ラスト・ボレー 1/5


 「これが、今回の調査報告書です」

 ぽん、とテーブルの上に置かれたファイルに、睦子はそっと手を伸ばした。

 こぎれいな事務所の応接室、質素だが掃除は行き届いていることがわかる。睦子は落ち着いた素振りを演じつつ、手にしたファイルの表紙をそっとめくった。

 詳細な分刻みの行動履歴が、数十ページにわたって書き綴られている、時折写真が貼り付けられており、その下にはきちんと撮影日時、場所、状況等がこと細かに記されていた。しかしお目当ての写真がいくら探しても見つからず、睦美は怪訝な表情をした。

 「お探しのものは、こちらにありますよ」

 正面に座っている菅沼探偵事務所の所長、菅沼が、うしろから封筒を取り出した。

 「これをお見せする前に、ひとつ確認しておきたいことがありましてね」

 淡々と、感情を極力抑制した声で、事務的態度に徹しながら、菅沼はぽつりと言った。

 「あなたのご主人はご想像通り、浮気されています、これがその証拠写真です、ここには、浮気の相手もはっきりと写っているわけです」

 睦子はいらいらしていた、高い料金を払っているのに、何をもったいぶっているのかと。

  だがそんな気持ちをあえて押し殺し、菅沼に悟られないよう、あくまでも冷静さを取り繕っていた。ここで取り乱してしまっては、あまりにも自分がみじめなように思えたのだ。

 「確認したいことって、何ですの?」

 うわずりそうになる声を渾身の力で抑えつけ、ようやくそれだけ言うことができた。

 「ええ、実は相手の女性なんですがね、あなたもよくご存じの方なんですよ、それで何ていうか、もめ事になっても困ると思いまして」

 「もめ事が困るですって? 探偵さんのあなたからそんなことを言われるなんて思いもよらなかったわ、ここはそのもめ事を片づけるためのお手伝いをして、ビジネスにしていらっしゃるんじゃなくって?」

 「まあ・・・おっしゃるとおりですな」

 菅沼は苦笑し、手にした封筒をもてあそんでいた。

 「わかりました、この封筒はお渡ししましょう、ただひとつだけお約束ください、相手の女性にも生活というものがあります、妙な復讐なんぞ考えたりせずに、できるだけ穏便に事を済ませていただけませんでしょうか」

 どうしても目が険しくなってしまう、睦子は努めて冷静になろうとした。

 「そんなこと・・・あなたから言われる筋合いは、ないんじゃありませんこと?」

 菅沼はきれいに撫でつけられた髪をぽりぽりと掻き、まっすぐに視線を合わせてきた。

 「いやはや、奥さんには叶いません、たしかに私共は調査依頼をされただけで、そちらさんのもめ事の仲介まで買って出る筋合いはないですな」

 女性秘書がドアを開け、趣味のいいティーカップをテーブルに並べ始めた。

 「ただねえ、うちもこういう商売ですから、いろんな修羅場を見てきているわけです、ほとんどの場合、浮気相手というのは多かれ少なかれ顔見知りが多いもので、あえて板東さんにこのような注釈をつけるのもどうかとは思ったのですが」

 かちゃかちゃとスプーンを回し、かげろうに変化していく砂糖を撹拌する。

 「相手が悪いんですよ、相手がね」

 そっとカップを持ち上げ、菅沼が短くそれをすすった。

 「はっきり言いましょう、広域暴力団の安田組の直系である山辺組の組長、その娘さんなんです」

 重苦しい沈黙、それが時間とともにこの部屋の床面にまで沈殿してくると、ようやく水面から顔を出したかのように、睦子は停止していた肺を再起動させた。ひゅうっ、と細い息を吐き出すと、不快な悪寒が睦子の背中を伝った。

 「睦子さんの、高校時代のクラスメートだそうですな」

 睦子はティーカップに手を伸ばし、それを持ち上げようとした。だが手先が思うに任せず、かたかたとみっともない音を響かせてしまった。

 「・・・秋恵、だったの」

 「ご主人も、とんでもない女に憑かれてしまったようだ、まったく馬鹿なことを・・・」

 苦労してようやくひと口、喉に流し込むと、睦子はやや潤った唇を働かせた。

 「違う・・・おそらく主人は、秋恵がヤクザの娘だなんて知らないと思う、秋恵は母子家庭で育ったの、それがどういう風の吹き回しか、お母さんがヤクザの組長と再婚して、そこの娘になったんだと聞いてるわ」

 「・・・それではなぜ、ご主人が秋恵さんの素性を知らないとお思いで?」

 「秋恵自身がその縁談にすごく反対していて、家を飛び出したらしいの、そのまま秋恵は旧姓を名乗り続け、ごく普通のOLとして暮らしているはずよ」

 菅沼はテーブルの上に置いてあるシガー・ボックスから煙草を一本取り出し、大きなガラス製卓上ライターでそれに火を点けた。

 「つまり、あくまでも自分はヤクザなどと関わりたくはない、そう思っている彼女が、浮気とはいえ愛した男にそれを口にするとは考えにくい、そういうわけですな」

 「たぶん、主人は仕事のからみで秋恵と知り合ったのでしょう、主人の会社は、様々な会社へ出入りすることが多いものですから」

 「・・・旅行代理店・・・でしたな」

 「はい、おかげで月に2,3度は週末ひとりぼっちにさせられてしまいます、どこかの会社の慰安旅行だとかいって、添乗員として引っぱり出されることはしょっちゅう・・・」

 「その旅先で、秋恵さんといい仲になってしまった、こう考えるのが自然ってわけだ」

 睦子は言葉を失ってしまった、もうこれ以上ここで喋るのはよそう、自分自身のプライドのためにも、他人にこんなことを喋るのは、やめておいたほうがいい。

 「・・・これ、今回のお代金です、いろいろとありがとうございました」

 そっと封筒をテーブルに置き、指でそれを菅沼のほうへ滑らせた。

 「待ってください、この写真はお受け取りにならないんですか?」

 ちょうど立ち上がったところへ声をかけられ、睦子は立ったまま、その封筒を見つめた。

 「もう必要ありません、そちらで処分しておいていただけませんかしら?」

 言い終わらぬうちに、睦子は出口へ向かって歩き出していた。

 「最後にっ、あなたは、これからどうなさるおつもりです?」

 ドアのノブを掴んだまま、背中を向けた状態で、睦美は低く答えた。

 「さあ・・・どうしようかしら」

 ばたん、とドアが閉まる、菅沼は手にした写真入り封筒を持て余し、ぽんとテーブルに投げ出すと、すっかり冷めてしまった紅茶を、一気に飲み干した。

 雑居ビルの正面玄関から出ると、むうっと熱い空気が睦子を包み込んだ。

 日焼けを警戒して持ってきていた折り畳み式の大きな帽子をバッグから取り出すと、睦子はややはすかいにそれをかぶった。

 街道沿いに手を挙げ、タクシーを呼び止める。

 「調布まで、お願い」

 こちらを振り向くこともせず、運転手は黙ってメーター横のレバーを倒すと、猛烈な勢いで車を発進させた。これでエアコンが効いていなかったら、うしろからぶん殴ってやりたいところだ。

 あれは、いつごろだったかしら。

 そう、私が結婚した翌年の暮れ、Tホテルで高校の同窓会が執り行われたときだった。

 今から1年半くらい前ってことになる。

 私はまだ新婚気分も抜け切れていない、しあわせいっぱいで有頂天の時期だった。

 「へえ、睦子は結婚したんだ、ちょっと意外だなあ」

 「なんでぇ? 私が結婚しちゃ悪いかよぉ」

 「いやそういう意味じゃなくってぇ、睦子なんか晩婚型って感じしてたんだよね、ほら、なんていうか、仕事バリバリやりそうじゃん」

 「でも私も26だよ、結婚しててもおかしくないと思うんだけどな」

 「うわっ、ひっどーい、私なんかまだ浮いた話ひとつないんだから、傷ついちゃうよなぁ」

 「あっ、そんな意味で言ったんじゃないよ、ごめん、薫」

 「へっへー、うそだよーん、気にしてなんかいないって」

 高校の頃は彼女とはほとんど会話を交わしたこともなかったのに、同窓会になるとなぜだか妙に親近感が湧いてくる、不思議なものだ。

 「あ、そうそう、睦子は中谷秋恵って子のこと覚えてる?」

 「え? ああ、うん、覚えてる」

 私は内心戸惑っていた、彼女の名前は、忘却の彼方へ追いやっておきたかったからだ。

 今夜も、できれば彼女と会わないで済むことを、私は密かに祈っていた。

 薫とは3年生で同じクラスになったから知らないのだ、あのことを。

 あのこと・・・

 園和女学園に入学したばかりの頃、私はある意味で特別待遇を受けていた。

 中学のとき、私がテニスの全国インターハイで個人準優勝という経歴をひっさげてこの学園にやってきたのは、ここが女子テニスの名門校だったからた。

 明けても暮れてもテニスばかりに熱中し、幼い頃からずっとプロテニス・プレーヤーを夢見ていた。

 そんな私がこの名門園和女学園テニス部に入るや、すぐさま上級生と同じ待遇を受け、1年生でありながら、数々の大会にエントリーされた。私はその期待を裏切ることなく、どんどん輝かしい成績を残していった。

 あの頃は、一日のほとんどをテニスに費やしていたといっても過言ではなかった。そんな私にあこがれて入部してくるクラスメートも少なくなく、そのうちのひとりが秋恵だったのだ。

 私は秋恵が嫌いだった、こんな素質のかけらもない子が、なんでテニス部なんかに入ってきたのか。たまに練習で秋恵と当たり、ラリーなどをすることがあったが、私はいつも内心いらいらしていた。なんでこんな簡単なボールが返せないのか、早く辞めてくれればいいのに、私は本気でそう思っていた。

 彼女は教室にいてもとりわけ暗く、私とはまるで正反対のキャラクターだった。

 だが彼女は、同じテニス部仲間という意識があるせいか、私にやたら親しくしてくる。

 それが私には不愉快で、表面では友人のふりをしていたが、内心は近寄られることすら不快に感じていた。

 そんなある日、もうすっかり暗くなったテニスコートから引き上げようとしているとき、突然彼女が私の側に寄り添ってきて、話がある、と言い出した。

 もしかすると自分の才能のなさにようやく気づき、退部の意志を伝えたいのかなと思い、気軽にいいわよ、と答えたのだ。

 だが違った、彼女の告白で、私のプライドはずたずたに引き裂かれ、目の前が真っ暗になってしまった。

 私は彼女の告白を聞いている間、喫茶店で自分を抑えつけるのにひどく苦労していた。

 あの当時、私はある男性と交際をしていた。

 テニスが取り持つ縁、彼もまた全国レベルで名を馳せた高校生プレーヤー、まさに似合いのカップルだともてはやされ、周囲の評判であった。

 彼は3年生だったので、大学受験を目指し、テニスを中断している頃だった。

 自然、私の試合にはしょっちゅう顔を出す、周囲の羨望の眼差しを意識せずにはいられなかった。

 私は有頂天だった、すべてが私ひとりのためにある、そう信じていた。

 その彼が、あろうことか秋恵に交際を求めてきたのだという。

 私が試合のとき、秋恵はよく私の付き人のようにして、しょっちゅう私の側にいた。そのときに、彼は秋恵の存在を知ったのだろう。

 でもなぜ? どうして秋恵なんかに声をかけたの?

 私は怒りに手が震え、このまま秋恵の首を絞めてやりたい衝動と対峙していた。

 「・・・で、彼はあなたに、何て言ってきたの?」

 これだけ訊くのにも、かなりの労力が必要だった。

 「きみの翳りのある瞳に魅せられた、なんていうんです」

 秋恵はいつも敬語で喋ってくる、それがこのときほど憎らしいと思ったことはない。

 こんなチビで、テニスの才能なんてゼロ同然の子に、なんで惹かれるわけ?

 しかもネクラで話題に乏しく、クラスメートからも相手にされないっていうのに。

 「そう・・・たしかに、秋恵はかわいい顔立ちしてるもんね、ふうん、そうかあ」

 目の前の秋恵は、消え入りそうなほど萎縮してしまっている、私は、嫉妬なんかで取り乱したくないという一心で、ぶすぶすと泡立つ黒いエネルギーを、自分の中に溜め込んだ。

 「いいよ、別に私、もともとあいつのこと、どうも思っちゃいなかったんだ、私には今度の大会で優勝することのほうが大切だからね」

 そういった途端、彼女は泣きそうな顔を上げ、きらきら輝く瞳で私を見つめた。

 そのとき私は感じた、哀れんでいるのか、この私を、あんたが!

 2年生になり、夏の合宿が終わると、実質的に先輩と呼ばれる人達が消えていった。

 3年生はみな受験勉強のため、いったん引退するのが、ここのテニス部では慣例になっているのだ。

 それでも数名のトップ・プレーヤーは自主的に練習に参加していたが、彼女達もおのずと下級生に口を挟むことを自粛し、黙々と自分の練習メニューをこなすだけだった。

 ある日、ダブルスの組み合わせを決めるミーティングがあり、私は自分のパートナーとして秋恵を指名した。

 周囲は意外な表情をしていたが、それを口に出して言うものは誰もいない。

 さすがに2年近く、休まず練習に参加していたので、秋恵もそれなりに上達している、顧問の先生も、それで渋々ながら承諾した形となった。

 その日から、毎晩遅くまで特訓を繰り返した。

 いや、特訓なんてものじゃない、しごき、そんな健全なものでもない、これは、合法的ないじめだった。わざと顔面や腹部に強烈なボールをぶつけるのは当たり前、倒れると、容赦なくラケットで尻を殴ったりもした。

 毎晩、秋恵は汗と涙でぐしょぐしょに顔を濡らす、私は密かに、それが楽しみになっていった。だがそれは、あくまでも全国大会を勝ち抜ける力を彼女に与えることが建前であり、誰ひとりとしてそれを糾弾するものはなかった。

 いや・・・ただひとり、私を非難してくる者が、いた。

 彼だった。

 ある夜、彼は私の家へ電話をかけてきて、やり過ぎではないかと訴えてきた。

 「いったいどんな練習をしてるんだよ、秋恵の身体はぼろぼろになっちまってる、おまえは知らないだろうが、彼女はときどき血の小便を流しているんだぜ」

 これが決定的なきっかけとなった。

 私の中の憎悪は一気に増大し、はっきりと殺意を覚えていた。

 だが私もそれほど馬鹿じゃない、あんなやつを殺して人生を棒に振るほど愚かではない、もっと合法的な、ずっと効果的な抹殺方法を考えてやる。

 翌週の日曜日、私は市内のある喫茶店へひとり向かっていた。

 すでに待ち合わせの相手は来ていて、煙草を吹かせながら、目ざとく私を見つけると不機嫌な顔になった。

 「なんだよ、優等生の飯山から呼び出しだなんて、ぞっとしないね」

 「・・・ここへ来ることは、誰にも言わなかったでしょうね」

 同じ2年生の和田エリカ、札付きの不良だ。

 彼女が暴走族とつきあっていることは、クラスの誰もが知っていた。

 私は20万の入った封筒を差し出し、ついでに数枚の写真をテーブルに並べた。

 「オヤジ狩りねえ、いまどき珍しくもないけどさ、この写真を警察へ持っていけば、よくて鑑別所行き、へたすると少年院送致ってところね」

 3日後、私はいつものように、秋恵ひとりを残して猛特訓を繰り返していた。

 このごろでは滅多なことでは泣かなくなっていた、それが、私にはうらめしかった。

 「今夜はここまでっ、まったくあんたって、いつまでも上達しないんだから」

 「す、すいませんっ、もっと頑張って、睦子さんのパートナーとして恥じないよう努力しますから、遠慮なんかせずにどんどん鍛えてやってくださいっ」

 バアーカ、誰があんたなんかと組んで出場してやるかよ。

 予選は来週の金曜日なんだ、それまでになんとかこいつを潰してやらないと。

 「じゃあ、悪いけど球拾いお願い、私はちょっと今夜は用事があるから」

 きらきら輝く瞳を向け、秋恵が元気のいい返事をした。

 ふふっ、今に見てろ、今夜限りであんたとのくだらない関係はおしまいさ。

 ラケットにカバーをかけながら、ちらっと秋恵のほうを見る、何も知らない彼女は、青あざだらけの脚を引きずりながら、鼻歌混じりに球拾いをしていた。

 着替えを済ませ、私は校門の内側にあるポプラの木陰に身を潜ませていた。

 思った通り、彼が出迎えにやってきた。

 自転車にまたがり、秋恵の姿を見つけると、おういっ、と声をかけてきた。

 秋恵は小走りに彼の元へ駆け寄り、荷台におしりをのせた。

 楽しそうに笑う声が聞こえ、ふたりを乗せた自転車が遠ざかっていく。

 すぐさま私は用意していた自転車にまたがり、ふたりのあとを追いかけた。気づかれないよう、十分な距離を置いて。

 どうせふたりの行き先はわかっている、急ぐことはなかった。

 市営の大きなスポーツ・センター、その後ろには広大な緑地公園がある。ふたりの自転車はその中へ入っていき、そのまま円形の広場に乗り入れた。

 スタンドを立てて自転車を置くと、木製のベンチに歩み寄り、ふたり並んで腰掛けた。

 彼が自動販売機で缶コーヒーを2つ買い、ひとつを秋恵に手渡してやる。

 ふたりは仲むつまじく身を寄せ合い、そのコーヒーで冷えた手を暖めていた。

 そのときだ、遠くから物凄い爆音がこだまして、それがだんだんこっちのほうへ近づいてくる。

 あっという間に5,6台のバイクがふたりを取り囲み、敵意をむき出しにして、男達がぞろぞろと降りてきた。

 「見せつけてんじゃねえよ、この色男野郎が」

 「な・・・なんだよ、僕たちは何も・・・」

 「るせえっ、気に入らねえ野郎だぜ、おう、やっちまえっ」

 秋恵は両側から取り押さえられ、その目の前で、彼が数人がかりでずたずたに引き裂かれていく。ひとりの男が金属バットを振り上げると、彼の後頭部を痛打した。

 「きゃあっ」

 うしろから口を塞がれ、悲鳴を遮られると、秋恵のみぞおちを男がしたたかに殴った。ぐったりして、秋恵はその場に崩れ落ちていく。

 「・・・おい、おまえがやれよ」

 「い、いや、俺は遠慮しとく、そ、そうだ、ジュンヤ、おまえがやるんだよ」

 ジュンヤと呼ばれた若者が、リーダーらしき男からナイフを手渡された。

 「これをやったら、おまえも俺達の仲間として認めてやる、さあやれっ」

 しばらく呆然と秋恵を見下ろしていたジュンヤという若者が、やにわに秋恵の上に覆い被さり、その不気味なナイフを振り上げた。

 早く、そのナイフでやりなさい、何をしてるの。

 私は、爪を噛みながら、その惨状をわくわくしながら凝視していた。

 この不思議な高揚感、私は冷え切った公園内で、しばし勝利の余韻を噛みしめていた。

 翌日、始業前のあいさつで、担任の教師がこう言った。

 「中谷秋恵さんが、昨夜暴走族に襲われました、彼女は今入院していますが、おそらく彼女はもう歩けないということです、見舞いに行くのなら・・・」

 ふふふっ、ざまあみろよ、私を怒らせたからいけないんだわ。

 その日の放課後、私は病院へ花束を持って見舞いに行った。

 病室のドアを開けると、秋恵の母親と、全身包帯だらけの彼が立っていた。

 「まあ・・・なんてこと」

 「あ・・・む、睦子、さん・・・」

 弱々しく秋恵がつぶやく、私は出来る限り憐れみの表情を顔に浮かべ、ベッドの上の秋恵に駆け寄った。

 「ひどいことを・・・なんで、こんなことに」

 「・・・すいません、ダブルスのパートナー、これじゃもう、できないですね」

 そういうと、秋恵は嗚咽を繰り返し、目尻から涙をこぼし、枕を濡らした。

 「あの・・・あなたが、飯山睦子さんですか? 私は、秋恵の母です」

 「・・・どうも、このたびは」

 「秋恵は、あなたとのダブルスを本当に喜んでいたんです、それが、こんなことになってしまって」

 「・・・お察しします、私も、秋恵さんとのダブルスを楽しみにしていたのに」

 母親は泣き崩れ、ベッドの秋恵に覆い被さった。

 ふと、私は、うしろに立っている彼の視線を、痛々しいほどに感じた。

 「睦子、まさかおまえが・・・」

 すぐさま秋恵の手を握り、私は彼女に励ましの言葉を投げかけてやると、挨拶もそこそこに病室を出た。

 ふんっ、どうせ証拠はないのよ、あんたもいけないんだ、私をコケにした罰よ。

 やがて秋恵は退院し、母親の献身的な介護のもと、リハビリを繰り返し、私たちが進級する頃には、元のように歩けるまでになった。

 それに連れて、私にはもうひとつ、懸念材料が出来てしまった。

 彼の疑念である、わずらわしいことは、早めに芽を摘むに限る。

 私は再び和田エリカを呼び出し、また20万の入った封筒を差し出した。

 その数日後、彼が遺体となって発見されたという新聞記事を読んだ。

 たったの20万、それで彼は命を落としたのだ、なんと哀れな話だろう。

 新聞には暴走族同士の抗争とある、そう、彼は、あのあと自暴自棄になり、道を踏み外したのだ。よからぬ連中とのつきあいを深め、どんどん泥沼に入り込んでいったのである。

 もともと運動神経だけは人並みはずれており、何度か喧嘩の経験を重ねているうちに、知らぬ間に彼はリーダー的存在にまで登り詰めてしまった。

 そんなアウトローに身をやつした彼が命を落としたところで、世間の目は、単なる不良どもの喧嘩沙汰としか思わない。

 さすがの私も、今回ばかりは良心の呵責にさいなまれた、だがそれも、責任転嫁という形で自己正当化できた。

 私が悪いんじゃない、みんなあいつらが悪いんだ、事業自得ってやつだわ。

 あれからの私は、ことごとく主要な大会で惨敗し、すっかり意気消沈していた。

 顧問の先生も私に関心を示さなくなり、後輩達へ勢力を注ぎ込むようになった。

 「お客さん、調布に来てるんだがね、どっちへ行けばいいんで?」

 はっと我に返り、私はとっさに今いる場所を把握できないでいた。

 「・・・ここでいいわ、停めてちょうだい」

 料金を払い、私はうだるような暑さの中を歩き出していた。

 このほうがかえって都合がいい、ゆっくり考えを練ることができそうだから。

 秋恵のやつ、いったいどういうつもりなんだ、うちの主人を寝取ったりして。

 復讐?

 冗談じゃないわ、なんであいつに恨まれなきゃなんないのよ、この私が。

 私は、あいつのせいで人生を狂わされたのよ、むしろ私のほうが被害者じゃないの。

 とにかく主人を寝取ったことだけは許せない、必ず仕返ししてやる。

 私は、通りがかりの喫茶店へ飛び込み、ブレンド・コーヒーを注文した。

 そしてさっき受け取った封筒を開き、秋恵の所在を確認した。

 ふうん・・・麹町か、そんなところに住んでたんだ。

 どちらにしても、主人の不貞も許せない、ましてや相手が秋恵となると、なおさらだ。見てなさい、うんと後悔させてやる、私を裏切ったらどうなるか。

 私は堅く心に誓った、自分を愚弄するやつにはそれなりの償いをさせてやる、それが私のプライドを守る唯一の方法、それを踏みにじるやつは、誰であろうと許さない。

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