イイ女 1


「Take Five」の5ビートが軽快に流れている。

開店以来、ずっと馴染んできたオーク材のカウンター越しに、すでに還暦を終えた白髪のマスターが、手際よくグラスを磨いていた。

私がここへ初めて来たのは25のとき、もうずいぶんになる。

色とりどりのボトルが並ぶ、どっしりとした棚をぼんやりと眺める、このひとときがたまらなく好きだった。

そして実にいいタイミングでマスターが喋りかけてくる、まさに「あ、うん」の呼吸とでもいおうか、彼は、私の大切な友人なのだ。

ここには私の青春がすべて詰まっている、楽しいときも、つらいときも、ここへ来て、私は自分を見つめてきた。

そしてそれはもちろん、マスターの存在があればこそ、どんなときでも、同じトーンで話しかけてくれる彼は、それだけで有り難かった。

「マスター」

私はグラスを目の高さに持ち上げ、目尻に皺を寄せながら、かちゃかちゃと小さくなった氷塊を打ち鳴らした。

彼は目だけで笑い、背中を向けると、コニャックのボトルを棚から取り出した。

とくっ、とくっ、と、心地よい音をたててボトル内の空気が小さく破裂し、琥珀色の液体からはみ出した透明な氷山から、かすかにもやが立ち登った。

新しいグラスと入れ替える際、マスターはちらっと灰皿に目を向けた。

「今日は、吸わへんの?」

私はちろっと舌を出し、包み込むような笑顔をしているマスターを見つめた。

「もうやめようかな、ってね」

「ほほう、またなんかあったんやね、今度は、どんな恋をしたんかな?」

私はボトル・キープをしない。

これだけ多くの銘柄が揃っているんだから、次々といろんな味を楽しみたいと思うからだ。

そのかわり、タバコをキープしてもらっている。

ここでしか吸わないのだ、それは、ここへ来るようになってから始めたことだ。

タバコの銘柄もお酒と同様、マスターにすべてお任せである、いつも見たこともないようなパッケージを、私が座ると、すっ、と差し出してくれる。

「マスターってさあ、そんなふうに訊いてはくれるけどぉ、なぜかそれ以上のことは訊いてこないんよねぇ、たったの一度も」

不思議なイラストの描かれたタバコのパッケージを、手元で転がせた。

「それでもこうやって十数年も来てくれてる、それでいいってことやないかな」

妙に納得、たしかにそうだ、訊いてこないから、かえってよかったのかも。

「まるで仙人と話してるみたい、私の心が見透かされている感じなんよね」

「まさか、僕にそんな力はないよ、きみは大切なお客さん、それだけ」

「それだけなん?あそこにも、あそこにもいてるお客と、同じってわけ?」

からからから、と、小皿にピスタチオを入れて、私の前に置いた。

「とんでもない、ちゃんと言うたで、大切な、ってね」

パッケージを破り、私は一本取り出して、口に銜えた。

すかさず、マスターがライターで火を点けてくれる。

「やっぱり、やめられへんみたいやね」、マスターは笑った。

「ふふふ・・・じゃあ、ほかのお客さんは大切やないってわけ?」

「いいや、大切やで」

「そんなら同じやん、マスターって、おもしろいこというね」

そのとき、私の座っているカウンターのずっとむこうにいる若いアベックの男のほうが、遠慮がちにマスターを呼ぶ声がした。

マスターはいつものように無言で、そのアベックのほうへ行き、注文を訊く。

「・・・余計なことは言わぬが花、ってことか」

ちらっ、とマスターがこっちを振り向き、いかにも愉快そうに微笑んだ。

カクテルを作るマスターの背中をぼんやり眺め、私はため息をついた。

17年前か・・・

マスターはあれからちっとも変わっていないように見える、私は、どうなんだろう・・・

「俺はいつものやつ、彼女にはカンパリを作ってやって」

退屈なOL生活に飽き飽きしていたあの頃、私は、魔が差したのだろう、たいしてうだつのあがらぬ風体の課長に誘われるまま、夜の街を引っ張り回され、

ホテルでひととおりのことを済ませたあと、ここへ連れて来られた。

「ええ雰囲気やろ?このジャズがなんとも似合ってるっていうか」

たしかに気に入っていた、こんな世界があるなんて、ぜんぜん知らなかった。

「いま、流れているのがな、サウンド・オブ・ミュージックや」

私は、げんなりした。

これは「My Favorite Things」、たしかにサントラ挿入曲には違いないが・・・

「吉田さん、今日は一輪の花が、ぴったり横にいてはりますな」

「うちの社員や、香山清恵さん、なかなかかわいいやろ?」

うそつけ・・・私はそう思った。

やせぎすで、おっぱいもぺちゃんこ、顔だってぜんぜん自信がない。

そんなひねた性格が服の好みにも表れていて、いつも地味なものばっかり。

うちの会社は、若いOLが長続きしないという伝統がある、たいてい2,3年で辞めていく、理由はもちろん、結婚だ。

そんななか、あぶれてしまったオールド・ミスに私が混じっていたわけで、かろうじてその中では最年少だったから、この課長に目を付けられただけ。

それでもいい、私はそう思っていた。

この息苦しい日常を少しでも変えることができるなら、先のことなど考えず、アバンチュールに身を投じてみたい。

課長はいかにも遊び慣れたジゴロを演じていたが、それはかなり無理があった。

その証拠に、セックスのとき、彼のものはほとんど役に立たなかったのだ。

極度の緊張のせいだろうが、察するに、これが初めての浮気だったのだろう。

私は中途半端な心の高ぶりをもてあまし、イライラしていた。

「ごめん・・・いつもは、こんなことないんやけどな」、彼は、ベッドでそう言った。

謝らないで欲しかった、私だって、それなりに男性経験はある、緊張でうまくいかなかったのなら、素直にそう言ってくれればいい。

「清恵ちゃん、けっこういける口なんやな」

この人のひとことひとことが、私をいらだたせていた。

25にもなって、さんざん会社のくだらない宴会にもつきあわされてきたのに、お酒のひとつも飲めないわけがないだろう。

ふと、私は視線を感じた。

マスターだった。

私と目が合うと、マスターはにっこりと魅力的な笑顔を残し、そのまま別のお客さんのほうへ行ってしまった。

私は、このマスターに自分の心を読まれたような気がして、どきどきした。

なぜだろう、初老の男性にこんな目で見られたのは初めてだ。

父親のそれとも違う、身体だけが目的の男の視線とも明らかに違う、不思議な、あったかいオーラに包まれるような、心地よい感覚・・・

課長は、私の横でいろいろと会社の愚痴をこぼしていたが、それには注意を払わず、私はひたすら自分の世界に入り込んでいた。

ここの持つ、なんとも形容しがたい包容力に、私は心を奪われていた。

「どうしたん?もう眠くなったんかいな、ほなら、そろそろ帰ろうか」

おおかた、帰宅が遅くなって奥さんの機嫌が悪くなっては大変、とでも思ったのだろう。

課長は勘定を済ませ、私をまるでペットか何かのように引っ張ると、さっさと外に連れ出していった。

私の魂は疲れ果て、いろんなことが一度に頭を駆け巡った。

タクシーを止めると、課長は私の腕をつかみ、車内からひきずり出した。

「今度、また俺と会ってくれるか?」

私は、返事をしなかった。

「次は、うまくいくと思う、そやから・・・」

課長の顔が覆い被さってきて、私の唇を執拗にむさぼった。

抵抗することもなく、私はされるままになっていた。

「いらっしゃい・・・やっぱり来たね」

この人の笑顔は、人の心を溶けさせるパワーがある。

「そんなふうに言われるのって、なんとなく腹が立つぅ」

私は、心にもないことを口走っていた。

言ってしまってから後悔したのだが、マスターはわりと平然としていた。

「とくに飲みたいものが決まってないんなら、僕が見立てるけど、それでいい?」

「そうしようかな、こんなにいっぱいあったら、全然わからんもん」

にこりと笑い、マスターは果実がまるごと入ったボトルを一本、取り出した。

「この実な、どうやってここに入れたか、わかるか?」

とても注ぎ口からは入れられない大きさ、私は、しばらく考えた。

「・・・わかった、まだ小さいうちに、枝についたまま、ボトルに入れてたんやね」

「ご名答、ようわかったね」

とくとくとくっ、と、その不思議な飲み物が、きれいなグラスに注がれた。

「これは、僕とおんなじや、ボトルがこの店、果実がこの僕なんや、この店で大きく育ち、お客さんの満足する顔を見たくて、エキスを出してる」

ぷっ、と笑い、私は言った。

「ホンマや、うまいこと言うもんやね」

「つまり、死ぬまでこの店とつきあうってことや、僕には外の世界はわからん、ただひたすら、このボトルに入れられたお酒を熟成していくだけ」

その熟成された甘美な口当たりを、私はじっくり味わいたいと思った。

「マスターらしいね、うまいこと言う」

「もうひとつ、お酒っていうのはね、音楽をちゃんと理解するんや、上質な音楽を聴かせて育った酒は、熟成の仕方もひとあじ違う」

「ジャズのことやね、私、そんなに詳しくないけど、なんか好きになりそう」

目尻に深い皺を寄せ、マスターは最高の笑顔を見せてくれた。

私はさしづめボトルには入れられなかった、枝にぶら下がったままの果実、いつかもぎ取られ、誰かの口に運ばれる、あるいはそのまま誰の目にも止まらず、朽ち果てて地に落ちるだけかも知れない。

それを考えると、ボトルに入れられこうして大きく育った果実はしあわせだ、まず間違いなく、誰かの喉を潤すことになるのだから。

「マスター、タバコ、あります?」

「ありますよ、何になさいます?」

私は、高校以来、気が向いたときだけタバコを吸うことにしている。

今夜は、なんだか吸いたい気分だった。

「なんでもいい、任せるわ」

差し出されたのは、フランス製のジタンだった。

「どうぞ、あなたに似合いそうだと思ったから」

あまりおいしいとは思わなかったが、この際味なんてどうでもよかった。

それでもたてつづけに3本目を灰にしていたとき、カウンターの向こうで男性客がマスターに噛みついているのがわかった。

「そのくらい、してくれたっていいだろ?」

「申し訳ありません、ここはそういうことをしないもので」

やがて諦めたらしく、その男性はスツールから腰を下ろし、真っ直ぐに、私のほうに向かって歩いてきた。

びっくりして、私はあわてて知らんふりをした。

「失礼します、できたらご一緒に、いかがですか?」

相変わらず、マスターは溶けるような笑顔でこっちを見ている、品のいいスーツ、きれいに撫でつけられた髪の毛、

私は、ひとときのアバンチュールのつもりで、彼の誘いを承諾した。

自分のグラスを片手に持ち、彼は私の隣に座り込んできた。

「僕になにか、おごらせてください、なにか、好きなものは?」

それには答えず、気になっていたことをぶつけてみることにした。

「さっき、何をもめてたんですか?」

「きみにカクテルを渡して欲しいって頼んだんですよ、そうしたら、そういうことはここではしないって言うんです」

あのマスターらしいな、私は、なんだか可笑しくなった。

「私もマスターに賛成よ、こうして直接声をかけてもらったほうが、嬉しいわ」

彼はにこりと微笑み、髪を掻き上げた。

「そうですね、今となっては、マスターの言うことが、よくわかる」

ふと彼の左手を見ると、薬指に金の指輪があるのを見つけた。

「いけない人ね、愛するダーリンの帰りを待っている人が、いるんでしょ?」

「今の僕にはきみしか見えない、これはバッカスの神の陰謀だ」

そう言いながら、彼は薬指から、指輪をはずした。

「私、そんな軽い女に見える?」

「いいや、それでも僕は、きみを誘わずにはいられない」

「光栄ね、私のどこがいいの?」

「すべて・・・きみの座っている空間だけ、きらびやかな空気に包まれてる」

「こんなバーで、女がひとり、淋しく飲んでいるから、いけると思った?」

「もう淋しい思いはさせない、僕があっためてあげる」

私は、カクテルの入ったグラスを彼の頭の上で傾け、氷もろともかけていた。

彼はおしぼりでごしごしと拭くと、すごすごと元いた席へ戻っていった。

私はシーツをかぶり、タバコをくゆらす彼を見つめていた。

「きみは最高だよ、こんなに燃えたことは、かつてなかった」

「・・・奥さんよりも?」

「もちろんさ、きみの身体は魔物だね、男を狂わせる」

私は彼の胸にすがり、もう一度抱いて欲しいとねだった。

彼はタバコを灰皿に押しつけると、また烈しい愛撫で、私の全身を支配した。

私の脳は痺れ、ひたすら快楽をむさぼった。

愛なんてなくっても、この瞬間だけは私のもの、それで十分に思えた。

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