付近

スロヴェニアの観光資源の一つでたくさんの見学者が来ている。

鍾乳洞出口付近からは冷たくて気持良い風が出てくる。

 トロッコに乗り込むと猛スピードで鍾乳洞の中を走って行く。上から時々雫が落ち、垂れ下がった鍾乳洞に当るかと思うと上手くかわし疾走する。

鍾乳洞には夫々名前が付いており、途中電気まで消して案内してくれる。電気が消えると漆黒の闇である。スパゲッティというナの鍾乳洞は天井から細くひも状の鍾乳洞が無数に垂れ下がっている。

 水槽にはこの地だけの生物プロテウス・アンギヌスという類人魚がいる。地下深い所の生物で盲目、1年くらい食べ物が無くても生きられるという。見てあまり気持ちのいい生物ではない。それと人間の顔に似ているというがそうは思わなかった。因みにこの水槽の魚は4週間ごとに取り替えるそうである。これだけ多くの人間の声を聞き、見られておればストレスがたまるだろう。

最後にコンサート・ホールという所に出てくる。音響もよくここでコンサートが開かれるそうである。

 再びトロッコに乗り出口に向かう。出口に来るとよく風が通る。中には川が流れ、流木が一箇所に集まっている。

 

 鍾乳洞を後にし1時間ほど走ると国境である。国境への道は山と森と牧場が見え、ニセアカシアの花が咲く道である。

クロアチアに入るとアドリア海も見え始め、美景である。

200キロメートルを移動し、ポレッチに着いた。

 

 

5月26日(木) 4日目

 

 クロアチアの面積は九州の約1.5倍、首都はザブレブ。

 クロアチアは6世紀頃に南スラブ人が住み着き、スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ブルガリアの4民族へと発展していく。9世紀にはビザンチン帝国から派遣された宣教師によってキリスト教国になった。11世紀以後ローマカトリック地域となる。10世紀初頭にクロアチア王国として建国された。バルカン半島西部に勢力を拡大し、一時はビザンチン帝国に対抗する力を持った。

ハプスブルク家の支配下、ヨーロッパ文化を享受した。

アドリア海に面した都市は海洋貿易の中心として栄えた。また美しい景観は『アドリア海の真珠』といわれる。

 クロアチはスロヴェニアに次いで1992年1月旧ユーゴから独立をした。しかし海岸沿いの旧市街はユーゴ軍の砲火を浴び、破壊された。

 

 ポレッチはイストラ半島西岸に位置し、ローマ時代からイストラ半島の政治の中心として栄えた港町。ビザンチン帝国、ヴェネチア、オーストリア・ハンガリー帝国などの支配を受けた。

 デコマヌス通りはローマ時代からのメインストリート。デコマヌスとは10という意味で、通りに人が10人並ぶことができる。

市街に入ると四角い建物が見え、これが監視搭。ヴェネチア時代の紋章ライオンが彫られている。ここから貿易の中継地の名残の琥珀商の多い通りを抜けエウフラシウス聖堂へ行く。

エウフラシウス聖堂入口

 エウフラシウス聖堂の入口のモザイクは見事。

門には『私はドア、ドアの中に入ると神のご加護があります』というようなことが書かれている。そのご加護を貰うために中に入る。

 6世紀ローマ時代からビザンチン時代に移ったころに建立されたもの。

中は精巧な石膏細工が見事。

円柱の模様も1本ごとにデザインが替わり柱の材料はトルコから運ばれた。5世紀の洗礼盤も残り、見事な聖堂である。

 イストラ半島の伝統的な民家は石積みの家で、1階がワインセラー、2階が部屋になり木製のベランダがせり出している。今はギャラリーとして使用されている。

 ネプチェーン神殿は狭く小さい。言われなければ分からないようなローマ時代のフォーラムの跡。第2次世界大戦で破壊され、柱の石などは転がったまま。

 

 

 

 

 

 

ネプチェーン神殿跡

 昼食後プーラへ。プーラはイストラ半島の先端に位置し、造船、観光、港町として賑わっている。

プーラ円形闘技場

 円形劇場は紀元前1世紀にヴェスパシィアヌス帝により建設された闘技場。女囚たちが建設に携わった。

 3時という一番暑い盛りに円形闘技場の見学である。もう説明などどうでもいい、円形劇場も方々で見ている、コンサート会場になるのもあっちこちで聞いた、という感である。

地下に入るとさすがに涼しく一息つける。

ここはこの闘技場に運んだ動物用リフトが残り、ワインやオリーブオイルを入れたかめなどが展示されている。

 クロアチアはネクタイ発祥の地。そこで円形闘技場を首に見立て、ネクタイを締めギネスブックに登録したそうである。

 ネクタイはクロアチア兵が首に巻いた護符を隠すため首に巻いた布のこと。ネクタイそのものが魔除けと信じられていた。

 ここから今日の目的地オパティアに向かう道路は海岸線に沿って曲がりくねった道だが非常に景色のいい所である。見ていて飽きない景色である。道すがら道路脇に立っている女性がいる。彼女たち野生のアスパラガスを売っているのである。

 

 

5月27日(金)晴 5日目

 

 今日は今回のメインの一つプリトヴィッツェ国立公園である。

 プリトヴィッツェ公園は200キロ平方メートルの広さのぶなの森、中には16の湖が滝で結ばれた美しい公園である。公園内はプリトヴィッツェ川が流れ、コラナ川と合流するところが落差78メートルの大滝となっている。湖は石灰が堆積してできたもの。

1975年に世界遺産として登録され、クロアチア独立戦争のときの被害も大きく、一時は世界危機遺産になった経緯がある。

公園内の湖、川と滝

 公園内は豊かな自然が織りなし、名前も知らない野草があちらこちらと咲き、全部を歩くことなど出来ないと思っていたが歩き通すことが出来た。

 大きな湖はボートで対岸に渡り、遊歩道に沿って歩くのである。ボート乗り場には公園内にこれだけたくさんの人が公園に来ていたのかと思うほどの人が乗船の順番を待っている。

静かな湖面をすべるようにして対岸に着く。浅瀬には小魚が泳ぎ、ボートに伴走しているが水深が深くなると自然にいなくなる。

青い湖と若葉のコントラストの良さ、自然の美しさを堪能した1日だった。

もし珍しい野草に出会わなかったら、おそらく電気自動車のポイントでリタイアしたであろうと思う。

“牛に引かれて善光寺参り”でなく、“野草に誘われて歩き通すことが出来た。

公園内の珍しい花々

 移動中の景色は草原が続き見るからに良い牧草地に見えるが柵がしてあり、中にはまだ地雷が埋まっている場所である。こういう場所がいたるところに見え隠れしている。民家も銃弾を打ち込まれた痕跡も生々しく、廃屋も残っている。

セルビア人の多く住んでいた地区では、1991年の独立戦争当時セルビア人との対立も激化した。

 クロアチア人気質とは、首都ザブレブの住民は自尊心が高く他の都市の住民からは嫌われているそうである。またリストラ半島の住民気質は、クロアチア人としての意識は低く独立を望んでいるらしい。ザルマチア地方は本土と島に別れ、互いに嫌いあっている。島内結婚が多く血が濃いそうである。

クロアチアの南北では方言も違い言葉も通じにくいとか。北はイタリア語が出来、イタリア訛りだそうである。旧ユーゴスラビアは言語が違うが関東弁と関西弁くらいの違いで通じると聞いていたが。そしてみな働かない民族だそうである????

 

 

5月28日(土)晴 6日目

  

 シベニクに向かって出発。

車窓からの眺めはクロアチアで一番高い山ベルヴィッツ山を見ながら走る。ブーリャという北風が山脈にぶつかり雪を降らす。山にはまだ残雪が見える。山脈を越えると内陸性気候から地中海気候となる。

 午前10時半には気温はすでに29度に達している、今日も暑い一日になりそうである。

 山を越えたあたりからアドリア海が見える。かなり海岸線はギザギザと入り組んでいる。海岸近くまで家が立ち並び、今まで見てきた山と森と草原という景色とは異なる。

家はここも銃弾の痕が残り、紛争から10余年経っているがここが戦場だったところと感じる。

 

 シベニクはアドリア海のほぼ真ん中に位置し、クルカ川がアドリア海に流れ込み、表面下1,5メートルは淡水、その下が海水になっている。

 11世紀に出来た中世の街並みが多く残る町である。16世紀に出来た4つの城壁がある。2つのメイン通りがあり、傾斜のある町。ヨーロッパで最初に電気が通った町でもある。

 15世紀の聖ジョン教会は古い石造りの教会で、彫刻の顔はどこか東洋的である。階段の手摺にライオンの彫刻があるが、これはヴェネチアの支配下にあったということ。貝もまた特徴となっており、貝は当時の人が貝を持って参拝したことから彫られた。

 通りを歩いているとショーウインドウにや窓ガラスに花を飾っているのを見かけた。これはキリストのお祭りのときの飾りが残っていたということ。

 階段を降りた広場にある大聖堂を取り巻く顔の像は夫々に個性があって面白い。

だが残念ながらこのあたりの記憶が欠落している。ただ覚えているのは自由時間が出来、暑い中を歩く気もせずカフェでジュースを飲んだことだけ。

 山の斜面にはエニシダが咲き、眼下には真っ青な海と赤い屋根、まるで絵に描いたような景色である。

 トロギールは6世紀にスラブ民族が入植し、スプリット司教の支配下だった。その後ヴェネチアの支配に変わった。

本土とは橋で繋がり、人工的に造られた島である。人口はわずかに1000人程度。造船と観光業が盛んなところ。

 バスは本土側に駐車し徒歩で橋を渡ってトロギールに入る。土産物屋が多数並んでいる。

トロギールの港にはヨットが係留されている

 今から400年から500年前のヴェネチア統治時代の細い石畳の道が曲がりくねって港へと続いている。

 チピコ邸は16世紀の有力者の邸宅。中に入るとチピコさんのシンボルマークのニワトリとヴェネチアのシンボルマーク、ライオンが壁にかかっている。

 聖ロヴロ大聖堂は1997年世界遺産に登録された。

下の部分はロマネスク様式、うえはゴシック様式で出来ており、外部はロマネスク様式である。

ジョン聖人の棺が置かれ、天井には神様が逆さまに顔を出している絵が描かれている。壁面には王族の戴冠式の様子が描かれている。

 ロッジアは裁判所。四角いオープンな建物で壁には裁判長が秤(公平さを意味する)を持って彫刻されている。

 港にはヨットが係留され、ヴァカンスに備え掃除をしたり、荷物を運んだりしている。

 15世紀オスマン・トルコの侵略に備えて造られたカメランジュ要塞を見、もと来た道を帰る。細い道を歩いていると『For sell』の看板が出た家がある。その中の一つが400年前の司教の家。この家を買っても新築以上にお金がかかるだろう。外壁には当時の司教のプレートが貼られ、街並みに合わせた改造は難しいだろう。街並みはヴェネチア時代の風情が残り、旅人には良いが果てさて住民となるといかがなものだろう。

 私だけではないが今日は気温も33度と暑く、暑さに体がついていかず多くの人は腰掛ける場所があると座り込んでいた。

 

 

5月29日(日)晴 7日目

 

 スプリットは古代都市が残る港町。旧市街にはディオクレティアヌス宮殿があり、この宮殿内に民家が建ち並ぶという珍しい宮殿がある。この史跡郡も1979年に世界遺産として登録されている。

 ローマ皇帝ディオクレティヌスが、3世紀に生まれ故郷近くのここに宮殿を築き住んだところ。

7世紀にスラブ人が侵攻し、そのとき住民が宮殿内に逃げ込んだのが始まり、このまま宮殿内で生活している。後にオスマン・トルコに攻められたときも同じ。

 宮殿はゆるい傾斜面に建設され、正門の南門から地下に入る。ローマ時代は南門はアドリア海に面し、すぐにアドリア海に漕ぎ出すことが出来た。満潮時は南門に海水が入るため木の渡しが中2階に付けられていた。木材は松の木。

地価には地下室独特の匂いと冷んやりとした空気が流れている。一番広い部屋は宮殿の図書室を支えるため8本の太い柱がある。この地下部分は1960年に発見された。

 5世紀ごろまで北アフリカ、イギリス、フランス、イタリアまで領土を拡大したが6世紀頃になると外敵が押し寄せるようになった。

一番立派な北門(金門)は奴隷兵士の住居跡だが今は商店に改築され、店が並んでいる。

当時の石の階段を上りぺリスティル広場に出る。この広場にあるのが大聖堂。

 この教会の8本の円柱は当時のもの。素晴らしいのは円柱に彫られたアーカソンスの葉の彫である。細かいところまで彫られている。柱1本彫るのに1年を要した。

 

 コルチュラ島に渡るのだが肝心のフェリーが遅れている。

港近くでフェリーを待つのだが、通りに面したところで腰を掛け道行く人をウォチャーしていると実に面白い。腰掛けたのがレストランの前、ここの掃除のおばさんが実にかわいい。トイレを借りるべく中に入るとすっ飛んできた。何がしかのお金を払うと手拭用に紙ナプキンを用意してくれる。そしてニコニコ顔である。また通りに戻ると観光シーズン間近、店主がオープンカフェにするためガラス戸を開ける準備をしている。冬の間の埃がたまり上手く開かない。そこへおばさんが箒を持って店主となにやらやり取りをしながら掃くのだが店主は気に入らない。「やっちゃおられんよー!」とばかりにニヤーと笑いかけてきた。その表情がまことにユーモラスである。背が低く赤い服でちょこまか動くのである。見ているだけで面白い。いらだつ店主の負けである。

 道行く人は口を真一文字に結び、両手には重たそうな荷物を持って歩いている。若い人は楽しげに笑い興じている。ここはフェリー乗り場の近く、夫々の人生があるのだろう。

 1時間遅れでフェリーが到着し、3時間の船旅である。8時ごろにコルチュラ島のベル・ルカに到着。フェリーからバスが出てくるのを待ち、ここから1時間余りバスに揺られホテルに着いた。

 

 

5月30日(月)晴 8日目

 

 コルチュラ島は人口1万6千人、クロアチアで6番の大きさの島である。

旧市街は町の中央を魚の骨のように道路が敷かれている。これは風が上手く通り抜けるように工夫されたもの。

又マルコ・ポーロの生家がある。マルコ・ポーロはヴェネチア人といわれているが、ここもヴェネチアの支配下にあったのでそのように言われているとのこと。

 朝6時になると教会から澄んだ鐘の音が聞こえ窓から見る景色は良い。山は緑が少なく白い岩肌が露出し、海岸線が近づくにつれ緑も多くなる。

海に面して城砦が残っている。

 

 昔からギルドが多く、イコン博物館は船員ギルド(1301年に建設)の建物。14世紀から17世紀のイコンがギリシャのプルート島から船員のギルドが持ち帰ったもの。

 廊下を渡ると13世紀の諸聖人教会へと繋がる。教会内には木製のピエタ像、天井画があり、また多くの蝋燭が飾られている。諸聖人の巡礼のときは重さ80キログラムの大きな蝋燭を町一番の美しい男性が持って行進する。

 マルコ広場は町の中心部、町の有力者の家が3軒並んでいる。家の構造は1階が店舗、2階が居間、3階がキッチンになっており、当時は水不足から火が出ても3階だけで被害が済むようにとのこと。

 司教の館は宝物館になっており、13から18世紀の司教の服、コインなどが展示されている。

マルコ・ポーロの生家

聖マルコ広場に建っているのが聖マルコ大聖堂。200年の歳月をかけて建設された。2本の円柱は聖人をあらわし、デザインは違う。ティトレットの3聖人、受胎告知の宗教画が展示されている。

 細い坂道を下っていくとマルコ・ポーロの生家があり、家の外観だけを見て海岸へ行く。狭い坂道はどこから見ても写真に撮りたくなるような佇まいだ。

 ペリュシャッツ半島からフェリーに乗りオルビッチに向かう。30分で着く近い距離。紺碧の海原に浮かぶ島を見ながら、同船しているセルビア・モンテネグロの子供たちを写真に撮る。子供たちにデジカメの画面を見せると屈託なく笑い、この子たちの笑顔からは悲惨な戦争の影はない。いつまでもこの子達の笑顔が続く世であって欲しい。

フェリーからコルチュラ島を見る

ストーンの町の城砦跡

 途中ストーンの町で小休憩。ここは塩田、貝の養殖、ワインが有名。

1333年に築かれたオスマン・トルコの城砦が山の上へと延びている。世界で2番目の長さがあり、中世はドブロクニクの支配下にあった町。

塩は当時非常に高価なもので金より価値があり、その塩を守るため城砦が必要だった。城砦を歩くことも出来たがとてもじゃないので日陰を探し遠

目に見ただけ。あちらこちらにタマリスクの花が風に揺らいでいる。乾燥してよく育つのだろう、みな大木である。

 ドブロクニクに向かって走っているのだが、途中トラステナという村の樹齢400年というスズカケの大木を見る。13人が手をいっぱいに伸ばして幹を取り巻きことが出来た。洞も大きく何より木の枝の張りがすごい。コンクリートの柱が枝を支えている。若葉の中にスズカケの青い実がぶら下がっている。

 

 

 

スズカケの木

 斜面には黄色いエニシダが咲き、松林が続き、夾竹桃のピンクの花が咲き、アドリア海の湾が見え、大小の島(1200)が点在する素晴らしい景色である。島が幾重にも重なりその波間に白いヨットが浮かんでいる。

5時半ごろにドブロクニクの新港が見え、新港の桟橋にはオランダ・アメリカラインの大型客船『ロッテルダム号』が停泊してある。

ドブロクニク、アドリア海の真珠に到着である。

       新港に停泊中のロッテルダム号

 

 

5月31日(火)晴 9日目

 

 ドブロクニクはクロアチアの最南端に位置し、『アドリア海の真珠』といわれクロアチアが誇る観光地である。

紀元後7世紀ごろカルマクから逃れてきた難民によって作られた町である。15から16世紀にはヴェネチアと並ぶ海洋貿易港として発展した。

旧市街の城砦はヴェネチア、オスマン・トルコに対抗するために築かれたもの。

 1979年に世界遺産として登録されたが、1991年からの独立戦争時には旧市街もかなり破壊され、「危機世界遺産」リストになった。いまは80%修復が進み「危機世界遺産」リストからはずされた。

ドブロクニク旧市街は城砦に囲まれ、新市街はスルジ山の裾野に広がる。

 ドブロクニクの城砦の西の門ピレから中に入ると200メートルほどの目抜き通りになり、土産物屋、カフェが軒を連ねている。

ピレ門は16世紀に建てられた跳ね橋で結ばれている。

 門をくぐってすぐにあるのがイタリアの建築家が造ったオノフリアの噴水。当時は水の確保が難しかったため市民の飲み水としていた。

ここから始まるのがドブロクニクの全長200メートルのメインストリート、元は海に面していたが埋め立てられ半島と繋がった。

 通りの突き当りを左に入ると14世紀に建設されたフランシスコ修道院がある。回廊には60本の円柱が2重構造に建っている。修道院にはヨーロッパで3番目に古い薬局がある。そのときの薬局はそのまま残し、同じフロアーで修道院が今も薬局を経営している。市民が処方箋をもって薬を受け取っていた。

修道院が出来たころの薬局はお金をもらえないので魚、野菜などと物々交換をしていた。

中は薬学博物館になっており、古い処方箋、薬壷などが展示されている。

聖人の骨も展示されている。聖人の骨がなければ教会を造ることが出来なかったので聖人の骨は高値で売買されてそうである。この修道院は聖バホロバの骨。今も6人の修道士が生活している。

 ルジャ広場の時計は15世紀に建設され、その後何階か修復されている。時計塔の横にある鐘が鳴ると当時の人は情報を得ることが出来た。これは新聞が無い頃のことである。広場には市庁舎、聖ブラボ教会が並び、スポンゲ宮殿がある。この宮殿スポンジのように水を溜めることからこの名がついた、元は造幣局の建物。

 広場の中央に立っているオルランドの騎士像は肘が定規の目安として用いられた。肘の長さは51,2センチある。

 旧総督邸、大聖堂などを見て旧港へ。世界最古の検疫所がある。ドブロクニクへ入るには検疫を受けないとは入れなかった。これはペストの大流行を防ぐための処置。

 午後から船に乗り城壁の周りを遊覧した。船からの景色はまた違い、スルジ山を背景にしたドブロクニクを見ることが出来た。松林の中に糸杉がまっすぐ伸び、静かな街並みである。

沖合いのロクラム島の一部がヌーディストの海岸で、気持ち良さげに日光浴を楽しんでいる姿が見えた。 

遊覧船から見たドブロクニク

ドブロクニクの検疫所

 城壁へ上がる階段はきつい!息を切らしながら階段を上がり、アドリア海の真珠というべく紺碧の海の遠く近くの島を見、旧市街を見る。家の屋根も新しい瓦を葺いている家、すでに葺き終わった家、銃弾を受けたそのままの家などいろいろである。戦争がここにはあったというのが現実のものとしてある。

城壁を一周するのに約1時間、2キロメートルの距離である。

ドブロクニク城砦から見た景色、城砦の一部と綺麗な海 ビューポイントからの夕日

 

 

6月1日(水)晴 10日目

 

 今日は国境を越えてボスニア・ヘルツェゴヴィナへ移動である。

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナは海岸線が10キロメートル、港が無い。国土の中央にディナルアルプス山脈が走り、北部をボスニアが、南部をヘルツェゴヴィナが占め両方を合わせた国名だ。カトリック、セルビア正教そしてイスラム教が文化の衝突となり戦火を生じた。三民族が共存し仲良く暮らしていたが、紛争が1995年まで続き問題を残している。

 400年前オスマン・トルコに支配され、その後オーストリアの支配下に。支配する国が変わっても農民の暮らしは良くならなかった。1974年オーストリア皇太子の暗殺事件が起き、第一次世界大戦へと突き進んでいく。

 アドリア海に面したクロアチアの半島の反対側がボスニア・ヘルツェゴヴィナになるが、国境線が入り組んでいるため一旦入ったボスに側から再びクロアチアに入り、改めてボスニアに入る。

 眼下に見える農園は縦横に水路が張り巡らされているデルタ地帯。農作物が風に揺れている。

川の流れに沿って走っているのだが、海から川を使って物資を運んだ名残の城砦が所々に見えている。川の水は非常に綺麗。進行方向にはサクランボが実を付けている。

時々空き地があるのだがまだ地雷が埋まっているそうだ。

モスタルのシンボルの橋

 朝7時過ぎに出発し、11時40分ごろにモスタルに着いた。

 モスタルはネレトヴァ川が流れ、川に築かれた石橋がこの町のシンボル。

オスマン・トルコ時代に出来た橋だが1993年のセルビア戦争で破壊された。2004年にユネスコの援助のもと修復され優美な景観を取り戻している。

 橋の上には若者が飛び込みを見せて旅人からお金を貰っている。彼らの目標額に達しないのかなかなか飛び込まない。川原からはやいのやいのと飛び込みを急かす拍手がしている。私たちも早く見たいのだが飛び込まない。しばらくすると別の若者がペットボトルの水を体にかけ、橋の欄干にたった。飛び込んだ。一瞬の間である。しかし川の水が多くなければ危険だろうと思った。川の流れは青く清流である。

 橋の東側がムスリム人、西側がクロアチア人の居住地として破壊されるまでは共存していた。戦争のため悲劇が生じたが、橋の修復とともにまた交流が始まっているという。

戦争で破壊された建物

 戦争時は外国からの傭兵も多数来て戦った。スペイン広場はそのときスペインから来た傭兵が亡くなったのを記念する広場。

 クロアチア人地区の教会の鐘楼は少しでも天国に近づけるようにと高くしてある。

 丘の上に十字架が立っている。ここからクロアチアの戦車が下りてきてモスタルのシンボルの橋を破壊した。

ムスリム人を皆殺しにしようとしたが失敗した。しかし一日3000人にものムスリム人を殺戮した。ムスリム人居住区の住居は破壊され、残骸が無残な廃墟となっている。廃屋の中には草木が茂り戦争の虚しさが伝わってくる。

モスタルの公園は一つを残し墓地になったという。

イスラム色の濃い通り

 ムスリム人地区はオスマン・トルコの影響を受け、がらりと雰囲気が変わる。

 昼食もムスリム人地区のレストランでイスラム風の食事を摂った。

モスタルを後にサラエボへと向かう。

 サラエボはボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都。

サラエボは5つの丘からなり、夏は暑く冬は寒い。

カトリック、セルビア正教、ユダヤ教、イスラム教と宗教、文化が混在した街である。

 市内に入ると銃弾の痕の残る建物、老朽化した高層アパートが目立ち、戦争がこの間まであったということを語りかけている。

 国立博物館の庭には3000種の植物が植えられている。これは終戦後平和の象徴として各国から贈られたもの。博物館はヨーロッパの寄付で修復された。

4つの建物からなり、見学したのは19世紀オスマン・トルコ支配下の家庭を再現した民俗学部門の建物。天井部分の装飾、家具などイスラム文化が見事に再現されている。

 市外はオーストリア・ハンガリー帝国時代の建物が多く残り、立派なシナゴーグの建物などが残っている。国立図書館は外から見たのだが、建物は銃撃を受け窓は板を打ち付けられた無残な姿。

 パシャルシャは旧市街にあり、キャラバン・サライの跡はレストランに、通りは中東の何処かにいるような雰囲気が漂う。

ガレー長官のモスク、ここは14世紀に建設されたモスク。セルビア戦争時は60発の爆弾が投下され、モスク内も破壊されている。

 ラティンスキー橋は1914年6月28日に起きたオーストリア皇太子暗殺現場。一見すると市民が通るごく普通の橋である。セルビア青年によって起きた事件がやがて第一次世界大戦の引き金となった。事件現場の橋も歴史の舞台に踊り出た後はひっそりとし、何事も無かったかのようである。

 

サラエボ事件現場になったラティンスキー橋

 その後車窓からセルビア人居住区、オリンピック競技場跡などを見て今日は終わり。

 

 この国の国民性は働くことを嫌うため国の発展が難しかった。資源が無い国では人材が資源だと私は思うのだが。私の印象は少しセコイ。

 大統領は三つの連邦が選出した三人の大統領が8ヶ月づつ交代で4年間任期を務める。

 車のナンバーも地区コードを入れるといさかいの元のなるのでナンバーだけの表示。

 独立戦争時サラエボは旧ユーゴスラヴィア連邦に出口を封鎖され、食料などの物資の確保に苦労した。空港にある援助物資を手に入れるためトンネルを掘り、居住区まで運んだそうである。

 

 

6月2日(木)晴 11日目

 

 セルビア・モンテネグロはバルカン半島の中央に位置する。首都はベオグラード。

ベオグラード近辺は紀元前から各民族により土地争いが絶えなかった。6世紀以降はバルカン半島に委譲してきたスラブ民族に占領された。

 セルビア人もスラブ民族の一民族で、当初はビザンチン帝国、ブルガリア王国によって支配された。その後セルビア王国が成立し、一時は黄金時代を迎えたが14世紀にオスマン・トルコの支配下に入る。

 1945年ユーゴスラヴィア人解放軍が生まれ、バルチザン運動により社会主義体制のユーゴスラヴィア連邦共和国が誕生した。1963年にユーゴスラヴィア社会主義共和国に改称された。1991年の崩壊後セルビア共和国とモンテネグロ共和国とで新ユーゴスラヴィア連邦共和国となる。1999年3月から3ヶ月間コソボの自治権をめぐる紛争が起き、NATO軍の攻撃で国土は破壊された。

2000年9月ミロシュビッチ大統領は「市民革命」によって13年間の権力政権から負われた。2003年2月に今までの連邦制をセルビア共和国、モンテネグロ共和国の連合国家体制へと移行し、セルビア・モンテネグロと国名も変わった。

 今日はサラエボ、ベオグラード間約320キロメートルの移動日。国境まで100キロメートル、そこからベオグラードまでが230キロメートル。

 イスラム教、キリスト教の混合墓地、高台から景色を見て出発する。

一旦クロアチアに戻り、そこから改めてベオグラードに向かう。

 ボスニアの国土の多くが森林、走る道も緑のトンネルである。

渓谷があり見る景色は非常に美しい。

 12時ごろ国境に着く。パスポートを渡し許可を待つ。ガイドがカバンに2本のワインを忍ばせて手続きに行く。これが効いたのかどうか30分ぐらいの時間がかかった。これは30分で済んだのか定かでない。チェックを終わってパスポートを渡しそうにしながら再び中に入って行く。そこでワインのお土産と相成ったようである。国境の税関付近では学生風の子供が通行許可証のようなものを見せている。行きかう車も同様でたまにはトランクを開け、持ち物検査を受けている。

 ある日突然に国境が敷かれてしまえば学校と住居、職場と住居、親兄弟と国が違うということになるだろう。だから日常的なことなのだ。

 国境を越えると今までの森林地帯とは一変し、平野が広がり、畑も広く農家が点在している。庭には今を盛りにバラが咲き、ボスニアに比べると少しはは受ける豊かな感じがする。

だがセルビアにはいまだにマフィアが暗躍しているそうである。

 走れども走れども目的地に着かない。トイレもしたいしお腹も空いてくる。

やっとベオグラードに到着し、レストランへ。もう3時40分になっている。

 

 ベオグラードは沼地をチトー大統領が埋め立て住宅地にしたが、今は老朽化した高層アパートが目立つ。市電が走っているが電車の車両も古い、新しい車両は日本の援助の車両で日の丸のマークがついている。

ファッションは今風で美形が多いが、街がなんとなく社会主義の名残か何処か薄汚い。

 

 

6月3日(金)晴 12日目

 

 ベオグラードはドナウ川とサヴォ川に挟まれ、バルカン半島の交通の要衝。人が住み始めたのは紀元前4500年前ごろからで、紀元前4世紀ごろにはケルト人が、その後もローマ人、スラブ人と続き、さまざまな文明が築かれた。

長い歴史があるにもかかわらず歴史を忍ばすものは残っていない。これは交通の要衝が先頭の舞台となり、破壊を繰り返した結果で因果である。

 

 市内を車窓から見学。

成功した会社は近代的な社屋である。

1999年アメリカが誤爆した中国大使館の建物はそのまま放置されている。

ベオグラードは現在土地不足だそうだ。皮肉なことに一番地価の高いところにスラム街のような一角がある。ここがコソボ難民が住んでいるところ、非常に劣悪な住環境である。ゴミがうずたかく積みあがり小山をなしている。

 

 旧ユーゴスラビアのチトー大統領の墓所は植物園の中にある。国民からの贈り物、各国からの贈り物が展示されている。なぜか建物は撮影禁止、展示物はOKという。

国民からの贈り物で手の不自由な青年が作ったという石の楽器、チトーの人生が甘いものになるようにと砂糖を入れたボンボンが付いたソックスなどが展示されている。日本からの着物もだらしない着付けで展示されている。

チトーの奥さんは毎年命日に墓参りに来るが住まいは秘密だそうだ。

外観が出来上がった聖サヴァ聖堂

 聖サヴァ聖堂は世界一大きなセルビア正教の教会。18のドームと49の鐘があり、外観は去年出来上がったが内部はまだ工事中。埃と騒音で1分も中には居れない。

外観は白い壁に緑のドームと美しい教会である。

 市庁舎、共和国広場、国立博物館を車窓から見、2重の城壁に囲まれたカレメグダン公園へ。

公園内は戦争博物館があり、戦車、銃火砲などが並ぶ。中には中世から第二次世界大戦までの武器が展示されている。

 公園から見るベオグラードの景色はドナウ川が流れ、緑も多くここが幾多の戦禍を受けたところとは思えない。

 

 

 

 

ベオグラードを流れるドナウ川

 

 15時25分発の飛行機でベオグラードを後にしウィーンへ向かう。

6月1日にドブロクニクを出てから毎日国境を越えて移動である。

 

 

6月4日(土)晴 13日目

 

 午前中少しの時間だがウィーン市内へ。

ステファン教会などを見、日曜日と朝が早いので店がしまっているところも多くそれでもチョコレートなどを買ってぶらぶら歩きを楽しんだ。

 

 13時55分発の飛行機で帰路につく。飛行距離9014キロメートル、飛行時間11時間15分の長旅。

満席である。これだけ多くの人が何処かを旅し、ウィーンに集まり関空に帰るのである。

 

 

6月5日(日)晴 15日目

 

 定刻8時5分に無事関空着。

やれやれ無事旅が終えました。

 

 

 

旧ユーゴスラビアについては知り合いの方々は皆風光明媚なところで行く価値のある国々と聞いていた。なるほど季節もよく黄色いエニシダが咲き、目を楽しませてくれた。

 スロヴェニアのブレッド湖の景色は美しすぎるといっても過言ではない。私はドブロクニクよりも今回一番良かったところと思った。

 クロアチアではプロトヴィッツェ国立公園の散策と多くの美しい野草に出あえたことは嬉しかった。

 戦争の傷跡をどこの国も残し、いまだに地雷などが埋まり、銃弾の残った家に住み、廃屋となった家々を見るとやるせない思いになる。

 

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