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「カナダの教訓
(超大国に屈しない外交)」
から学ぶ
「カナダの教訓(超大国に屈しない外交)」(孫崎享著書)より
『カナダの教訓』は
一九九二年に書かれたものである。
私は2012年8月
『戦後史の正体』
(創元社)を書いた。
この本は
発売 二か月で二〇万部を超える
という大変な関心を呼んだ。
私は、
アメリカとの関係で、
いかに対米隷属が
幅をきかせているか、
さらに自主を貫く
日本の首相などが
いかに政治的に
抹殺されるか
を書いた。
そして
『戦後史の正体』のあとがきで
次のように書いた。
少し長くなるが、
抜粋して引用する。
「長期政権となった
吉田茂、池田勇人、中曽根康弘、小泉純一郎の各首相は、
いずれも『対米追随』のグループ
に属しています。
年代的に見ると
一九九〇年代以降、
積極的な自主派は
ほとんどいません。
細川と鳩山という、
自民党から政権を奪った首相が
ふたりいるだけです。
しかもどちらも九ヵ月弱という、
きわめて短命な政権に
終わりました。
それ以前の歴史を見ても、
いわゆる『自主派』と見られる首相は、
だいたい米国の関与によって
短期政権に終わっています。
ここで指摘しておきたいのは、
占領期以降、
日本社会のなかに
『自主派』の首相を引きずりおろし、
『対米追随派』に
すげかえるための
システムが埋めこまれている
ということです。
自主派の政治家を
追い落とすパターンも
いくつかに分類できます。
@占領軍の指示により公職追放する
A検察が起訴し、マスコミが大々的に報道し、政治生命を絶つ
B政権内の重要人物を切ることを求め、結果的に内閣を崩壊させる
C米国が支持していないことを強調し、党内の反対勢力の勢いを強める
D選挙で敗北
E大衆を動員し、政権を崩壊させる
この六つのパターンのいずれにおいても、
大手マスコミが連動して、
それぞれの首相に反対する
強力なキャンペーンを行なっています。
改めて
マスコミが
日本の政変に
深く関与している
事実を知りました。
このように米国は、
好ましくないと思う日本の首相を、
いくつかのシステムを駆使して
排除することができます。
ではそうした
国際政治の現実のなかで、
日本はどう生きていけばよいのか。
石橋湛山の言葉に
大きなヒントがあります。
終戦直後、
ふくれあがる
GHQの駐留経費を
削減しようとした
石橋大蔵大臣は、
すぐに公職追放されてしまいます。
そのとき彼はこういっているのです。
『あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、
おれと同じような態度をとることだな。
そうするとまた追放になるかもしれないが、
まあ、それを二、三年つづければ、
GHQ当局もいつかは反省するだろう』
そうです。
先にのべたとおり、
米国は本気になれば
いつでも日本の政権を
つぶすことができます。
しかしその次に成立するのも、
基本的には
日本の民意を反映した政権です。
ですから
その次の政権と首相が、
そこであきらめたり、
おじけづいたり、
みずからの権力欲や功名心を
優先させたりせず、
またがんばればいいのです。
自分を選んでくれた国民のために。
それを
現実に
実行したのが、
カナダの首相たちでした。
まずカナダの
ピアソン首相が
米国内で
北爆反対の演説をして、
翌日ジョンソン大統領に
文字どおり
つるしあげられました。
カナダは
自国のI〇倍以上の国力をもつ
米国と隣りあっており、
米国からつねに
強い圧力を
かけられています。
しかし
カナダは
ピアソンの退任後も、
歴代の首相たちが
『米国に対し、毅然 と物をいう伝統』
をもちっづけ、
二〇〇三年には
『国連安全保障理事会の承認がない』
というまったくの正論によって、
イラク戦争への参加を
拒否しました。
国民も七割が
その決断を
支持しました。
いま、
カナダ外務省の建物は
ピアソン・ビルと
よばれています。
カナダ最大の国際空港も、
トロントーピアソン国際空港
と名づけられています。
カナダ人は、
ピアソンが
ジョンソン大統領に
つるしあげられた事実を知らずに、
外務省を
ピアソンービルとよんでいる
わけではありません。
そこには。
『米国と対峙していくことはきびしいことだ。
しかし、
それでもわれわれは
毅然として
生きていこう。
ときに不幸な目にあうかもしれない。でもそ
れをみんなで乗りこえていこう』
という強いメッセージが
こめられているのです」
私は『戦後史の正体』で日本の在り様を探ってきた。そして、対米従属を強い
られる我々が学ぶべきはカナダではないかという結論に達したのである。
日本は対米隷属を強いられている、これから脱するにはどうすればよい
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か。私はその解をカナダの歴史に求めた。
私が一九九二年に『カナダの教訓』を書いたのはカナダ外務省アジア局
長の助言による。彼は「日本は米国との関係で苦労している。しかし、
米国との関係で、世界で最も苦労しているのはカナダである。日本がこ
の歴史を学べばきっと役立つ」と助言してくれた。
私は一九八九年、イランーイラク戦争を終えたイラクからカナダに赴任し
た。大使館の二番目、公使として、である。
ここで、カナダ外務省アジア局長と親しくなった。ある日私は彼に次のよ
うに言った。
「オタワは素晴らしい都市だ。自然が豊かで、安全で、きれいだ。文化的活
動もある。日本とカナダとはほとんど争うものがない。暮すのに何ら文句の
ない素晴らしい所だ。でも仕事の面では物足りない。私はこれまで、ソ連、
英国、米国(ハーバード大学研究員)、イラクと勤務して、常に仕事が山のよ
うにあった。そういう意味でカナダは退屈だ」
その時、カナダ外務省アジア局長は私に次のように言った。
「とんでもない。
カナダくらい、日本に役立つ国はない。
カナダは米国の隣に位置する。
米国と同じ生き方をするなら、カナダという国は米国に吸収されてしまう。
我々カナダには、カナダとしての生き方がある。米国の隣に位置して、米
国と異なる価値観を国家として追求している。
米国は当然、自立を目指すカナダを快く思わない。さまざまな圧力をかけ
てきている。
この中で、カナダはアメリカの圧力をどのように、かいくぐるかを学んで
きた。
この経験を、対米関係で苦しむ日本が学ばない手はない』
もし、あなたが、カナダの対米外交を学べば、それは日本外交にとって大
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変な財産になるはずだ。
ぜひ、カナダの対米外交の歴史を勉強しなさい。カナダの要人にインタビ
ューしたいのなら、応援してあげる」
私は、すぐカナダの対米外交の歴史を学び始めた。カナダ外務省の図書館
を利用した。カナダの元外相、元駐米大使、元首相補佐官等、必要と思える
ほとんどすべての人にインタビテー・をすることができた。
本を書き上げ、一九九二年日本に帰り、出版しようと思った。
しかし、そう簡単に出版してくれる所がない。
原稿のコピーを何人かの外務省OBに送った。
その中の一人に中山賀博元駐仏大使がいた。「これはぜひ出版すべきだ。
自分は出版社に人脈がない。しかし、お金を集めることは少しできる」と言
って、一〇〇万円くれた。「このお金を持って、出版社と交渉すれば、どこ
かの出版社が出してくれるだろう」と言ってくれた。
当時、ほとんどの人はこの本を手にしなかった。ただ、評価する人は何人
かいた。佐藤誠三郎東大教授は「君の本は(ある賞を)受賞することになっ
たよ」と言ってばくれたが、受賞にはならなかった。人づてに、麻生太郎議
員が当時の宮洋喜一首相に「この本を読んだらよい」と贈呈したと聞いた。
うれしかっだのは松永信雄駐米大使の言葉である。「君の本は大変参考にな
ったよ。本の中に、ゴトリーブ・カナダ大使がいかに米国議会の重要性を認
識して、議会工作を行ったかが書いてあった。ゴトリーブ駐米大使がやめて
から、ワシントンで議会工作を最も活発に行っだのは自分だと思う」。
イラク戦争でカナダは参戦しなかった。「参戦する合理的理由がない」
というものだった。日本ですら自衛隊を送った。米国の隣に位置するカ
ナダが米国と行動を共にしなかった。大変な圧力であったろう。
実は防衛大学校教授時代、修士課程の学生がこの問題を私の下で書き、
今回、それを追加した。
二〇〇三年イラク戦争が開始された。米国は「イラクに大量破壊兵器が存
在する。サダムーフセインがこの大量破壊兵器を持つのは他国を攻撃するた
めである。我々はイラクが攻撃するまでだまってみているということはでき
ない」としてイラク戦争を開始した。日本も自衛隊を派遣した。この時、カ
ナダはフランス、ドイツとともにイラクに自国軍を派遣しなかった。
これに先立つ二〇〇二年八月下旬には、クレティエッ首相が、「フセイン
が大量破壊兵器を保持」し、「それを使う意図」があり、「国連の支持があ
る」という三つの根拠がなければ、カナダはイラク戦争に参戦しないとカナ
ダのイラク戦争参戦の条件を公式的に明言していた。結局、この条件が満た
されず、カナダは参戦しなかった。
二〇〇四年九月、米国の公的調査団が「イラクには大量破壊兵器がほとん
どない」という報告を出した。カナダの主張は正しかったのである。