。
(2013年9月議会参考資料一部より)
フィリピンが
憲法改正で
米軍を撤退させたというのは
本当ですか?
それと
ASEAN
(10カ国:タイ、フィリピン、マレーシ
ア、インドネシア、シンガポール、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジア)
はなぜ、
米軍基地
がなくても
大丈夫なのですか?
フィリピンが
米軍基地を
撤退させたというのは
本当です。
さまざまな偶然にも恵まれた
とはいえ、
フィリピンは
1986年の
アキノ政変後の
87年に
新憲法を公布し、
九一年に
上院が
基地存続条約の批准を
拒否、
九二年までに
米軍基地を
完全撤退
させました。
私(石山)は
一九九一年から
共同通信のマニラ支局長として
現地にいて、
基地撤退の
一部始終を
この目で見る
機会
に恵まれました。
アキノ政変から
米軍基地撤退に至る過程は、
フィリピン史にとどまらず、
世界史的な意味を持った一連の事件だったと思っています。
東南アジア諸国連合
(ASEAN)
加盟の10力国
内には、
ご指摘のように、
現在、
米軍基地は
ありません。
フィリピンと米国との間には「米比相互防衛条約」という二国間の
安全保障条約があります。また、タイヤシンガポールの軍も米軍とは合同演習を定期的に
行なっています。しかし、ASEANという地域連合としては非同盟の原則を貫き、軍事
力でなく外交で紛争を回避する知恵を積み重ねてきました。米軍基地がなくても、地域の
安全保障の仕組みは機能しています。
始まりは一九八六年の民衆革命
フィリピンからの米軍基地の完全撤退は、日本の米軍基地問題を考えるにあたって多くの示
唆に富んでいます。
いまの若い人たちはほとんど知らないかもしれませんが、
昔、
フィリピンには
マルコス大統
領という
独裁者が
いました。
東西冷戦のなかで
生まれた
いわゆる
「親米独裁政権」
の大統領で、
一九六五年から
八六年までの
二一年間にわたって
フィリピンを支配、
戒厳令を発布して
政敵を
逮捕・投獄するなど、
非常に強権的な
大統領でした。
そのマルコスの
最大のライバルで、
米国に亡命していた
ベニグノ・アキノ元上院議員が
一九八三年八月、
命がけで
フィリピンに帰国します。
ところが彼は
マニラ空港に到着し、
タラップ
を降り始めた直後、
後頭部を
銃で撃たれ
殺されてしまったのです。
手を下しだのは
マルコスの
腹心だった
人物でした。
この事件に
フィリピン国民は怒り、
マルコス独裁政権を
打倒し、
殺された
アキノ元上院議員
の妻である
コラソン・アキノを
大統領にしようという
民主化の動きが
爆発的に
全土に
広がりました。
?
そして
事件から
三年後の
一九八六年二月、
エドサ通りという
マニラで
一番大きい通りを
百万人もの
民衆が埋め尽くし、
大統領のいる
マラカニアン宮殿も
包囲して、
マルコス政権を
打倒したのです。
マルコス大統領夫妻は
米軍の用意した
ヘリで
宮殿を脱出し、
ハワイに
亡命しました。
新しい憲法に
「外国軍基地の原則禁止」
を書きこむ
このマルコス追放劇は、
当初
「民衆革命」
などと呼ばれましたが、
マルコスに代わって
大統領に
就任した
コラソン・アキノは
大地主の家に
育った富裕層で、
民主化は
一定程度
進めたものの、
極端な貧富の格差など
フィリピン社会が抱える
根本的な矛盾
にまでは
手を突っ込もうと
しませんでした。
大土地所有制解体(農地改革)を
訴える農民のデモに
軍・警察が
発砲して
死傷者を出した
事件などをきっかけに、
「ピープルズ革命」
という評価は後退し、
現在はたんに
アキノ政変
と呼ばれる
ようになっています。
とはいえ、
アキノ政変は
独裁政権が
民衆の蜂起によって
無血で
打倒されたという点で、
まだ
東西冷戦下にあった世界では
大きな注目を集めました。
三年後の
一九八九年には
中国で
人々が民主化を要求した
天安門事件が起こります。
これは
中国政府による
武力弾圧で
終わりましたが、
同じ年に
東欧では
ルーマニアの
チャウシェスク政権
など
独裁政権が
相次いで崩壊、
さらに東西ドイツを隔てていた
ベルリンの壁の崩壊が
続きます。
フィリピンにおける
マルコス独裁政権の
崩壊は、
革命の名に値する
社会構造の大変化を
もたらすことはありませんでしたが、
冷戦末期の世界において
民衆の蜂起を促す
口火となり、
やがて
冷戦自体を
終結させる
大きな炎となって
燃え盛りました。
「革命」が「政変」と
呼び変えられるようになったあとも、
フィリピンでは
民族主義
(ナショナリズム)
の高揚は続きました。
民衆蜂起によって
追放された
マルコスの後ろ盾に
米国の存在があったことを
だれもが知っており、
反マルコス運動は
反米運動にも
転化していたからでした。
そういったムードのなか、
フィリピンでは
新しい憲法の制定作業が
始まります。
そして
憲法制定委員会の
委員を
国民から広く
公募しました。
委員の資格は
民族主義者、
民主主義者、
愛国者であること、
知的、道徳面で優れていること
などでした。
二千人以上の
候補者の中から
上院議員の推薦
などによって
最終的に
四八人が
大統領から
委員に任命されました。
発足した
憲法制定委員会が
取り組んだ最大の課題は
米軍基地を
憲法の中でどう位置づけるか
でした。
アキノ大統領は、
八六年の政変直後こそ、
マルコス独裁体制を
裏で支えた
米国に
批判的でしたが、
次第に
米国とは
良好な関係を
持ち続けたいと考えるようになり、
少なくとも
一定期間は
? 基地存続を
容認する
姿勢になっていました。
このため、
憲法制定委員会内では
「外交、安全保障政策の権限は大統領と議会にゆだねるべ
きで、外国軍基地の問題を憲法に盛りこむ必要はない」との意見もありました。基地問題で大
統領の手足を縛らないという意味で当時「オープン・オプション」と呼ばれた考え方でした。
しかし、米軍基地反対派の委員は「基地の存在はフィリピンの指導者たちを米国の政策や利
益に従属させ、米国による内政干渉をまねく」と訴え、今後の
フィリピンは
中立
と
非同盟
を
外交の基本政策
とすべきであると
断固たる論陣
を張りました。
最終的に
基地反対派の主張は通りました。
実際の憲法を
作成した憲法起草委員会は
「外国軍
基地の原則禁止」を条文に書きこむことを決めた
のです。
具体的には、
米国との間で結ばれていた
米比基地協定が
一九九一年九月一七日に
期限切れを
迎えたあとは、
新条約を結ばなければ
外国軍基地を
フィリピン国内に置くことはできないとし
ました。
そして、新条約の承認には
「上院議員の三分の二以上の同意」
と
「議会が要求する場
合は国民投票」
が必要という非常に厳しい規定を盛りこみました。
さらに新憲法は
「非核政策
を採用、追求する」
と規定し、
領土内での
核兵器の貯蔵または
設置を禁止しました。
この新憲法制定後、
フィリピンでは
クーデター未遂事件が
相次ぎます。
最大のものは
89年
12月の
ホナサン元中佐による
未遂事件で、
このときは
マニラのオフィス街を
反乱軍が占拠、
首都は
一時
大混乱におちいりました。
一方、
基地の
即時撤退をかかげる左派は、
米軍基地の即時撤退をかかげて
全国各地でデモを
くり広げました。
米兵が町中で
殺されるテロも
相次ぎます。
きな臭い動きが続くなか、
米国とフィリピンとの間の
基地問題を
めぐる予備交渉が
90年
5月から
本格化しました。
交渉は
フィリピン側の団長が
当時のラウル・マングラプス外相、
副団長がアルフレドーベンソン保健相、米国側団長が
八九年まで国防次官補だった
リチャードーアーミテージ氏
でした。
そう、日本でもよく知られている
アーミテージ氏です。
アーミテージ氏は
その後のブッシュ政権で
二〇〇五年まで
国務副長官を務め、
在日米軍基地
問題や
日米同盟をめぐって
米側の交渉役を担いました。
ベトナム戦争従軍経験をもち、
プロレスラーのような
体格をしたアーミテージ氏は
民間人となった今も
日米関係で
大きな発言力をもっており、
「日米安保ムラ」
の守護神のような人物です。
フィリピンでもかつて、
彼は似たような役まわりをしたのです。
そして、
屈辱的な失敗を
経験しました。
彼の個人史として
非常に興味深い部分です。
予備交渉はまず、
憲法の規定にのっとり、
1947年に
結ばれた
米比基地協定の
終了を
フィリピン側が
米国側に
通告することから始まりました。
外国軍の基地をおくことが
原則禁止となり、
まだ
例外規定の新条約が
結ばれていないため、
憲法上は
当然の帰結です。
一方、
マルコス政権下で結ばれた
「ラモスーラスク協定」
では
「九一年九月一六日まで基地協定は存続する」
となっていました。
米軍基地も
まだそのままフィリピンに残っていましたが、フィリピン側は
なかば強引に、
前政権下で
結ばれた外交協定を
まず白紙に戻したのです。
そのうえで、
新条約
を結ぶかどうかの
交渉を
米国と始めたのでした。
フィリピン側の
マングラプス団長、
ベンソン副団長が
最初の「落とし所」として
提示したのは、
フィリピン国内に当時あった
六ヵ所の米軍基地・施設のうち、
クラーク空軍基地、
ジョン・ヘイ保養所
(ルソン島バギオ)
など五ヵ所は返還させ、
スービック海軍基地のみの
当面の継続使用は認める
という妥協案でした。
しかし、この提案に
アーミテージ氏は
烈火の如く怒りました。
以下はフィリピン紙
「デイリー・インクワイアラー」に
掲載された
ベンソン副団長による
当時の回想です。
私と同じ時期に
「赤旗」のマニラ支局長だった
松宮敏樹氏の著書
『こうして米軍基地は撤去された!
フィリピンの選択』
からになりますが、
非常に興味深いので
そのまま引用させていただきます。
「広い胸をいっぱいにふくらませて、彼(アーミテージ)は冷静さをなくし、フィリピンの立
場を攻撃し続けた。それから、彼は『これでわれわれの関係はおしまいだ』と怒鳴った。彼は
会談を決裂させ、アメリカに帰る、と脅しにかかった。『ワシントンと同盟国は激怒してい
る!』と言った。アーミテージは、われわれの立場〔六つの米軍基地のうち、五つを返還する
というフィリピン側の提案〕をとれば投資は停止する、と警告し、フィリピン人基地労働者は
解雇手当ももらえないだろうと脅かした」
アーミテージ氏の
この迫力に
日本の外務・防衛官僚なら、
いや、
大臣でも首相でも
震えあがりそうです。
実際、
二〇〇一年の
アフガニスタン戦争の際に
アーミテージ氏に
「ショー・ザ・フラッグ」
と言われて
日本は
自衛隊をインド洋での給油活動に
派遣しました。
03年のイラク
戦争の時には
やはり
アーミテージ氏に
「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」
と言われて
サマワに
自衛隊を派遣しました。
いずれのときも
似たようなやりとりがあった
と想像されます。
しかし、フィリピンの交渉団は
肝がすわっていました。
「マングラプス(外相)は
驚くほどの冷静さで
アーミテージの怒りに対応し、
冷静に反論し、
フィリピンの立場を守った。
・・・・・アーミテージは
しまいに冷静になった。
しかし、
このとき以降、
私は
自分の立場を押し通すことに慣れすぎた人物と
われわれは交渉しているのだ、
と思い知らされた」
マングラプス団長は
怒り狂うアーミテージ氏に
ひるみませんでした。
考えてみれば、
マングラプスは
独裁者マルコスと戦って
一四年間の亡命を
強いられた経験をもつ
当時七一歳の
老練政治家で
一国の外相、
アーミテージは当時四五歳の
元国防次官補
にすぎません。
政治家としての
格も覚悟も
違ったのでしょう。
ベンソン副団長の
「自分の立場を押し通すことに慣れすぎた人物」
というアーミテージ評も
実に言い得て
妙ではないでしょうか。
予備交渉が続くなか、
九一年六月に
フィリピンは歴史的大災害に
襲われます。
ルソン島中部のピナトゥボ火山の大噴火
でした。
クラーク基地のあったアンヘレス市、
スービック基地のあ
ったオロンガポ市も含め、ルソン島中部は火山灰の砂漠のような光景になり、一千万人以上が
被災しました。これは二十世紀最大の火山噴火で、成層圏にまで達した大量の火山灰によって
地球全体の気温を〇・五度下げたとされています。
フィリピンという国の進路も変えた噴火といえるかもしれません。
噴火からIヵ月もしない七月にフィリピンを訪れたアーミテージ氏は、なんとあっさりクラ
ーク空軍基地の一方的撤収を伝えたのでした。フィリピン人被災者の救援活動もほとんどやら
ず、火山灰で使えなくなった基地をあっけなく放棄したのです。ただし、スービック海軍基地
の継続使用は要求し続けました。
そして米比基地協定の期限が切れる一九九一年九月を迎え、憲法の規定にのっとり、上院が
新基地条約の批准を採決にかけました。
結果は上院議員二四人中、賛成一一、反対コー(欠席こと、基地存続派の票数は「上院三
分の二以上」どころか過半数にも届きませんでした。この結果、九二年一一月までにすべての
米軍基地はフィリピンから撤退します。
米軍基地撤退の決め手となった「ナショナリズムの系譜」
フィリピンが米軍基地を撤退させるにいたった最大の要因は、フィリピンの歴史のかかに連
綿と受けつがれている「ナショナリズムの系譜」でした。
アメリカがフィリピンを植民地にする過程で起きた米比戦争(一八九九〜一九一三年)では、
少なくとも六〇万人、最大でI〇〇万人ともいわれるフィリピン人が米軍によって虐殺されて
います。第二次大戦後もフィリピンには米軍基地が残っただけでなく、フィリピンにとって不
利な経済協定も結ばれました。「フィリピンは本当の独立を勝ちとっていないんじゃないか」
という不満が国民の間ではずっとくすぶっていました。
親米的な国民も多い半面、政治家や文化人が露骨に属米的な発言をすれば国民からバッシン
グされる。左派の集会であってもフィリピン国歌が歌われ、国旗が揚げられる。その点では与
党も野党も、右も左もフィリピンではナショナリズムを否定しません。
一度でも植民地支配を受け九国というのは独立運動をたたかう過程で、そうした国民共通の
民族意識が育ち、建国の精神もなんとなくできあかってくる。そこが日本と違うところでしょ
う。少なくとも第二次大戦後の日本ではナショナリズムが政治運動の核とたったことはなく、
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フィリピンが憲法改正で米軍を撤退させたのは本当ですか?
....執筆:石山永一郎(いしやま・えいいちろう)、前泊博盛(まえどまり・ひろもり)[編・著]:本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」よりイラク・アメリカ地位協定からより....
12月議会資料:調査報告チェルノブイリ被害全貌 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. チェルノブイリ