組織は

 

大きくなるほど方向を変えるのに

 

時間を要する。針路を変えられなくなる。
 

しかも、組織は変化しなければならない。変化とイノベーションの主導権をとらなければならな
い。そのためには、知識労働者という稀少で費用のかかる資源を成果のあがらない分野から成果と
貢献の機会のある分野へと移す必要かおる。
 
組織とは成果を最大にするための道具である。特に今日の組織は、あの人間に特有の資源、知識
の力を最大にするための道具である。
 資源を浪費するようなことは直ちにやめる能力が必要だということである。組織
たるものは、何を目的とするにせよ、昨日の仕事から逃れ自らの千1 ルギーと資源をより生産的な
新しい仕事へと動員できなければならない。機会をとらえようとするのであれば、非生産的なもの、
陳腐化したものを捨てなければならない

意識して非生産的なものや陳腐化したものを捨てている組織が、新しい機会見不足することはな
い。ア千デアはいくらでもある。このことは、組織が必要としかつ利用することのできる種類のア
イデア、現実に成果をもたらすア千デアについていえる。組織にとっての問題は、すでに行っているこ
との続行を迫る慣性にある。常に組織は、昨‐の仕事に追われ、その挙げ句不妊となる危険を抱え
ている。何もやめられないことが政府の最大の病いである。

これに対し、成果を重視する者は、人間社会の試みにおいては成果の八〇‰は最初の二〇%
の努力によってもたらされ、残りの八〇%の努力は二〇%の成果しか生まないとする。さらに
は最後の五%の成果を得るには九五%の努力を必要とするという。
  前者の考えでは努力が意味をもつ。後者では結果が意味をもつ。マネジメントの善し悪しも、
前者では秩序によって、後者では活力によって判断する。前者では、管理が組織の力を衷す。
後者では管理は後方支援にすぎず、腐敗を防ぐための必要悪にすぎない。
前者は、平凡な者でも結果を繰り返し生み出せるようにするという。この考えは、人間、特
に組織の人間についての現実的な見方に立つ。後者は、創造的な玉1 ルギーを開放させるとい
う。これまた人間についての現実的な見方に立つ。
二つの考えは、私白身は後者を品厦にしているものの、いずれもが必要である。
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知識の生産性をあげるためのマネジメントについても理解は十分進んでいない。異な
る知識と技能をもつ者を、共通の目的のために共同させるための方法がわかっていない。知識労働
者が今日の組織を可能にした。逆に、組織の登場が、知識労働者のための仕事と機会をつくった。
しかし、いかにして知識を生産的にするかについてはわかってはいない。偶然や勘に頼っている。
  要するに、マネジメントについては学ぶべきことがたくさんある。
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組織に働く人たちを生かす
  組織の機能に関わる第三の側面も、第二の側面たる実行と同じように、組織による違いはあまり
ない。それは組織に働く人たちを生かすことである。

 

組織とは法律上の擬制である。組織そのものは、計画できず、決定できず、行動できない。計画
し決定し行動するのは、組織に働く一人ひとりの人間、組織の什事ぶりと成果に影響を与える大勢
の人たちである。
  私か『経営者の条件』において指摘したように、知識組織ではあらゆる知識労働者が平グゼクテ
イブである。組織が仕事をするために必要とする人の数はきわめて多く、さらに増えつつある。組
織は、組織を動かす膨大な知識労働者の能力に依存する。逆に、知識労働者の仕事ぶりと満足度は、
組織に大きく依存する。
  一人ひとりの人間が成果をあげることは組織にとって必要なだけではない。働く人回一人ひとり
にとって必要である。なぜなら組織は、社会が必要とするものを生み出す手段であると同時に、組
織に働く人たちにとっての手段だからである。
  成果は自動的に生まれるものではない。ハウツーによって簡単にできることではない。試行錯誤
で得られるものでもない。組織はわれわれ人間にとっての新しい環境である。したがってそれは新
しい資質を求める。同時に新しい機会を与える。行動の変化よりもまず理解の変化を迫る。
  成果をあげるには、適切なことを適切に行うための意思決定の能力が必要である。そのようなこ
とは、かつて必要とされなかった
?問題は、何か組織の社会的責任かではなく、何が組織の正しい権限かである。自らの機能の
ゆえにいかなる影響を社会に与えるかである。

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組織の責任に関する第一の原則は、従業員への影響を可能なかぎり抑えることであ
る。同じことは組織が影響を与える他のあらゆるものについていえる。社会やコミュニティに対す
る影響は干渉である。それが許されるのはごく限られた場合だけである。
  特に従業員に忠誠を求めることは許しがたいことであり正当性を欠く。組織とその従業員との関
係は契約上のものであって、あらゆる契約の中で最も狭義に解釈すべきである。このことは、組織
と従業員の問に愛情、感謝、友情、敬意、信頼があってはならないということではない。それらは
価値あるものである。だが、いずれも付随的であって、勝ち取るべきものである。
 
予防する
  組織の責任に関する第二の原則は、さらに重要なこととして、自らのもたらす影響を事前に知り
予防することである。先を見て自らのもたらす問題を検討し、好ましからざる副産物を防ぐことは
組織の社会的責任である。
  これは組織自らの利益のためでもある。好ましからざる影響を自ら防がなければ、問題のほうか
らやってくる。法律、規制、干渉がもたらされる。社会への害は事件となる。事件から生まれた法
律は問違いなく悪法となる。一人の悪人を引き立てるために罪なき者九九人を罰する。しかもそれらの法律は、よい行動を罰する。そのくせ悪い行動を防げない。理性ではなく反感に基づいて制定
されるからである。
変革社会の市の責任とコミュニティに
おける絆、ボランティア、市民性の回復
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この社会を生き抜くための舵取りの方向に市政を。
民営化保育園の市の社会的責任とは何か、アウト
ソーシングの必要性、ばらまきという民主主義の
否定を止め、行うべきこと、救済サービス、コミ
ュニティの絆と人に働きかける社会サービス。NPO
による市民性の回復、市民としてのボランティア。
高度の基礎教育を。学校のあり方。教養ある人間
の条件とは。専門知識を一般知識とする必要。
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組織の正統性今日、組織はきわめて多くの人たち特に教育ある人たちを雇用する。当然のことながら彼らに対
し大きな権限を行使する。しかもほとんどの人たちにとって、自らに対しそのような権限を行使す
るものはほかにない。組織の権限と了及ジメントの正統性が大きな問題となる。これ
は多元社会に特有の政治学的な問題である。
  とはいえ、今日の多元社会における組織はコミュニティそのものではない。コミュニティの目的
はそれ自身の中にある。
これに対し組織の目的はそれ白身の中にはない。成果もない。内部にある
のはコストだけである。

組織は統治体ではない。組織の仕事は統治ではなく
機能である。その権限と権威は社会の特定のニーズを満たすためのものである。その権限は社会やコミュ于アイには及ばない。
  社会やコミュニティのもつ資源全体を支配することもない。組織の領域は特定の社会的ニーズに
限られる。重要ではあるが限定された仕事のために資源を支配するだけである。その能力の如何に
かかわらず、すべては限定された仕事のためである。その支配下にある資源も限定された目的のた
めにある。
つまり組織は、自らの地位、権限、権威の根拠を伝統的な意味における正統性に置くことはでき
ない。被支配者の同意さえあれば権力をもてるわけではない。なぜならば、今日の被支配者は支配
者に完全に依存する受益者ではないからである。
現代の組織が、そこに働く者に位置づけと役割を与えな
ければならないことはすでに明らかである。しかし働く者のほうも、自らのものではない目的の実
現のために働かなければならない。
  彼らを満足させることは、組織にとっては目的でも基準でもない。そうであってはならない。組
織は、組織の外の人たちを満足させ、組織の外の目的のために働き、組織の外で成果をあげる

織がそこに働く者のためにできることは、組織自体の機能と、彼ら働く者の目的、価値、ニしスと
を調和させることである。
  しかしその場合でも、中心は組織の機能のほうである。組織の機能が与件である。目的が与件で
ある。それは組織に働く者の私的な利害とは関係ない。しかも具体的かつ限定的であって、社会、
コミュニティ、}人ひとりの人間のさまずまなニーズのうち一つに的を絞ったものである
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コミュニティの自治によって行うべきことは少なくない。
  賢明な経営陣は経営特権などという言葉は決して口にしない。考えもしない。自らの仕事に
直接関係する分野に自らを限定する。他のものからは逃れようとする。学生の規律など組織の
目的の達成に直接関係のないものについては関係ないという。
  しかも、組織に働く者は可能なかぎり意思決定プロセスに参画させることが望ましい。さもなけ
れば、組織の現実について十分な理解を得させることができない。

 

世界大戦前には、あらゆる社会が草原のようであって、目に見える最大の存在
が一人ひとりの人間だった。社会的な課題のほとんどは家族単位で処理されていた。
政府でさえ、
いかに強大に見えようとも、今日の基準からいえばこぢんまりしたものだった。その後の政府の成長は驚くべきものだった。今日では最小の県
の県庁さえ、世界の覇権を争っていた頃の日本帝国の全省庁に匹敵する。


五〇年前の病院では、患者
一〇〇人につき食事や洗濯の人たちを含めて三〇人が働いていた。今日では医師、X線技師栄養士、ソーシャルワーカー、物理療法土など三〇〇人が働いている。
?あらゆる組織が巨人化したという事実ボランティア組織や慈善団体も巨大になっている巨大化は経済だけではない。いくつかの労働組合は大企業並みの経済力をもつようになった。最大の変化は今
日の社会的機能のすべてが、それら大組織によって果たされるようになったことにある。
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政府は領主であったとしても、主人ではない。政治理論や法理論が何を説こうとも、政府の機能
は調停人、取りまとめ役、あるいはせいぜいリーダー役程度である。
  しかも今日、皮肉なことに、政府はあまりにも多くのことをあまりに行いすぎて問題を起こして
いる。もはや政府は、本当に意味ある存在でありつづけるためには、他の組織に対し仕事を委譲していかなければならなくなっている。

新種の多元社会
  こうしてこの半世紀の間に出現したものが新種の多元社会である。

今日の社会が無数の組織からなる多元社会
であって、一つの巨大な太陽と惑星群ではなく無数の太陽群からなる星雲であるとする認識、が必要
である。

???今日の組織社会に似たものさえ知らないわれわれとしては、早急に多元社会を理解し多元社会の
ための政策を確立する必要かおる
。多元社会の構造を把握し多元社会に特有の問題に対処しなけれ
ばならない。
 
人が一人で生きていけないことは目新しいことではない。隠者を含め、あらゆる者が他の者が働
いてくれているから生きていける。通常依存関係とは物のやりとりをいう。もちろんその種の依存
関係も重要性を増している。特に巨大都市はそのような活動の絡み合いによって成立している。
 しかし多元社会における組織間の共生関係の多くは、物のや9とりを超える。ある組織は自らの
機能を他の組織に渡している。あるいは自らの仕事に必要な機能を他の組織に任せている。機能の
絡み合いが深まっている。
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組織の目的を定めるための純粋に科学的な方法はない。それは価値判断の問題であり、したがっ
て政策上の問題である。その理由は、行うべき決定がどうしようもない不確実性のもとにあるから
であり、未来に関わることだからである。われわれは未来についてはいかなる事実ももちあわせて
いない。当然価値観は対立し計画は衝突する。
目的に関わる二つの決定
  しかし二〇世紀の政治学者が、価値、政策、イデオロギーへの関心を捨て意思決定のプロセスに焦点を合わせたことは、あながち無責任とはいえない。目的に関する最も困難で最も重要な決定は、何をなすべきかについてではないからである。
  それは第一に、もはや価値なしとして何を捨てるかという廃棄についての決定であり、第二に、
何を優先するかという集中についての決定である。これら二つの問題は、イデオロギーに関わる決定ではない。判断ではある。正しい情報に基づくべき判断である。またそうあるべきものである。
意見や感情に従うのではなく、代替案を明らかにして行うべき判断である。
何を捨てるかという廃棄の決定ほど、重要でありながらなおざりにされているものはない。
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社会のニーズを機会とする
 組織は、自らが社会にもたらす影響についての対策を含め、社会のニしスや要求の満足を自らの
機会としてとらえることが理想である。多元社会においては、あらゆる組織か本来の意味で企業家
でなければならない。
  生産性の意味は組織によって違う。当然成果の測定の仕方も違う。しかしあらゆる組織が組織と
しての共通の責任をもつ。社会のニーズや要求を満たすことを自らの業績に転換することこそ、企
業にとっての倫理的責任である
。教育てあれ、住宅であれ、彼らのニーズに応えることが、都市の問題
の解決だけでなく、新事業の創造につながるはずであると論じている。彼はいわゆるリベラル
ではないが、この提案は公民権運動のリダブルのものよりも、はるかに革新的である。
  あらゆる組織が社会のニーズを事業上の機会としなければならない。まさにそれこそが彼らの責務である。一流の人材を育てなければならないという今日の社会的
なニーズも、学校にとっては企業家精神を発揮する機会である。
  社会的なニーズを把握し事業機会へ転化するという責任は、今日の断絶の時代において、特に大
きな意味をもつ。
これまでの半世紀
、そのような機会はあまりなかった。あらゆる組織にとって重
要なことは、すでに行っていることをさらによく行うことだった。企業、病院、学校のいずれにお
いても、新しいものに取り組む機会はあまりなかった。
それらの二しスが満たされたのは、負担すなわち社会的責任としたからではなく、機会としたか
らだった。言い換えるならばまさに機会を求めることが組織としての責任であり倫理である。
とはいえ、組織が自らの強みでない領域にある問題に手を出すことは、社会的に責任ある行動と
はならない。自らの仕事に集中して社会のニしスを満たすとき、初めて社会的に責任ある行動とな
る。社会のニーズを自らの業績に転換したとき、最も責任ある行動をとったことになる。
 そもそも社会の問題に敏感であることは、組織そのものの利益である。社会のニーズは、放置し
ておくならば社会の病いとなる。企業、病院、大学、政府機関のいずれであるうと、病める社会に
おいて栄えることはない。

??社会としては、組織のリーダーに対しては社会的な問題の発生を予期し、その解決
のために働くことを期待する権利をもつ。社会は、彼らに対しリーダーとしての責任を期待するこ
とができる。人間の生活の質に責任をもたせている。
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コミュニティの目的
はそれ自身の中にある。