僕のプレゼント 1/6


 帝都ホテルの大広間で、華やかに催されていた打ち上げパーティをそっと抜け出し、木暮修三はエレベーター・ホール脇のソファに腰を降ろすと、うっかり持ち出してきてしまったカクテルグラスを持て余し、思わず失笑した。

 こつん、と透明な音を立て、大理石のサイド・テーブルにそれを置く。

 「あら、木暮先生、こんなところでどうなすったんですの?」

 木暮は、不愉快な表情になるのを極力抑えながら、愛想笑いを浮かべて見せた。

 「俺はパーティっていうのが苦手なんです、それだけのことですよ」

 女は豊満な胸を揺すりながら笑い、しおらしくお辞儀をして、喧噪へと吸い込まれていった。

 もともと酒は嫌いなほうではない、だが木暮の好きな酒は、ここにはなかった。

 パリへ留学していたときによく根を生やしていた小さなバーの止まり木、でなければ、日本へ凱旋帰国を果たしてから根城にしているマンションの近く、ジージーと消え入りそうな音を立てているネオン管のかかった、あのバーしかない。

 今夜の千秋楽が行われたK記念ホールからさほど遠くないこのホテル、バック・オーケストラの面々に加えてスタッフのほぼ全員がこのパーティ会場に集結し、そこへさっきのような後援者、いわゆるタニマチと呼ばれる人々も、高価な料理に舌鼓を打っていた。

 木暮はなんとも辟易していた、もともと堅苦しい席は苦手なほうなのだ、一刻も早く、ここから抜け出そう、そう決めたとき、もうすでに足は行動を起こしていた。

 エレベーターが開き、木暮とさほど年の変わらなそうな4人連れが降りてきた。

 4人は何事もなかったように木暮の前を通り過ぎ、パーティ会場とは反対の方角へ歩き出した。おそらく、ここの宿泊客なのだろう、みんなよそ行きの服装をしていることでわかる。

 「あら?」

 「どうした?」

 「あの人・・・ええっと、なんていうんだっけ、ほら、今、人気のピアニスト」

 「え?誰?ピアニストって、クラシックかい?」

 「そうよ、たしか、木暮なんとかっていったっけ」

 木暮は立ち上がり、彼らが乗ってきたエレベーターの中へ、するりと身を滑り込ませた。

 すぐさまロビーのある1階のボタンを押し、ふうっ、とため息をひとつついた。

 所詮、クラシックなんぞこの国の人々には縁が薄いのだ、だがそれはかえって都合がいい、こうして変装せずとも街中を歩けるのだから。

 ドアが閉まろうとする瞬間、こじ開けるようにしてひとりの男が飛び込んできた。

 木暮は舌打ちしたくなった、こういう密室で知らない男と同席するのは、いささか愉快でない。

 見ると高校生くらいの若者であった。

 ひょろりと華奢で、冴えないジーンズにコットンシャツを着ている、額には、ぽつりぽつりと、青春の証が刻まれているのがうっすらと見てとれた。

 45階から1階まで、この息苦しい時間を乗り切れば、俺には自由が待っている、そう思って我慢することにしたのだが、眼前の彼が突如何の前触れもなく、その自由を奪い去った。

 ぎらりと刃渡り15センチはあろうかというハンティング・ナイフを突き出し、かすかに震える呼吸音に混じって、その「ぼうや」はこうつぶやいてきた。

 「こ、木暮、修三さんですね、僕と、ちょっとつきあってください」

 「・・・俺は、ブルース・ウィリスじゃないぜ、それに今日はクリスマスでもない」

 大きく見開かれた彼の瞳から、かすかな怯えを感じ取ることができる、まだ若いってのに、本当にこの国の将来が心配になっちまう。

 「そんなものを使って、どうするつもりなんだ?」

 「あ、あなたを、傷つけるつもりはありません、ただ、話がしたいんです」

 「ほう、おかしなことを言うねえ、ならそんな物騒なものは必要ないんじゃねえか?」

 「いえ・・・あなたに必要なくっても、僕にはあるんです」

 木暮は、なんだかこの青年に興味を覚え始めていた。

 「きみに必要だってことは、この俺にもおおいに関係あると思うんだがね」

 エレベーターの表示は15を示し、14,13と、カウントダウンを続けている。

 「もうすぐ到着だぜ、それを使うんなら今しかないぞ」

 木暮はクラシック・ピアニストとしては珍しく、正装をひどく嫌う男だった。

 コンサートでもジーンズにTシャツ、その上からよれよれのジャケットを羽織り、そのジャケットの袖をくるくるとまくって、肘から先をむき出しにして演奏する。

 髪は天然パーマを無造作に撫でつけただけ、無精髭さえそのままだ。

 ナイフを持った青年と対峙している今も、木暮はステージとなんら変わらぬ格好をしていた。

 「・・・僕の、ナイフの使い方は、こうするんです」

 やにわに青年はナイフをひるがえし、自分のか細い左手に刃先を当てると、それを気味の悪いほどスムーズに、うしろへ引いた。

 真っ赤な鮮血が指先を伝って、ぽたぽたとエレベーターの床を染めていく、カウントダウンは、すでに残すところ5つしかなかった。

 「馬鹿っ」

 木暮はとっさに青年の右手からナイフを奪い取り、すかさず床へ投げ捨てた。

 同時に、ジーンズの尻ポケットからハンカチを取り出し、傷口を堅く縛ってやる。

 ポーンッという電子音が鳴り響き、エレベーターのドアが両側へ開いていく。

 幸い、エレベーターを待ち焦がれる人影はあたりに見当たらず、木暮は、青年の腕をからませて足早にロビーを横切っていった。

 「何様だか知らねえが、俺の貴重な時間を邪魔しないでもらいたかったね」

 それには応えず、青年は木暮の進む方角へおとなしくついていった。

 化粧室へ青年を連れて飛び込み、いちばん奥の個室へ押しやった。

 後ろ手でドアをロックし、青年を便座に座らせると、すぐに傷口を確認した。

 「ふう・・・幸いキズは浅かったらしい、どうやら命拾いをしたようだな、ぼうや」

 木暮は、首に巻き付けていたスカーフをはずし、今度はていねいに巻いてやった。

 「・・・すみません」

 「もういいさ、二度とこんな馬鹿なことするんじゃねえぞ、でないと校庭百周だ」

 「僕の、話を聞いてもらえれば、もう二度とこんなことしません」

 「そういうやり方は好きじゃない、マネージャーを通してアポを取るんだな」

 「・・・やはり、聞いて、いただけませんか?」

 木暮はなぜか吹き出しそうになった、こんなことをしている自分がどうにもおかしく、それ以上に、この青年に興味を持っている自分がおかしくてたまらなかった。

 へたをすると刺されていたかも知れない相手なのだ、まったくどうかしてる。

 「そんな情けないツラすんじゃねえ、うさぎ飛び百回も追加するぞ」

 「じ、じゃあ、聞いてもらえるんですね!」

 「早とちりすんなって、俺がこのまま、おまえの要求に応えたりしてみろ、夜毎ベッドで悶え苦しんでいる俺の女性ファンたちが、みんなナイフ持参でやってくる」

 消え入りそうなほど落胆の色を浮かべ、とうとう青年は目を潤ませ出した。

 「おいおい、男がそんなことで泣くんじゃねえ、まったく近頃のガキときたらしょうがねえな」

 ぽたり、ぽたり、と、化粧室とは思えないほどきれいに磨かれた床に涙を落とし、その骨ばった肩を大きく揺すらせ始めた。

 「わかったよ、ただし条件がある、これから俺が行く所でなら聞いてやってもいい、もっとも、おまえはまだ未成年のようだから、アルコールは厳禁だ」

 顔中の穴から水を垂らし、青年はこれ以上ないと思えるような笑顔を浮かべた。

 やれやれ、今夜の俺はまったくついてねえ。

 便所のドアを開けると、ちょうどそこに老女がモップを持って入ってきた。

 あからさまに変態を見る目でふたりを見比べている、木暮は心底、げんなりした。

 「おばちゃん、精が出るね、ちょいとトイレを汚しちまってさ、すまねえな」

 何かおぞましいものでも見るように、老女がふたりのいた個室を覗き込む、点々とついた血痕を見て、皺だらけの顔を、さらに皺くちゃにした。

 「で、出て行けっ、このヘンタイがっ」

 自分のことを木暮修三だと知らなかったことは不幸中の幸いだった、演歌歌手にならなかったことを感謝すべきかも知れねえな。

 次々と飛んでくるトイレットペーパーをよけながら、ふたりは化粧室を飛び出した。

 ホテルを出ると、木暮は内ポケットからタバコを取り出し、それに火を点けた。

 「おまえさん、名前は?」

 木暮のやや後方を遠慮がちに歩く青年に対し、低くしゃがれた声で問いかけた。

 「・・・はい、二宮、二宮伸也っていいます」

 ふうーっ、と煙を夜空に吹きかけ、前を向いたままゆっくりと足を運ぶ。

 「高校生か?」

 「・・・はい、高3です」

 「ふうん・・・なんだって、俺なんかに近づいてきた?」

 しばらく待ってみたが、返事が返ってこなかった。

 「どうした?わざわざ俺から話を持っていってやってるんだぜ、返事しろよ」

 木暮は立ち止まり、くるりと後ろに振り返ると、うつむいたままの青年を見つめた。

 「ここじゃ言えねえってんだな、わかったよ、好きにするさ」

 タクシーを呼び止め、先に青年を詰め込むと、木暮がその横に滑り込み、運転手に行き先を告げた。

 手首に巻いてやったスカーフは早くもぐっしょりと血に染まっている、木暮は見かねて、運転手に言った。

 「すまんが、どこか薬局があったら寄り道してくれないか」

 隣で、二宮伸也は黙りこくったまま、窓の外をぼんやり眺めていた。

 「兄弟、薬局よりも病院へ行くべきだったかな?」

 「い、いえ・・・この程度、平気ですから」

 「やっと喋ってくれたな、いっとくが俺はガキは嫌いなんだ、とくにおまえのような無口な奴がな」

 「・・・すみません」

 「それしか言えねえのかよ、話があるって言ったのはおまえさんのほうだぜ、俺の堪忍袋の緒が切れちまう前によ、せいぜい好青年になることをお勧めするね」

 するするっとタクシーが減速し、街道沿いにある終夜営業の薬局の前で停まった。

 運ちゃんに一万円札を握らせ、ここで待っているよう命令すると、木暮は二宮を連れて薬局に入り、応急手当するよう店員に頼んだ。

 生々しい手首の傷を見て、店員は怪訝そうな表情をしたが、そいつの胸ポケットに一万円を詰め込むと、とたんに愛想が良くなった。

 手厚い看護を受けさせ、またぞろタクシーに引き返す。

 俺はいったい何をやってんだろう、木暮は自嘲気味に顔を歪めた。

 ジージーッと、虫の羽音に似た音を出し続けているネオン管の下にタクシーを停車させ、釣りはいらないと言い残すと、木暮と若者は、生臭い空気の漂う街角へと踏み出した。

 部分的に消えかかってはいたが、それは筆記体で「Nightfly's Bar」と読める。

 うらぶれた町外れにあるそのバーは、なぜか客を拒んでいるかのようだ。

 白塗りの壁にはスプレーで色とりどりの模様が施されている、いや、もはや模様などという上品なものではなく、ほとんど落書きに近い。

 アール・デコをデフォルメしたような模様に混じって、スラングがいたるところに書き込まれている。お決まりの卑わいなマークも、ちゃっかり隅っこのほうに鎮座していた。

 こうした外観からすると妙に高尚に見えるオーク材の重厚な扉のノブを掴み、それを開く。木暮は薄暗い店内に二宮を押しやり、そのあとを転ばないよう注意しながら進んだ。

 「いらっしゃい、おや?お連れさんとはまた珍しい」

 「ああ、ちょいとわけありの客人でね、すまないが奥のボックス、借りるよ」

 グラスを磨く手を止め、マスターは軽く二宮青年に会釈した。

 他に客はいなかった、普段でもここはせいぜい2,3人しか客を見ない、延べてここの常連は、多くても2,30人ほどではないか、木暮はそう思っていた。

 だがここへ来る客は例外なく、木暮にとって気の置けないやつらなのだ。

 それはとりもなおさず、この店自体が客を選んでいるからに違いない。

 「ボックスへ座るのは初めてじゃないですか?木暮さん」

 「・・・それもそうだな、しかしそれは俺に限ったことじゃないぜ、ここへ来るやつはみな、マスターの近くへ集まりたがるのさ」

 「はっはっは、かつぎ上げても何も出やしませんよ」

 ことん、とグラスを置き、おしぼりをふたつ並べる。

 カウンターの後ろにある、おびただしいボトルの中から一本を取り出し、きゅっ、きゅっ、と磨きながらマスターがそれを持ってきた。

 「・・・はて、お連れさんは、もしかして」

 珍しそうに店内を眺め回していた二宮が、びっくりしたようにマスターの顔を見上げた。

 「お察しのとおり、こちらはまだ未成年さ、どうする兄弟、ここにゃチョコレート・パフェはないがね」

 にこりとマスターが笑い、コーラを勧めてくれた。

 二宮青年はうなづき、また店内に目を移した。

 「いいかよく聞け、俺がおまえくらいの頃には、もうすでにこういうとこへ来て一杯やってた、だからっておまえに酒は飲まさねえよ、酒ってのは大人の飲み物なんだ、おまえのようなよちよちの赤ん坊には飲ませたくないね、だからせめて、ここの雰囲気に酔うんだな、それならマスターも許してくれるだろうよ」

 「・・・スティーリー・ダンですね」

 「は?」

 「このBGM、なんだかこの店にぴったりだ、僕、こういうとこ初めてです」

 「あったりめえだっ、おまえみたいなガキが来るとこじゃねえって言ってるだろ」

 レモン・スライスを挟んだコーラが運ばれてきて、二宮の前に置かれた。

 「よく知ってるね、きみは高校生?」

 「はい、僕はこういうの、大好きなんです」

 「おいおい、マスター、乗せないでくれよ、ぼうやがここに入り浸ったらどうすんだ」

 「ふふっ、この木暮さんもね、クラシック音楽家なくせしてこういうのが好きでね」

 「本当なんですか?うわあ、嬉しくなっちゃうなあ」

 「機嫌がいいときは、あそこにあるローズ・ピアノで即興演奏もしてくれるよ」

 「マ、マスター・・・もういいからあっちへ行ってくれないか」

 すっかり二宮青年の目の色が変わり、木暮に対して憧憬の色さえ浮かべていた。

 現金なものだ、俺はれっきとしたクラシック・ピアニストなのだ、さっきまでは何の関心も示さなかったくせして、どうだいこの変わり様。

 まあ、俺のサインが欲しくてあんなことをしたとは思えないが。

 「あの・・・もしかしてここの名前、ドナルド・フェイゲンのアルバム・タイトルから取ったんでしょ?」

 「ほう、こりゃ驚いた、そんなことまでわかるの?」

 マスターが嬉しそうに顔を崩し、エプロンで手を拭きながら壁にもたれかかった。

 「すごいなあ、本当にぴったりですよ、この店の雰囲気に!」

 やれやれ、深刻な話はどこへ行ったのやら。

 木暮は方向転換することにした、こうなりゃマスターにも一枚噛んでもらおう、そのほうがこのぼうやも話しやすいに違いない。

 「マスター、うんと強烈なドライ・マティーニをふたつ、ひとつはあんたのぶんだ、それを持って、ここで一緒にこのぼうやの話を聞いてやってくれないか」

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